最初の一歩 7
「そっちの子が新しく入った子? うちは間城夕紗、よろしくね」
放課後、久々に部室にやってきた間城がようやく永沢さんとの対面を果たした。
「あ、よろしくお願いします……。永沢楓です」
よろしくねーと言ってソウの隣に椅子をもっていって座る間城。ぎこちない永沢さんとは大違いだ。
挨拶をしている二人をおいて、俺は手元にある白紙の原稿用紙に視線をおとしている。
数日前にソウに言われて物語を描こうとしているが、いまだに何も思い浮かばない。花言葉を題材にしてみればいいと言われて考えてはいるものの、それが大したヒントになるわけでもなくいまだ白紙の原稿用紙にはシャーペンでつついた跡くらいで新品に等しかった。
俺が頭を抱えて唸っていると、初対面の間城と永沢さんが親交を深めようと会話繰り広げている。
「でも、なんでこんな時期に入部? どっかに入ってたんじゃないの?」
「ちょ、間城ッ」
しかし、間島のその質問に俺は原稿用紙をつついていたペンを止めて反射的に間城を制止してしまう。
「ふぇ? 何松嶋どしたん?」
間城がいきなりそんな話題を振るものだから止めようとしたのだが、制止を掛けられた当の本人はそれをわかっておらず俺を見つめ返してくる。
「いや、どうしたって……」
つい最近まで、彼女がどこの部活にいたか、そこで何をしていたかは軽々と聞いてしまうのはよくない。そのことは彼女にとって触れてほしくないはずだ。思い出したくないはずだ。
俺は不安そうに永沢さんに視線を向けると案の定永沢さんは気まずそうな表情で俯いていた。
「ん? …………あー。ごめんごめん、今の気にしないで」
俺の視線を追うようにして永沢さんに視線を向けた間城もその反応で触れてはいけない話題だと気付いたようで笑顔で手を振って話を打ち切る。そして先ほどまでと変わらない軽い調子で質問続けた。
「何て呼べばいいかな? 楓ちゃん? ながちゃん?」
「あ、いえ、呼びやすいようによんでいただければ……」
緊張しているのであろう永沢さんは俯きながら、少し頬赤く染めて恥ずかしそうに言う。
「じゃあ楓ちゃんでいいかな。あたしのことはなるべくなら下の名前で呼んでほしいな」
「はい…………夕紗、先輩」
「ん! よろしくね~」
そう言いながらニカッとソウによく似た笑顔を浮かべる間城。その表情を今度は俺たちのほうへとむけてくる。
「いや~、かわいい子が入ってきたじゃん。男子としては嬉しいんじゃないの?」
楽し気な笑顔のはずが、俺たちのほうへ向けられたそれはニヤリといたずらっ子のような笑みに変わっていた。
俺はその表情を見て俺の幼馴染と同じような顔をするなー、と他人事のように思う。
「まぁ、嬉しいよな、ハル」
しかしソウに名前で呼ばれてしまい俺もその質問に答えなくてはいけなくなってしまう。
「部員が増えたのは嬉しいよ」
ソウが俺のほうに受け流してきたその質問に俺はあたりさわりのない答えを口にする。無関心そうな、社交辞令とも取れそうな機械的ともいえる答えだが、その言葉は紛れもない本心だ。
しかし俺のそんな回答が気に入らなかったのか間城が不服そうな声を上げる。
「えー、なんか恋愛ごと起きたりしそうな感じだけど違うの?」
「あー、確かに……」
思い当たる節がなくもない。ソウと立花さんだ。
付き合っているかはわからないし、二人が好き合っているという確証もないが、二人のやり取りははた目から見ても友人や先輩後輩の中とは少し違うように見える。俺の妄想に過ぎないのかもしれないが、そう言った話があるメンバーと言えば二人に絞られる。
「やっぱり何かあるの? ワクワク!」
思い出すように天井を見上げてうわごとのように呟くと、餌を投げ入れたつもりもないのにものの見事に食いつかれてしまう。というか自分の口でワクワクって言ったな。
そんな風に思いながら俺は隣にいるソウと、ソウの前に座っている立花さんを見た。
ほかのメンバーはともかく、この二人はそういった関係になっていてもおかしくはない。付き合っているかは定かではないが少なくともそういった意識はしていると思う。つい先週だって二人が会うなりなんとも言えない空気で会話を繰り広げていたし、先日みんなでお祭りに行ったときだって二人は進んで二人っきりになれるような提案をしていたし。というかこれもう付き合ってるんじゃない? ただ皆に公言してないだけで付き合ってるんじゃない? 男らしくいこうぜソウ! さっさと付き合ってるって言っちゃいなよ!
