淡くも確かなつながりを 8
ひとまず江之島の奥まで行って、戻りながらいろいろと見て回ろうという話になったため、俺たちは人の流れにそのまま従って江之島のくねくねした道を歩いていた。
有料で入れる庭園や展望台を無視して、俺たちは江之島の最も奥にある最後の社へ向かう。
「そう言えば、なんで神社がいくつもわかれてるの?」
ふと、疑問に思って先頭を歩くソウに尋ねてみた。
「なんか違いがあるんじゃねぇの? よくは知らんけど」
肩越しに振り向きながらそんな適当なことを口にするソウ。一応一番大きな社でお参りはしたものの、いったいそこに何の意味が込められているかは全く分からなかった。
「先輩たち取材って言ってたのに何も見てないじゃないですかー」
そんな俺たちに向かって呆れたように今日この日を最も楽しみにしていたのであろう後輩が呆れ交じりに言う。
「立花さんは知ってるの?」
「はい、書いてありましたよ?」
知っていることがさも当然と言わんばかりに首をかしげる立花さん。前日の夜テンションが上がってメッセージを送ってきただけのことはある。
「江之島の神社はそれぞれ祀ってる神様が違うんですよ。だから三つの場所にそれぞれ三人の神様がいるんです」
すごいでしょ、と言わんばかりにおそらくは昨日ネットで調べたデアあろう知識を披露して胸を張る立花さん。その様子は主人に褒めてもらいたそうにしている犬によく似ている。
「へー、どんな神様を祀ってるの?」
「え、そ、それは……」
気になって尋ねてみると、立花さんは急にどもってしまった。……まぁ、一朝一夕で身に付く知識などそんな程度のものだろう。逆に何もかも知っているほうが逆に怖い。どれだけ江之島大好きなんだよって話だ。
「で、でも! 美しい神様っていうのは知ってますよ!」
「あ、そうなの? 女神様とか?」
「女神様かどうかはわかりませんが、これです!」
そう言って立花さんは俺に向かって自身のスマホを突き付けてくる。そのスマホの表示されていたのは何やら説明書きの記されている看板だった。いきなり突き出されたそれにうまくピントが合わず、かろうじて読むことのできた一文を口にする。
「美しい恋がしたい?」
「そうです!」
そう言った立花さんは俺に突き出していたその画面を確認しながら説明を始める。
「美しい弁才天様にあやかってきれいになりたい、という女の子の願いの象徴としてこのマークがあるらしいです!」
そう言いながら再度その画面を俺に突き付けてくる。頑張ってピントを合わせてみるとハートマークの下が開いたようなデザインの模様がピンクで描かれていた。これが立花さんの説明にあったマークとやらなのだろう。
俺はほーと口を開けながらそれを読んでいく。
「あ、なんか弁才天様っていう神様を祀ってるんだね」
立花さんの説明とそこに書かれた文章を読み取ってなんとなく理解する。正確には少し違うようだが、まあその辺は難しい漢字が並べ立てられていてよくわからないので置いておこう。
「あ、そうみたいですね。まぁ美しい女神さまですよきっと!」
話を始めた立花さん自身あまり深くは理解していないようでそんな薄っぺらいことを口にする。まぁそもそも、江之島がデートスポットになるくらいだから祀られている神様はきっと恋愛の神様か何かなのだろう。……いや、もしそうなら神様が嫉妬して観光に来たカップルを別れさせるというジンクスもなんだかよくわからない感じになってしまうな。もしかしたら全然関係のない神様かもしれない。
結局どんな神様を祀っているのかわからないままに勝手な妄想を繰り広げる。
会話のきっかけを与えてしまったのは俺自身だけれど、さして興味があったわけでもないのでしばらくすれば簡単に忘れてしまうとるに足らない会話なのだろう。それを自覚しながらも会話は途切れることなく続いている。取材という名目で訪れたはずなのに、ただ皆で駄弁りながら観光しているだけだ。もっとも、観光と呼べるのかどうかはわからない。本当に観光をしていると豪語できるのは、今俺たちの前方に見える階段で何かを取り囲んでいる人たちのほうなのだろうなとその人の塊を見つめる。
