最初の一歩 8
一学期の最終日から一週間。夏休みに入って二回目の文芸部の部室はわずかに人口密度が下がっていた。
「美香は小説書いてみようとか思わないの?」
「私はとくには思わないですね。先輩たちが書いてるの読むので十分です」
「でも文化祭の部誌に何かしら掲載するからその時は書いてもらうし、見よう見まねで一本書いてみたら?」
「んー、でも書きたい話もないですしとりあえずは保留でお願いしますっ」
俺の横では少し距離が近くなったのか呼び捨てで立花さんの名を呼ぶソウが仲良さげに世間話を展開させている。そんな二人をしり目に俺は今日も一週間前と変わらず原稿用紙にシャーペンを突き立てて頬杖をついていた。
教卓では真琴がパソコンをいじっている。隣にいるソウもその前にいる立花さんも前と変わったところは見られない。これが数週間前までの文芸部の日常だったのだから別に違和感を覚えるようなことではない。少し時間が戻っただけ、ただそれだけなのだから。
夏休みに入る前まで俺の目の前にあったはずの人影が姿を見せなくなってから一週間、俺は何度も確認するように自分の目の前の席をチラチラと見ていた。
夏休み二日前のあの日、桐谷先生に連れられて文芸部を出て行った永沢さんは桐谷先生の言った通り一時間ほどで部室へと帰ってきた。たった一時間、日差しも大きく変わってはいないそれだけの時間の中で、永沢さんの表情は大きく変わってしまっていた。
文芸部にやってきた当初のように顔を俯かせ、漫研との事件が起きたあの日のように暗く沈んだ表情で、重そうな足取りで永沢さんは戻ってきた。
その様子を見て俺とソウはすぐに察することができた。どんな話をしたのかまではわからないが、永沢さんにどんな心の変化があったのかは容易に想像がついた。
数日前の事件を知らない立花さんと間城の二人は大丈夫と口にしながら永沢さんに駆け寄って行った。しかし永沢さんは心配を掛けたくないと思ったのか張りぼての笑顔をまとって大丈夫と口にした。
そんな表情をされれば俺やソウだけでなく立花さんたちにも何一つ大丈夫なことなどないと理解できたようで、何があったのか聞きだそうとした。しかし彼女は大丈夫、平気だからと繰り返すばかりで決して答えようとはしなかった。
真琴もその時気を遣ってくれたのか、はたまた興味があっただけなのかはわからないがパソコンを操作する手を止めて教卓のところから目線をこちらに向けてくれていた。
なんとなく事情を理解していた俺とソウは何か口にするでもなくただその光景を見ていた。俺の表情は永沢さんのそれにつられるように暗くなっていったが、ソウは気分を切り替えるためか大げさ息を吐き出していた。
ひとしきり間城と立花さんの問いかけを受け流した後、永沢さんは俺たちのほうへ視線を向けて頭を下げた。迷惑をかけてしまってごめんなさいと。俺もソウも気にしなくていい、迷惑なんて思っていないと口にしたが、永沢さんの苦笑いを見るにそれは永沢さんの心には届かなかったのだろう。
そしてその日の部活を最後に永沢さんは文芸部に顔を出さなくなった。
この学校は部活動が義務化されている。そのためどこの部活にも所属しないということは許されていない。彼女は文芸部を抜けたのではなく、ただ単に来なくなっただけだ。
部活の前日には必ずソウのスマホに連絡が入る。部活を休むという連絡が。
理由は特に書かれていないらしい。体調が悪いわけでも、家の用事というわけでもないのだという。彼女が部活に来なくなってしまった理由を知らないまま一週間。七月ももう終わるという時期に、風通しの良くなった部室は少々寂しく見えた。
「……ふぅ」
別に物語の構成を考えていたわけでも、言葉遊びを模索していたわけでもないが俺は原稿用紙に向かってため息を吐き出した。
「なかなか進まなそうだな」
そんな俺のため息を小説に対するものだと取ったらしいソウが、頬杖を突きながらニヤニヤして話しかけてきた。
「あ、うん。書き出しがさ」
適当なことを口にしてはみるが、書き出しどころか登場人物、時代背景、コンセプトやら何やらまで全く考えていない。当然何一つ書けることなどなく、悩むことなど初歩の初歩、書きたい物語を夢想することくらいだ。
「まぁ、書き出しは悩むよな。会話文から入ったらどうだ?」
「会話文か……」
ソウに言われて俺は原稿用紙の一番上にカッコを書き足す。しかしどんな人物を登場させるかも決まっていないので、当然どんな会話をさせるかなど当然考えてもいない。カッコだけが書き足された原稿用紙はまたしても俺がシャーペンでチクチクと悪戯するのに甘んじるだけになってしまう。
そしてまた視線を自分の目の前へとむける。少し離れた教卓でパソコンを操作する真琴が見える。本来ならば一人の後輩の影になっていて角度を変えなければ見えないはずなのに。
「はぁ……」
またため息を吐いて視線を落とす。このままではいけないと手にしていたシャーペンを置いて自分の鞄に入れっぱなしにしている花言葉の図鑑を取り出す。
