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Primula  作者: 澄葉 照安登
第二章 最初の一歩
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最初の一歩 5

 ほっと胸をなでおろしていると隣の職員室から桐谷先生が出てくるのが見えた。おそらく応接室を閉めに来たのだろう。時間を見ればもう時刻は七時を過ぎようとしている。

 俺は桐谷先生の横を会釈しながら通り過ぎて下駄箱に向かう。自転車をとってくると永沢さんに伝えて駐輪場に向かおうとしたのだが、永沢さんもついてくるというので永沢さんが靴を履き替えるまで待って二人で駐輪場に向かう。

 駐輪場には自転車はほぼなく、俺の自転車を除けばあとは卒業生が放置していったのであろう古びた自転車が二、三台ほど置いてあるだけだった。

 俺は自分の自転車を開錠するとそれを押して永沢さんと一緒に校門に向かう。

 応接室に行く前に外に出たときは運動部がまだ片づけをしていたのに今はもう人の気配がしない。校舎内も明かりがついているのは職員室だけだ。

 空はすっかり暗くなっていて、日が沈んだ空の端がかすかに赤く染まっている。

 校門を出ると街灯の無機質な白い光に照らされる。ふと後ろを振り返れば永沢さんは俺がさっき渡した缶を両手で包み込むように握っている。

 あたりが暗くなっても七月中旬。気温はそう簡単には下がってくれない。しかし人通りが少ないせいかいつもより幾分か涼しく感じる道を少し距離を開けたまま永沢さんと一緒に歩く。

 学校を出て数分歩けば見慣れた十字路が現れる。

 まっすぐ行けばすぐに俺の家に付く。右に曲がれば駅に続く道だ。

 信号が赤だったので立ち止まって信号が変わるのを待つ。俺が立ち止まったおかげで、少し後ろを歩いていた永沢さんが俺の隣まで歩いてきた。さっきと変わらずミルクティーを大切そうに両手で包み込んでいる。

「……先輩、本当にありがとうございます」

「いいって、百円ちょっとだからさ」

「あ、いえ、そのことじゃなくて……」

 俺の視界にミルクティの缶があったせいでそのことだと思ったのだが、どうやら違ったらしい。聞き返すでもなく話の続きを待っていると永沢さんが小さな声で言った。

「助けてくれて、ありがとうございます」

「あー、そのことなら、俺よりもソウに言ってよ。ソウがいなかったら大変なことになってたと思うし」

 主に俺がボコボコにされたりとか。

 俺がそう言うと永沢さんはこくりと頷く。

 信号が青に変わって渡ろうとするのだが永沢さんの言葉のせいでその足が止まってしまう。

「本当に、先輩は下心ないんですか……?」

「え、どうして?」

 信号は青に変わったのに、二人して立ち止まってしまう。俺が一歩歩いてしまったので少し距離が開いてしまう。

永沢さんは俺の足元を見るように視線を逸らしてぎゅっと目を瞑って言った。

「だって……。だって先輩、こんなにいろいろしてくれて……変にやさしいし、助けてくれるし、気遣ってくれるし…………」

 そう言えばさっき、漫研の一年生にも同じようなことを言われた気がする。彼氏じゃないのかと。俺の行動はそうとられてしまうものなのだろう。たぶん俺自身それを俯瞰から眺めていたのならそんな誤解をして妄想を繰り広げてしまうだろう。

 しかしそんなことはない。そんな気持ちはこれっぽっちもないのだ。ただ純粋に、あの時に漫研の一年生に口にしたように部活の仲間だから、苦しんでたら助けたくなってしまうのだ。

「本当にそんなことないんだけど……。部活の後輩があんな目にあってたらそりゃ助けに行くし、ソウだって俺と同じだと思うし」

 そもそも最初に永沢さんの姿を見つけたのはソウだ。俺はソウの後をたどって気付いたに過ぎない。行動を起こそうとしたのだってソウだし、結果的に俺と永沢さんを守ってくれたのもソウだ。