そんな妄想スイッチが入り始めると俺の視線の先にいたソウがニヤッと笑って口を開く。
「まぁ、ハルはそういうことあるかもな~」
「はぇ? 俺?」
予想外の言葉にハトが豆鉄砲を食らったような顔をして聞き返してしまう。
ソウと立花さんならわかるんだが、なぜに俺? と首をかしげているとソウがニヤニヤと愉快犯じみた笑顔を浮かべる。
そしてソウはとんでもないことを言い出した。
「ハルは楓ちゃんに気があるみたいだからな~」
「え、ソウ、なんてことを……!」
「あ、それはあるかもしれませんね。花火の時もいい感じでしたし!」
「立花さんお願いやめて……」
「おっ、松嶋に春が来たんだね! いいねぇ!」
「本当にちがっ、永沢さん違うんだよ!?」
ソウの言葉に続いて立花さんと間城も同じようなテンションで俺をからかってくる。
最初の二人は完全にからかうために言っているのはわかるのだが、間城に関してはその反応が乗りでやっているのか本当に真に受けているのかわからない。とにかく俺は三人を止めようと口を開いたのだが、誰も止まってくれる気配がなかったのでまず先に永沢さんに言葉を投げた。
「あ、大丈夫です。わかってるので」
俺がうろたえながら永沢さんに言うと、彼女は慌てたように手を振りながらそう口にしてくれる。
神社の時に引き続き先日も下心がないという話をしていたおかげか変な誤解を招くようなことにはならなかったようで少し安心する。
しかし、永沢さんはわかってくれてもほかの三人はそう簡単にこの話題に終止符を打つ気はないのだろう。
「お、ハルフラれたのかぁ?」
「儚い恋もいいですよねぇ」
「いやいや、一回で諦めたらだめだよ! 当たって砕けろ何度でも!!」
「お願いだから三人いっぺんに来るのはやめてください!」
俺は反射的に口にしていた。一人づつでも相手にするのは骨が折れるというのに、三人いっぺんに来られたら大惨事だ。この三人は組み合わせると劇物にでもなりそうだ。混ぜるな危険の張り紙でもしておいてほしい。
「ハル、焦り過ぎ、ふはっ」
俺の焦り様を見てたいそうご満足そうな俺の親友が噴き出す。
からかわれているということは自覚してはいるのだが、こういったことはぜひともやめてほしい。そういうのは自分の心の中でひっそりとやるものだと思う。普段からそうしている俺が言うなら間違いないだろう。
自分自身が過剰反応しないように気を付けるという選択肢の前にそれが出てきてしまうあたりなかなかに他力本願な性格だなぁと思う。
俺の親友は目元に涙を浮かべながら腹を抱えている。心底楽しそうで何よりだよ、と少し呆れたまなざしを送ると、ソウがふぅと息を吐いてから思い出したように口を開いた。
「そういえば、八月に花火大会があるらしいんだけど、その日みんな暇?」
「花火大会って隣町の?」
間城の問いにソウがそれそれと合図地を打つ。ソウの言葉を聞いて、そういえば先日そんなことを少し話したなと今更ながらに思いだす。
「楓ちゃんはハルから話聞いてるよね?」
「え、松島先輩から、ですか……? 花火大会があるのは知ってますけど、そういう話は何も……」
「……ハル?」
あれれ、おかしいなと言いたげな視線を俺に向けてくる。そういえば誘っといてくれと言われたのを今の今まですっかり失念していた。あの日の帰りはそんな話を切り出せるような状況じゃなかったし。
俺は両手を合わせてごめんと小さく謝罪を口にする。
「まぁ、いいや。とりあえずみんな予定空いてる? 再来週の土曜とかだと思うんだけど」
ソウがみんなに向けて言うと女子は皆一様スマホを取り出して画面を見つめる。スケジュールを確認しているのだろう。女の子は普段からいろんな予定が入っているものなのだろう。女子高生を主体とした漫画やアニメがよくあるのもそう言ったイベントごとを書きやすいからというのもあるのかもしれないと俺はどうでもいいことを考える。
それに対して俺は予定など入っていないし、夏は大体ソウと真琴と遊ぶだけだろうから気にすることもない。遠くでノートパソコンをいじっている真琴も同様だろう。わざわざ自分のスケジュールを確認するまでもない。もしかしたら行く気がないだけかもしれないが。