別にそれをもとに書き出そうと思ったわけではない。ただ自分の頭にわだかまっているものを少しでも意識しないようにと思いながら図鑑を開いた。
いつまでもこんな風に気にしていてはいけない。幽霊部員なんてこの学校ではさして珍しいものでもない。間城だって夏休みに入ってからまだ一度も部活に顔を出していない、それと大きな違いなどないはずだ。
気にすることではない。気にしても仕方ない。だから変に気にかけ過ぎないようにするのが正しいはずだ。永沢さんが来なくなった理由をはっきりとは知らないけれど、興味本位でずかずか踏み入ってはいけない。そんなことをすればまたいつかのように永沢さんの傷をえぐり、泣かせてしまうことだってあるかもしれないのだから。
いくら考えても意味などないと自分に言い聞かせる。なぜなら俺は永沢さんと連絡を交わす手段を持ってはいないのだから。だから、これ以上悩むな。悩んでも永沢さんが部活に顔を出してくれない限り自分にできることは何もないのだから。
部活に顔を出してくれれば自分に何かできるかもしれない、そんな風に驕ってしまっていることにすら気付けないほど俺は彼女のことでいっぱいになっていた。
「まぁ、あんま焦んなくてもいいんじゃねぇの。期限があるわけじゃないんだし、文化祭までに一本あげてもらえればいいしよ」
「……そうだよね」
俺は適当な合図地を打ちながら開きかけた図鑑を机の上に置いた。一人で何かをしても気がまぎれることはない、むしろ考え込んでしまう。ならばソウたちの会話に加わったほうがいくらかマシになるだろうと思って口を開いた。
「立花さんは小説書いたりしないの?」
「ついさっき総先輩にも同じこと聞かれましたよー」
「あ、そうだったんだ。なんかごめんね」
「いえいえ、気にしないでください」
笑顔で答えてくれる立花さん。さっきまでのソウたちの会話を聞いていなかったわけではないのに同じことを繰り返し聞いてしまうとは、自身の自覚の何倍も姿の見えない彼女のことを気にしてしまっているのだとあらためて気づかされる。
気を紛らわせるために会話に加わろうとしたのに、たった一言口にしただけで永沢さんのことを意識してしまう。まるで逆効果だ。
するとヴヴッ、という振動音が鳴った。自然と俺の視線はその音のほうへと向けられる。見ると立花さんの傍に置かれていたスマホがピコピコと点滅している。
「あ……」
何か気になっていることでもあったのか、少し慌てたようにそのスマホを手に取ると素早くタップする。いったい何があったのだろうと思っていると立花さんは少し悲しそうな顔をした。
「……どうかしたの?」
気になった俺はつい尋ねてしまった。人のプライベートにずかずか踏み入るようなことだというのについ何時ものように、興味本位に尋ねてしまった。
「あ、えっと…………楓とちょっとやり取りしてて」
立花さんは話すかどうか少し迷ったのか、数瞬の間を開けて答えてくれた。
「あ、そうなんだ……」
俺はそれにどう答えていいのかわからずそんな曖昧な返事をするだけだ。
どんなことを話していたのか尋ねていいのか、何がきっかけで今彼女と連絡を取り合っているのか、なぜ焦るように彼女からのメッセージを確認したのか。会話を掘り下げてしまってもいいのかと、様々な迷いが俺の中に沈殿する。
会話が途切れてしまい、部室内がやや重い空気に包まれる。真琴がキーボードを打つ音もどこか遠くに聞こえてしまう。外から聞こえる蝉の声など、まるで別の世界のもののように感じる。
部室内の温度が急に下がったように錯覚してしまう。風が入り込んできたわけでも、太陽が雲に隠されてしまったわけでもないのに急に影が差す。
そのせいで誰も、何も口にできない。いつも明るく口火を切ってくれるソウも、今だけは口をつぐんでしまっている。
「……先輩方は、楓がこなくなった理由を知ってるんですよね?」
そして静寂の中、彼女は切り出す。自分の知らないことを知るために。
立花さんだって、同級生がいきなり部活に顔を出さなくなったのをおかしく思い心配していたに違いない。何も俺だけじゃない。立花さんもソウも、そして真琴も。大なり小なりそのことをずっと気にしている。
「……楓ちゃんは何て言ってる?」
ソウが静かな声で、立場さんの手に握られているスマホに視線を向けながら問う。
「……今日も部活休む。ごめんねっていうだけで、理由までは……」
「そっか。なら、俺は何も言わない。どうしても聞きたいならハルに訊いてくれ」
ソウは俺の出る幕じゃないと言いたげに口をつぐみ、代わりに俺のほうへと話を振った。
立花さんの視線が、俺に向けられる。何を言えばいいのかわからず視線をそらしてしまうが、立花さんの懇願するような瞳が俺から逸らされる。
ここで、俺の知っていることを話せば、きっと立花さんは永沢さんをもっと気にかけてくれるようになるだろう。心配で、何度もメッセージを送り、時には電話をしたりして、そうしていく中で永沢さんの傷が癒えていき、いつかまた文芸部に顔を出してくれる時が来るのかもしれない。