 しかし、そんなことを言おうものなら今度はソウに下心があるのではないかという疑惑がかかってしまいそうで口にできない。

「俺永沢さんのことそういう目で見てないよ?」

 そして俺はまたそんなことを口にしてしまった。女性に対して失礼極まりない一言を。

「……あ、いや、ごめん魅力がないとかじゃないよ!? 魅力的だとは思うけど俺はそういう目で見てないというか、ほら! 俺前に恋したことがないからわからないって言ったでしょ? そういうことだからッ」

 結局前と同じような取り繕い方をしてしまった。

 こんな失礼なことをまた口にしてしまって永沢さんを傷つけてしまっていないかといつかのようにひやひやする。永沢さんを見れば呆気にとられたような表情で俺のことを見ていた。そのまま顔を俯かせて肩を震わせ始める。

「え、え? どうしたの?」

 その様子に困惑して変な声を出してしまう。疑問符がついていたにもかかわらず永沢さんから返答はなく、なおも肩を震わせていた。

「…………くっ…………ふ…………」

 本当に傷つけてしまったのではないかと思っているとうめき声のようなものが聞こえた。訳が分からず俺がぶしつけに永沢さんの顔を下からのぞき込もうとすると揺れる髪の毛の間から永沢さんの表情がかすかに見えた。

 永沢さんは笑っていた。

 先ほどまで缶を握りしめていた手で口元を抑えて目に涙を浮かべながら笑っていた。

「え、永沢さん大丈夫?」

 突然のことに困惑しながら尋ねると永沢さんは体を抱きしめるように縮こまらせて絞り出すような声で言った。

「だい、じょうぶです……くすっ。まさか二回もそんな風に言われると思いませんでした」

 目元に浮かんだ涙をぬぐいながら永沢さんがその顔を俺に向けてくる。

 その涙は、笑ったから出たものなのか、安心したからあふれたものなのかはわからなかったけど、決して恐怖や不安から来るものではないことは一目でわかった。

「ご、ごめん。つい反射で。でも、変な意味じゃなくて――」

「はい、わかりました」

 俺の言葉は永沢さんの言葉に遮られてしまう。弱弱しいか細かったはずの彼女の声で。

「先輩は、私に興味ないってことなんですよね?」

「あ、いやそういうわけじゃ――」

「違うんですか?」

「いや、違わないんだけど……」

 くすっと笑う永沢さん。その姿はまるで俺をからかっているときのソウや立花さんのようだ。

「……すみませんでした。変なこと聞いてしまって」

 そう言った彼女の声はやはり今までの自信なさげな彼女の声とは違っていた。

 声質は大きく変わってはいないもののはっきりとした口調で、それでいて今までと変わらない吐息交じりのどこかはかなげな声。けれどやっぱり今までとは違った印象を受ける。

 目の前の彼女を見てああ、と俺は思う。今までの見ていた彼女は彼女のほんの一部に過ぎなかったのだ。当然だ、出会って数日の相手にすべてをさらけ出すことなんてできない。そんなのは誰だって、ソウだろう。これまでの彼女は恐怖と緊張で押しつぶされそうになっていたんだ。だからあんなにも弱弱しげに、か細く、消えてしまいそうな声でしかしゃべることができなかったのだ。

 決して立花さんのように溌溂とした声ではない。けれど今は耳を澄ませなくともはっきり聞こえる。

 その声を聴いたせいか、俺の顔にも笑みが浮かんでくる。安心した。

 ようやく本当の永沢さんの姿を見ることができたことに。そして、先ほどまでの不安に震える彼女が笑っていてくれることに。俺は安心していた。

 気付くと信号はまた赤くなっていて俺たちは渡り損ねてしまった。

 それがまたおかしくて笑顔が浮かんできてしまう。けれど、それは長くが続かない。彼女の問題がきっちり解決したわけではないのだから。

 笑顔だった彼女の顔に雲がさす。ただの空元気だったのだろうか。たぶん違う、あの瞬間彼女は本気で笑っていんだとおもう。その子が顔を曇らせたのに連動するかのように俺の表情も暗くなってしまう。