なので男三人は特にスマホやスケジュール帳を見るでもなく女子三人が予定を確認し終えるのを待っていた。
「私は大丈夫ですねー。特に予定入ってないです」
「私も大丈夫、です」
俺たちの前に座っている後輩二人はすぐにそう答えてくれる。となると残りは普段からバイトで忙しい間城の予定だ。
ソウを挟んで隣に座っている間城に視線を送るとんー、と難しそうな声を出していた。
「花火って何時から? うち六時まではバイトなんだけど」
「そんな早くないだろ。ハル何時からか知ってる?」
「いや、ちょっと待って今調べる」
俺に話が降られるが、花火大会のことをつい先ほどまで失念していた俺が開始時刻など知るはずもなくスマホを取り出して検索を掛けようとする。
「七時からみたいですよ? 大丈夫じゃないですか?」
しかし、俺よりも先にスマホで検索をかけていたらしい立花さんが俺よりも早く教えてくれる。おかげで俺のスマホはホーム画面から動くことはなかった。ごめんよ。
「んじゃあ、いいんじゃね? 別に途中からでもいいと思うし」
「ん、そうだね、ちょっと遅れるかもしれないけどいけないことはないと思う」
間城がスマホをポケットにしまいながらうなずく。普段からバイトが忙しく部活にもあまり顔を出すことのできない間城が参加するのは少し珍しいことかもしれない。
前回の神社の時も予定が合わなかったので、後輩たちはまだ間城を含めたメンバーで出かけたことはないので、これが現文芸部が全員揃って出かけることのできる貴重な機会だ。
「じゃあ、そういうことで決定だな。マコもいいだろ?」
ソウが教卓のところにいる真琴に声を投げかけると真琴はこちらを一瞥してすぐにパソコンの画面に視線を落としてしまう。それを合意と受け取ったソウはそれじゃと言って細かいことを決めていく。
「集合場所は現地集合で、時間は花火が始まる前。ユサは来れる時間になったら連絡してくれ」
「そんなアバウトでいいの?」
「いいのいいの。俺ら三人は早めに集合な。場所取りするから」
「あー、そういうことか」
男の俺らで先に場所取りをしておいて、時間近くになったらそこにみんなを呼ぶという形をとるわけだ。当日場所取りに行くからこの場所とは言えないし、場所取りをしているメンバーのうち誰かはその場に残っていたほうがいいだろうからこれくらいアバウトに決めておいたほうがいいのだろう。
「三人って、俺もか」
離れたところでノートパソコンをいじっていた真琴が手を止めて声を投げかけてくる。
「そっ、別にあとから来てもいいぞ。俺とハルで場所取りすればいいし」
「俺が行くことは決定なのね」
そんな風に言葉をこぼすが嫌なわけではない。別に何か予定が入っているわけでもないし、もしかしたら午前中の内からソウと遊んでいることだってあるかもしれないのだから。
それは真琴もなんとなくわかっているのか「別に、確認しただけ」と言ってまたパソコンに向かい始めた。
とりあえず大まかだが花火大会の予定が決まった。つい先日手持ちの花火をしたばかりだが、打ち上げ花火はまた別ものだろうと思って夜空に浮かぶ花々を思い浮かべる。そしてそれと同時に浴衣姿でそれを見ている男女なんかも。
というか今更ながら、ソウはこのメンバー全員で花火を見に行くという話になっているがいいのだろうか。いや、ソウ自身が提案しているのだからいいのだろうけれど、神社の時にソウと立花さんが二人っきりになろうとしていたのを見ている身としては少し気を遣ってしまいそうになる。
もしかしたら本当は二人っきりで花火を見に行きたいんじゃないだろうか。きっと大勢で行くよりも恋人と二人で花火を見たほうが楽しいはずだ。勝手な俺のイメージだけれど花火大会は告白とかキスシーンとかでよくあるシチュエーションだ。もし二人が俺たちに隠れてキスしてたりしたら……。やっばやっば、それすごいいい! ばれないようにこっそりやってるのすごいい! それすごい見たい!