「先輩、あれなんですか?」
同じようにそれを見ていた立花さんが俺に尋ねてくる。立花さんだけでなく、俺たち六人の視線が自然とそれに集められる。行列のできる名店などはついつい人目を呼び込んでしまうが、これはその現象と同じものだろう。
その人垣をよけるように俺たちは階段を下っていき、通り過ぎる瞬間に人の間からちらりとそれの正体が垣間見えた。
「あ、猫か」
そう口に出した通り、人が集まるその中心には白と茶色の猫が寝そべっている姿があった。俺たちは誰からともなく足を止めて観光客にちょっかいを出される猫を見つめてしまう。
その猫は決して攻撃的に威嚇したり逃げ出したりはしないものの、自分に寄ってくる人間たちに迷惑そうな視線を送っている。
「総、止まるな」
「あ、わりぃ」
そんな猫に気を取られてしまった俺たちは、最後尾にいた真琴の呼びかけでようやく通路を塞いでしまっていたことに気が付いた。ソウだけでなく俺たちは六人そろって慌てて階段を下りていく。
名残惜しそうに猫を見つめるが俺たちが離れて行ってしまっているためその距離は縮まることはない。
ふと見ると、俺と同じように猫を見つめる視線があることに気付く。それは俺のすぐ後ろにいた永沢さんのものだった。彼女は猫に触りたかったのだろうか。後方へ向けられた視線には名残惜しむような切なげな色が見えている。
また、自分のわがままでみんなを振り回してはいけないと口には出せなかったのだろうか。少し悲しげに見える彼女の横顔を見てそう思ってしまう。
気を遣い過ぎて自分の気持ちをうまく言葉にできない彼女を見て、ああ、周りがそれをかなえてやれればいいのにと他人事のように思う。そう思うのなら自分自身で何かしてあげればいいだけなのに。
しかしそれが江之島に祭られる神様に届いたのかどうかはわからないが、人垣の中心にいた猫が迷惑だと言いたげにその輪の中から飛び出した。
「あっ」
それを彼女も見ていたのだろう。小さな歓声を上げてその猫を迎え入れようと若干歩調が落ちる。
人垣をはい出た猫はどこへ向かっているのか定かではないものの、確実に俺たちのほうへとやってきていた。
そして俺たちのすぐ横に付くと、そのままスラロームを縫うように俺たちの一団の間を縫って歩く。そうして先ほど声を上げた彼女の少し前を導くように歩く。
それを見た彼女は、嬉しそうに微笑みを浮かべた。
その笑顔がとても幸せそうで、つい見とれてしまいそうになる。きっとそれを見ていた誰もが思ったはずだ。そうやって猫に導かれるように歩く姿が、あまりにも絵になっていて、あまりにも自然に見えたから。
「永沢さんって、猫に好かれるんだね」
別に会話をしようと思って口を開いたわけではないが、気付けば俺の口からそんな言葉が出ていた。
「あ、えっと。私、家で猫飼ってるんです。だからたぶん、そういうのがわかるんだと思います」
なるほど。確かに猫に限らず犬だって、家で飼っていて慣れている人にはあまり警戒心を抱かなかったりする。だから彼女が猫と一緒にいる姿が自然だと感じたのだろう。
俺は猫とともに階段を上っていく彼女を横目で見つめる。ただ猫と歩いているだけ、特別なことは何もないのになぜだろう、とても幻想的な雰囲気すら感じるのだ。
そんな俺の視線をくすぐったく思ったのか、茶色の毛を揺らしながら猫が俺のほうを振り返る。俺は反射的に笑顔を浮かべて答えた。
するとその猫はさっきまで永沢さんに合わせていた歩調を崩してさっさと先へ逃げて行ってしまった。
「……先輩は、あんまり猫に好かれなそうですね」
猫に気を取られて俺の補強も落ちていたのだろう、いつの間にか隣を歩いていた永沢さんに笑われてしまう。俺は苦笑いを浮かべながら言う。