 永沢さんにまとわりついている問題は、何一つ解決していない。

 今回はたまたま俺たちがい合わせて、すぐに先生が出てきてくれたからよかったものの、もしそうでなかったのなら永沢さんの身に何が起こっていたかわからない。

「…………永沢さん、さっき言ってたのってどういうこと?」

「さっき、ですか?」

 俺の突然の質問に疑問符を浮かべながら問い返してくる永沢さん。

「さっき応接室で、違うって言ってたよね?」

「え!?」

 永沢さんがバッと顔を上げて俺のことを不安そうな瞳で見つめる。

「声、出て…………」

「あっ、声は出てなかったよ! ただそう言ってるような感じがしたってだけで」

 俺は慌てて説明する。正確には口がそう動いたからそう言っていたのだと勝手に判断してしまっただけだ。

「そうですか……」

 永沢さんがほっと胸をなでおろす。それにつられて俺も息を吐き出す。

 永沢さんとしてはあまり触れてほしくない話題なのだろうか。自分の心の中で言っただけだから触れないでほしい、気付かないでほしかったそういうことなのだろうか。

 でも、気になってしまう。その言葉の真意が。

 たとえ声に出していなかったとしても、彼女の中にあった気持ちに嘘はない。違うと口を動かしたのは、漫研の上級生たちが桐谷先生に説明をしているときだった。その説明が間違っていたのだろう。おそらくは自分たちの都合のいいように話を作り変えていたのだろう。

「……本当は、何があったの?」

 それを知りたい。だから俺は尋ねていた。

 永沢さんにとって思い出したくないことだとしても、それを知っていたい。

 一人で抱え込んでほしくなかった。たとえそれがその場しのぎのものであったとしても。今ここでちゃんと声に出して、それを知っている人が、本当のことを知っている人が一人でも存在していると証明したかった。

 永沢さんは一度俯いてから様子をうかがうように、不安げな瞳で俺を見る。俺はそれをまっすぐに見つめ返す。

 俺の気持ちが永沢さんに届いたのかはわからない、けれど永沢さんは言葉を紡ぎ始めてくれた。

「……帰ろうとしたときに、あの人たちに会って……気付かれて、しまって……。何で部活に来ないんだって、怒られました」

 そこまでは、応接室での会話と何も変わらない。でも、やはりそこから先があった。

「手を掴まれて、ふざけるなって…………」

「……永沢さん?」

 そこまで口にした永沢さんは、自分の足元を見るように俯いてしまう。その状態のまま永沢さんが自分の腕で目元をぬぐい始める。

 ああ、泣かせてしまったんだ。俺がこんな質問をしてしまったから。知りたいと思ってしまったから。泣かせてしまったのだ。

「ごめん、もういいよ。ごめんね」

 そう言いながら、立ち尽くすことしかできない。

 涙をぬぐってやれればよかったのだろうか。手を握ってあげればよかったのかもしれない。けれど俺はそれができない。きっと今それをしてしまったら逆効果だから。ここでまたトラウマを刺激してしまうことになりかねないから。

 だから俺はただ突っ立って立花さんが涙をぬぐう姿を見ることしかできない。

 何もできない自分が腹立たしい。

 気付けば信号はまた赤に変わろうとしていた。

 けれど立花さんをせかすようなことはできない。涙を流している女の子にそんなことを強いるのは酷なことだと思い俺は黙っていた。

「……ごめんなさい。迷惑かけて、ごめんなさい、ぃ……」

「迷惑なんかじゃないよ、大丈夫」

 涙を流しながら謝る年下の女の子に何かしてやれることはないのだろうか。必死に考えてもただ涙が止まるときを待つことしかできない。

 起こってしまったことはどうにもできない。なかったことにはできない。それは理解している。けれどそれを理解していても思ってしまう。もしも今日、永沢さんの身にこんなことが起きなければと。もしも今日、文芸部のみんなで学校を出ていれば、こんなことにはならなかったかもしれないと。

 過去のことをどうこうすることはできない。できるのはこれからどうするか、今どうするかだけだ。しかしそれを理解してはいても、もしあの時にと考えずにはいられなかった。

涙をぬぐえるものを差し出すことも、それ以上何かの言葉をかけることもできないまま永沢さんが嗚咽を押し殺しながら涙を流すの見ている。

頼りなく街灯が照らす道路に車のヘッドライトがあざ笑うかのように行ったり来たりする。空の端にかすかに見えていた夕日の影も今はもう見ることができない。

結局その後俺にできたことは、しばらくして泣き止んだ永沢さんを駅まで送っていくことだけだった。


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