最初は二人のことを気にしていたはずなのに、気付けばただの俺の妄想になってしまっていた。俯きながら口元をぬぐうふりをして顔を隠す。やばいやばい。
自分の表情が緩んでいたのを隠しながらも俺は視線を上げる。俺が頭に花を咲かせている間もみんなは変わらず談笑をしている。
「じゃ、場所取り頼んだよ~。いいとこにしてね」
「ユサはなるべく早く来いよ?」
にこやかにひらひらと手を振る間城に釘をさすソウ。わかってるわかってるといまいち伝わっていなさそうな反応の間城。残業をさせられなければいいのだが。
高校生のバイトに残業を強いるところもなかなかないだろうが不安になってしまう。俺はバイトをやったとこはないし、ソウも同じくだ。男の中では唯一真琴が冬休みや夏休みなんかに短期のバイトをやることがあるだけなので、俺たちはバイトがどんな感じなのか経験したことがない。もちろん場所にもよるだろうが、もしかしたらめちゃくちゃブラックかもしれない。最近そんなニュースを見たから勝手に思う浮かべてしまう。怖い怖い。
間城のバイト先がそう言ったところでないことを祈る。
「先輩方おねがいしますねー?」
「えっと、いいんですか……?」
俺をよそに、間城と同じように丸投げしてくる立花さん。軽い調子だが間城よりもいくばくか明るい印象を受けるのは、無邪気な笑顔が幼く見えるからだろう。たった一年しか違わないが後輩は後輩だ。
しかしそんな同級生とは対照的に申し訳なさそうに訪ねてくる永沢さん。彼女も後輩だが立花さんとは違ってこういうことを気にしてしまうタイプらしい。迷惑を掛けたりするのを嫌がりそうだからな。この間も迷惑かけてごめんなさいって言われたし。
「気にしなくていいって。どうせ暇だしさ」
申し訳なさそうな永沢さんに、ソウが笑顔で言う。永沢さんが俺にも視線を向けてくるが気にしないでと伝えたくてソウと同じように笑顔を浮かべる。
そんな小さなことを気にしなくても、花火大会に行くメンバーの中で役割を決めただけのことなのだから彼女が何か思うことはない。
「ありがとうござ――」
永沢さんが頭を下げてお礼を口にしようとしする。
しかしそれはコンコンとドアをたたく音に遮られてしまう。。突然の来訪者にみんなが驚き音のほうへと視線が吸い寄せられる。
ドアをノックしてから二拍ほど間を開けてから文芸部の部室のドアが開け放たれる。ドアの向こうにいたのは桐谷先生だった。
「失礼しますよ。……今日は人が多いですね」
部室を見回して普段顔を出さない間城を見ながらそういう先生。嫌味でも何でもなくただ珍しいと思っただけなのだろう。珍しさで言えば先生が頻繁に部室に顔を出すことのほうが珍しい気もするが、別に口に出すことでもないし、桐谷先生がやってきた理由が気になったので黙っている。
間城に向けられた視線がすぐ横のソウへと移る、そしてそのまた隣の俺を経由して俺の目の前にいる永沢さんへと移っていく。
「永沢さん、少しいいですか?」
「え、……は、はい」
自分の名が呼ばれたことが意外だったらしい永沢さんがきょとんとした顔をしながら立ち上がる。永沢さんだけでなく俺と立花さんも同じような表情をしていた。
「少し、彼女をお借りしますね。……長くても一時間ほどで戻ってきます」
淡々とした静かな声が部室に響く。誰も合図地を打つことなく、桐谷先生にちらりと視線を向けられた俺とソウだけが大して大きくもない会釈を返す。
「ついてきてもらえますか?」
「はい」
未だに不思議そうな顔をしている立花さんに先立って先生が部室を出る。その後を追って永沢さんが部室を出るとそのドアがガラガラという音を立てて口を閉じた。
立花さんが頭に疑問符を浮かべている。真琴はそ知らぬふりでパソコンの画面を見ているし。二人とも桐谷先生が永沢さんを呼び出した意味を理解していない様子だ。
しかし、最後の視線を向けられた俺とソウは、なんとなく察していた。
「桐谷先生よく部活見に来るの?」
桐谷先生とここで顔を合わせることがほぼない間城が疑問に思ったらしく尋ねてくる。
「いや、むしろ来るほうが珍しいくらいだけど……」
「はーん、レアなんだ」
あまり部室に顔を出さない間城に俺から見た桐谷先生像を説明する。間城が訊いたくせに大して興味なさそうだ。