でも、俺が他人のことを易々と口にしてしまっていいのだろうか。きっとソウだって同じように思ったからむやみやたらに彼女の事情を口にはしなかったのだろう。永沢さんがこなくなった理由を説明するには文芸部との出来事をそれなりに説明しなくてはいけないのだから。それは彼女にとってなるべくなら触れてほしくない出来事のはずだ。それを自分の知らない間に何人もの人間が知っていたら、それこそこの部活に顔を出しにくくなってしまうのではないか、顔を出したくなくなってしまうのではないか。
俺は少し考え、息を吸い込む。空調が行き届いている室内の空気は、少し冷たい。
「永沢さんが話したくなったら、話してくれると思うよ」
遠回しに、今は話せないと言った。俺の口からは言えないと言った。
もしかしたらここで話してしまえば状況は好転するかもしれない。けれどもしそうでなかったらと考えると口にすることができなかった。無責任なことは、できなかった。
立花さんは俺のほうを見つめている。話してくれると思っていたのかその目が驚愕に見開かれる。しかしそれも一瞬のことで両の頬をぷくーッと膨らませる。
「じゃあいいですよー。直接聞きますから」
拗ねた子供のように言ってスマホを操作する。そんな姿に少し驚きながらも笑みがこぼれた。
ここで落ち込まずに行動に変えることのできるエネルギーがすごいと思った。俺もそんな風に行動で来ていたらもっと自分のことを誇れるのだろうか、そんなことを思いながら目の前の少女に倣ってスマホを取り出す。
しかし取り出したところで俺のスマホでは永沢さんと連絡を取ることはできない。連絡先の一覧を開いてすぐにホーム画面に戻る。
ホーム画面に表示されたカレンダーには、今週の土曜日に花火のマークがついている。
「……花火大会来てくれるかな」
「たぶん来てくれんだろ。今んとこ断られてはいないし」
声に出そうと思ったわけではないが、小さなつぶやきとなって俺の口から飛び出す。
静かな部屋でその呟きはしっかり聞こえていたらしくソウが合図地を打ってくれる。
今のところ、か。もしかしたら明日には行けなくなったと連絡が入るかもしれない。河原で花火をやっていた時はこんなことになるとは思っていなかったのに。
きっとこれから文芸部は永沢さんを加えた六人で活動していくのだと、これからまた一段と賑やかになるのだと思っていた。
けれど今この場に彼女の姿はない。瞼を閉じれば彼女を含めた文芸部のメンバーがいつものように教室の真ん中に集められた机に座り、談笑する光景が浮かんでくる。けれど目を開ければ俺の前の席には誰も腰掛けてはいない。
目の前現実を認識して、あの時感じたものが幻想であったかのように思えてきてしまう。
「あっ、それは大丈夫ですよ。私が連れてきますから」
突然、俺の斜め前に座る少女が自信に満ちた声でそう告げた。
それがまるで悪夢から覚めるような衝撃を持っていて、俺は目を見開いて立花さんに尋ねる。
「え、あ、そうなの?」
驚きのあまり、俺の声は少し裏返り挙動不審にも見えただろう。けれど立花さんはそんな俺のほうをまっすぐに見つめて軽く微笑む。
「はい!」
目の前でスマホをいじって永沢さんと連絡を取っていた彼女は、さっきのふくれっ面から一転、可愛らしい笑顔で元気に頷いた。
「それで絶対話してもらいますから。私だけ仲間外れで何も知らないままなのは嫌なので」
「ユサも真琴も知らないけどな」
自信満々の笑顔で言う立花さんに水を差すソウ。しかしその声はすこし冗談めかしたように弾んでいて、彼女の自信を押し込めてしまうための言葉ではないことが理解できる。
「それはとりあえず別問題ですっ」
勝気な笑みでなかなかにひどいことを口にする立花さん。まあ、真琴に関してはいつも我関せずといった様子だから気にすることでもない気がするが。間城に関しては一緒になって永沢さんのことを心配した仲だというのに、と思いながら苦笑い気味に笑みを返す。
彼女を見れば、ついさっき見せた不安そうな瞳はどこへやら、またいつもと変わらず笑顔でソウに話しかけ始める立花さん。
それに便乗するようにさっきよりも明るくなった笑顔で立花さんと談笑を開始するソウ。
たった一人の自信ありげな言葉で部室の空気が変わった。少し涼し気に感じられた部室内は、陽だまりのように暖かさを取り戻していく。
何時ものように談笑を始めた二人を少しまぶしく思いながら、少し気にしすぎな自分に向けてため息を吐く。
二人がいつものように談笑し、真琴もパソコンに向かう手が動いているというのに、やはり俺は永沢さんのことを気にしている。
部室と屋外の暖かさを確かめるように視線を空へと向けるが、まぶしい日差しが目に突き刺さるだけで何もわかりはしない。俺は他の部員に気付かれないように小さくため息を吐いて自分の手元にあった原稿用紙を見下ろした。
夏の日差しを反射する原稿用紙には、まだ物語の出だしすらかけていない。