「昔犬飼ってたから、その名残かな」
「あ、そうなんですね。……確かに犬飼ってる人にはあんまり寄っていきませんよね」
「そうなんだよね。昔からあんまり猫には好かれなくて」
そう言いながら去っていく猫の後姿を見送る。永沢さんも同じように、名残惜しそうに猫の背中を見送った。
俺たちはもう見えなくなってしまった猫の後を追うように最奥の社へと向かう階段を上る。
「そう言えば、永沢さん午前中の用事って何だったの?」
永沢さんと言葉を交わしていたからか、またしても俺は興味本位で口走ってしまう。人のプライベートにずかずかと踏み込んでしまう自身の悪い癖だというのに一向に直ってはくれない。
「あ、それは、ちょっと病院に行ってまして」
「えっ、病院!? 永沢さんどこか悪かったの!?」
かなり衝撃的な言葉を聞いてしまったせいで声が大きくなってしまう。もしも彼女の体に何かしらの異変が起きているのであれば今日の階段ダッシュなどさせてはいけないものだろう。俺は早くも罪悪感にドキドキしながら永沢さんに訊き返した。
「あっ、違います! 私じゃなくて、猫のですっ」
すると永沢さんも慌てて訂正する。焦って目を大きくしている姿がなんとも少女じみていて可愛らしい。
「あ、なるほど、動物病院か」
俺が確認のように呟くと永沢さんがうなずいてくれる。
永沢さん自身が体調を崩したりしているわけではないと知って安心するが、それでも安心しきってしまうわけにはいかずに俺は尋ねた。
「永沢さんの家の猫、どこか具合が悪いの?」
「あ、違います。その、もうお爺ちゃんなので体が弱くて、たまに見てもらってるんです」
「そうなんだ。今何歳なの?」
「今十四歳です」
「えっ、十四?」
その数字を聞いて驚く。猫ってそんなに長生きするものなのだろうか。犬なんかだと十四歳なんてなかなかいかない。小型犬ならば比較的長寿ではあるが、大型犬ともなれば十四まで元気でいることのほうが少ないだろう。
「はい。なので家ではもうほとんど寝てるんです」
「あー、そうなんだ」
猫の寿命も犬といそんなに変わらないのだろう。先補と彼女自身がもうお爺ちゃんだと言っていたし、ほとんど寝ているということはもうだいぶ長生きをしているのだろう。
「いつも永沢さんが世話をしてるの?」
今日、永沢さんは家族の誰かに頼むでもなく自分自身で動物病院まで愛猫を連れて行った。もともとその予定であったのはわかっているが、その後に文芸部で出かけることはわかっていたのだから、家族の誰かにお願いすることもできたはずだ。しかしそれをしなかった。だからよほどの思い入れがあるのかと思い尋ねてみた。
「そうですね。私が飼いたいって言って飼い始めたので」
「あー、そうなんだ」
確かにそれならば自分で世話したくなるだろうししなくてはいけないだろう。自身が飼いたいとわがままを言ってしまった以上、その責任は取らなくてはいけない。
「はい。私の、お願いだったので」
誕生日かクリスマスプレゼントにでも強請ったのだろうか、彼女は恥ずかしそうに笑った。その自嘲気味の笑みが飾り気を知らない無垢な少女のようで一瞬どきりとしてしまう。
けれど、少し意外だ。誰かに迷惑を掛けたりするのをひどく嫌う彼女がわがままを言って飼ってもらったというそのことが少し意外に感じる。
まぁ、きっと家族だからという甘えがあるのだろう。俺たちは文芸部の仲間ではあるが、やはり家族ほどの強固な絆ではない。だから、俺たちには遠慮してしまっても、家族にはそれなりにわがままを言ったりもするのだろう。
俺は恥ずかしそうに笑う彼女の笑顔を見て笑顔を返す。
気付けば、社などとっくに通り過ぎていて岩場へと続く階段を下ろうとしていた。
「きゃッ」
「永沢さん?!」