「でも、楓ちゃんに用事って何だろうね。入部届の不備とか?」
「いや、それはねぇよ。たぶん、ほかのこと」
間城の問いに少し真剣な表情でソウが答える。その顔を見てソウが何を考えているのかわかってしまう。俺も、同じことを考えていたから。
ソウは数日前の漫研との事件のことを考えているのだろう。永沢さんと桐谷先生がかかわる問題、文芸部の中の話ではなくなおかつわざわざ放課後に持ってきた話だ。俺たちが知っている永沢さんの情報の中で最も有力なのはそれだろう。しかし、
「でも、あの時永沢さんはちゃんと説明したから別にいいんじゃないの?」
俺は腑に落ちなくてそんなことを口にしていた。
応接室で永沢さんは漫研の生徒たちに漫研を抜けた経緯を一応は説明していた。わざわざもう一度その話を持ってくることはないだろう。そう思ったのだがソウはいや、と言った。
「あれはあんときにあそこにいた奴らに言っただけだし、ちゃんと漫研の部員に説明はしてないからな、桐谷先生なりにけじめをつけさせようとしてんじゃねぇの?」
「漫研? けじめ?」
ソウが頭の後ろで手を組んで少し重いため息を吐く。
間城がソウの口にした単語をオウム返しするが、誰もそれに答えない。立花さんも間城と同じ顔をして何の話をしているのかと聞きたげだった。
確かに、あの場にいた漫研の生徒はあの上級生たちとたった一人の一年生だけだ。漫研の部員全員ではない。漫研から逃げてきた永沢さんにけじめを取らせようとするのも当然のことだと言えるのかもしれない。永沢さんには辛いことだろうが一度しっかり話したほうがいいのは明白だ。
もちろんそれで問題が全部片付くとは思えないし、また永沢さんの心の傷をえぐるような結果になってしまうかもしれない。けれど、放置しておいてまた前回のような事件に発展してしまっては先生としても困るのだろう。
間城がどういうこととソウに尋ねているが、ソウは説明するでもなく受け流している。立花さんは首をかしげながら二人を見ている。
ふと真琴のほうにも視線を向けると俺の視線と真琴の視線が交わった。真琴はどうやらキーボードを打つ手を止めてこちらの様子をうかがっていたのだろう。俺と視線が合った真琴は何事もなかったかのようにまたパソコンに向かい合ってしまう。けれどキーボードを打つ音がいつもよりも明らかに遅かった。
桐谷先生が永沢さんを連れ出したのは漫研に連れて行ってけじめをつけさせるということでほぼ間違いはないのだろう。違う可能性も決して否定できないが、先日起きた事件の当事者の一員である俺たちは自然とそう考えてしまうのだ。
まだ夕方と呼ぶには幾分か早い時間だ。空に浮かぶ太陽もその熱量をいかんなくときはなっている。わずかに風が吹いているのだろう、窓越しから校庭の樹木の枝先がかすかに揺れているのが見えた。
夏らしい外の風景とは裏腹に、この部室は少しばかり暗い。
間城はソウに質問攻めをしているし、立花さんもその話を聞きながら疑問符を浮かべている。真琴も普段と変わらず教卓で執筆作業をしている。
いつもと変わらない部室の風景。ただ永沢さんがいないだけ。それだけなのに姿の見えない永沢さんがどんな目にあっているのかと想像するだけで気分が落ちてしまう。神経質なほどに、過保護と呼べるくらい彼女のことを心配している。
ソウも多少は気にしているだろうが、俺に比べれば普段通りと言っても差し支えない振る舞いができている。真琴も完全に普段道理ではないが、普段と大して変わらないといえるだろう。
決して部室全体が重苦しい空気に包まれてはいない。ただ、俺だけが過剰気にしてしまっているだけだ。
俺はソウたちの会話の輪に加わるでもなく、永沢さんが出て言った扉をぼんやりと見つめながら頬杖をついた。
漫研がらみの話でないことを祈りはしない。せめて永沢さんの傷をえぐるようなことにならないようにと願う。また、彼女が涙を流すことのないようにと。
空に浮かぶ太陽に、薄い雲がかかった。そのせいで部室が暗くなってしまう。しかしそれも一瞬のことですぐに明るい太陽が顔をのぞかせる。
ほんの数分数秒でいろいろなことが変化している。それを実感しながら俺は机の上に置いた手をわずかに動かした。
俺の手の下敷きになっている原稿用紙は、まだ白紙のままだった。