それに気づくのが遅れたらしい永沢さんが段差に気付かずに足の裏で虚空をつかもうとしてバランスを崩してしまう。俺は反射的にその体を支えようと手を伸ばす。幸い彼女が俺のほうに倒れるようにして転んだので簡単に受け止めることができる。
俺はバランスを取ろうともがいた彼女の手首を強引に掴んで受け止める。
胸に小さな衝撃を感じるとともに永沢さんの背の中ほどまである黒い髪の毛がふわりと踊って女性特有のいい香りを漂わせる。
「ぁ、永沢さん大丈夫?」
ほのかに甘い香りにどきどきとしながらも胸の中にいる永沢さんに尋ねる。
「ぁ、はい……」
「……? 永沢さん、大丈夫?」
永沢さんの様子がおかしいと思い、胸の中にいた永沢さんから少し距離を取って様子をうかがう。
「永沢さん?」
「……ぁ…………っぁ……」
三度、彼女の名前を口にしながらその顔をのぞき込む。しかしそうした瞬間、自身が未だ握り続けている彼女の手首から、小刻みな振動が伝わってきた。
「え?」
それを不思議に思ってその手に感じる振動へと視線を向けると、彼女の手が、腕が、肩が、何かに怯えるかのように小刻みに震えていた。
階段から転げ落ちそうになったのがそれほどまでに怖かったのだろうかと思いながら彼女の手首を握る自身の手を見る。
「……あっ、ごめん! 大丈夫!?」
瞬間、俺は握っていた彼女の手首を放して飛びのくように彼女自身からも離れる。
彼女が震えている理由を、数秒遅れて理解した。
俺が、彼女の手首を強引に掴んでいたことに。
それは、いつか彼女が体験してしまった負の記憶であることに。
漫研との事件があったあの日、永沢さんは漫研の先輩に手首をつかまれ逃げられなくなっていた。それと同じことを、今俺は彼女に感じさせてしまったのだ。
「永沢さん、本当にごめん。大丈夫?」
彼女にこれ以上の恐怖を与えてはいけないと思いなるべく声を落として、可能な限り優しい声色を心がけて彼女に問いかける。
「あ、す、すみませんっ。大丈夫です、本当にっ」
彼女も俺がなぜ謝っているのかを理解したらしく必死に大丈夫だと口にする。
けれど、彼女の震えは止まったりはしない。
たとえ不慮の事故であったとしても、ただ助けようとして起きてしまった不幸な出来事だとしても、それが彼女の傷に触れてしまったのは紛れもない事実だった。
俺は自身の手を強く握りしめながら震えを止めようとしている彼女を見つめる。その視線に気付いた永沢さんが張りぼての笑顔を浮かべる。
ああ、やってしまった。
彼女に、そんなつらそうな笑顔を向けられて申し訳ない気持ちで体中が埋め尽くされる。
さっきまで愛猫の話を、好きな動物の話を楽しそうにしていただけだったというのに。それが見事に崩れ去ってしまった。
「す、すみませんっ。これはそういうことじゃなくて、本当に大丈夫ですっ」
「あ、いやいいんだよ。こっちこそごめんね、うまく助けられなくて」
焦りながら必死に弁解しようとする永沢さん。そんな彼女に俺は今できるだけのせい一杯の笑顔を浮かべて答えた。きっとそれは、満面の笑みとはとても呼ぶことのできないものだったに違いない。俺がさっき彼女の笑顔を見て感じたのと同じものを、彼女も感じただろう
「足くじいたりしてない?」
「あ、大丈夫です……」
だから、俺はそれを隠すように彼女にしゃべりかけて足を動かす。少し先まで行ってしまったソウたちに追いつこうと早足に階段を下りて行った。なるべく彼女のことを横目で見つめて気遣いながらも、今起きてしまったことをぶり返すことのないように自信を戒めるために唇をかみながら。
そしてそんなタイミングで、今更ながらに今日の昼に決意したことを思い出した。今日は彼女に言いたいことがあった。聞きたいことがあったのだということを。
けれど思い出したところで、もう遅かった。隣にいる彼女はいまだに自身の手首を自身の熱で温めるように握りしめている。
彼女と交わしたかった言葉は、簡単に口に出すことはできなくなってしまった。




