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吉田さんみたいにカッコイイ男になりたい。吉田さんは女の子だけど……。
昼休み以降、やはり戻って来なかった吉田さんにお礼を言えぬまま授業が終わった。とぼとぼと今日もまた重い足取りで家へと帰る。
――情けない男だよな…。
はあ、と溜息を吐いた時、前を歩いていた女の人がカバンからハンカチを落とした。
携帯を取り出した時に落ちたんだろう、歩きながら電話をする女の人のハンカチを拾って女の人の背に視線をやった。
……、なんて声を掛ければ良いんだ?
相手は電話中だ。声を掛けて良いのだろうか? 駆け寄って肩を叩けば良いのか? いやでも、ここは電話が終わったのを見計らって「落としましたよ」と声を掛けるべき?
電話中に肩を叩かれたらびっくりするもんな。でも、電話が長引けば声を掛けるタイミングを逃すんじゃ……、それまで後ろをついて歩くのも失礼だし……。
ここは思い切って「ハンカチ落としましたよ」と電話中の相手だとしても声を掛けて……。でも、電話中で気付かれない可能性もあるし……。
――どうしよう……。
女の人の後ろを歩きながらどう声を掛けるか迷っているとハツラツとした男の声が辺りに響き渡った。
『そこの綺麗なお姉さーん! 電話中に申し訳ねぇんだけど、ハンカチ落としましたよー!!』
俺が悩んでいた言葉を堂々と『誰かが』代弁してくれた。
電話中の女の人が後ろを振り返ったので俺は慌ててハンカチを女の人に見せる。女の人の表情がぱっと笑顔になる。携帯を片手にこちらに駆け寄って来てくれた女の人にハンカチを手渡した。
「どうもありがとう!」
「…ぇと、」
『どういたしましてっ』
俺が言葉を発する前に『誰かが』返事を返した。
驚く俺を余所に女の人は特に気にした様子もなく、おそらく声の主を俺だと思っているのだと思うが笑顔で会釈をして再び俺に背を向けて歩いて行ってしまう。
他の誰かが居る。そう思って俺は辺りを見渡したが周りには人の姿は無い。
代弁してくれた誰かにお礼を言いたいのだけれどその誰かの姿が見えないのだ、これは一体どういうことなのか……。
「す、すみませーん……。誰かいらっしゃるんですかー……?」
お礼を言うのならばその『誰か』を見つけなければならない。近くには居るはずなのだ、声を掛ければ返事をしてくれると思い。俺は恐る恐る見当たらない誰かに声を掛けた。
『いらっしゃいますよー』
「!?」
かなり近い場所に居る。
声がとても近いのだからそう思うのは当然なのだがやはりその声の主が見当たらない。何処だ、何処だと見渡してみても誰も居ない。
「何処に居るんですか?」
『左手を広げて、その掌をご覧くださーい』
「?」
誰かの言われるままに自分の左手を広げて掌へと視線をやった。自分の掌に瞬きをした
一瞬で、そこに誰かの『口』が現れた。
がぶりんっ
「!?」
並びの良い白い歯を見せながらその口はがぶがぶと口を動かして見せる。
自分の掌に口だけがあるなんて誰が想像出来るというだろうか。夢でも見ているんじゃないかと思いながらその掌にある口を凝視する。
口が動く度に掌がもぞもぞとむず痒いような感じ。
凝視しているとその口はべろんと舌を出して見せた。掌にあるのにその口の中は普通の人の様な口内で掌に付いているとはとても思えない。
ぺろりと自分の下で唇を舐めた口。薄い唇と共に舐められたのは俺の掌でちゃんと舐められた感じがあるのが不思議でならない。なんで俺の掌に口があるんだ……。
『はじめましてー』
「は、はじめまして……」
『ビビった? 超ビビった? 俺もなんでここに居んのか分かんなくてビビってる!』
「わ、分からないんですか?」
『分からなーい。俺、なんで口だけよ?』
そんな事を俺に聞かれても……っ!!
しかも分からないと言うわりには口調は楽しげで掌にある口は確かに口角を上げて笑っているのだ。ニヤニヤ、と笑っているのだろう。
どういう状況なのか把握しきれない俺を余所に口はベラベラと「気付いたらここに居たよー」とか「お前は誰だー」とか喋り続けている。
「と、とりあえず、家に帰ります!!」
『オッケーオッケー。立ち話もなんですからねー、お茶菓子でも出して頂ければ嬉しいなー』
俺の掌に居る状態で物を食べるの!?
走って家まで帰った。息を切らせながら冷蔵庫を開けてお茶を取り出して置いてあったクッキーやらのお菓子を引っ掴み自分の部屋へと駆け込む。
お茶とお菓子をテーブルに置いて自分の掌を確認すればそこにはやっぱり口があった。
「お、お名前を聞いても良いですか……」
『わかりませーん』
「えええええ!!」
『お前はなんてーの?』
「俺? 俺は安藤愁也、です」
『愁也な、オッケー。とりあえずお茶を貰おうか、飲ませてくれ』
「俺の掌に居る状態でお茶飲めるの?」
『何事もやってみなきゃ分からんだろーが!』
「……」
あーん、と口を開ける口にお茶の入ったコップを当てる。そのまま流し込めば口はゴクゴクと確かにお茶を飲んでいた。
ひんやりしたものが確かに掌の中にある感じがする。口が動く度に掌に違和感はあるけど、飲み込んでる感じは伝わって来ない。
「味とか分かるの……?」
『麦茶の味だー』
「麦茶は分かるけど自分が誰とかは分からないんだ……」
『おお、言われてみると確かにそうだな! なんでだろうな! 不思議だな!』
自分の存在を一番不思議がって欲しいところだけど、この際そこは置いておこう。
口の言うままにクッキーも食べさせてみると、ごりごりと噛んでる感じが掌の中から伝わって来る。でもやっぱり飲み込む感じと、その飲み込んだ行方は分からない。俺の手にある口だけど俺のお腹に入ってるわけでもないみたいだし……。
「口だけなのにどういう風に見えてるんですか」
『愁也の目で見えてる』
「俺の見たものがそのまま見えてるってこと?」
『多分な!』
答えがかなり雑だ。
でも、俺と同じ物が同じ様に見えてるなら先程の女の人に声を掛けた時の状況の説明も出来る。俺が見ていたものを同じように見ていたから俺の言葉を代弁してくれたのだ……。
「今、俺の掌に居る状況になる以前のことって何か覚えてます?」
『全く』
「何か覚えていることは?」
『さあ?』
困った…。
どうして俺の掌に居るのか分からなければこの口の持ち主が何処に居るのかも分からない。というか、この口に持ち主が居るのかどうかも不明だけど……。
一般的な常識、物の名称などは知っているのだから知識はあるんだ……。もしかするとこの口は俺のもう一つの口で、話下手の俺に代わって存在する神様が与えてくれた口なのかもしれない。
そうだとしたら、この口は俺にとって良いものなんじゃないのか……?
こんな非現実的なことが起こるなんて奇跡、むしろ運命的なものだとさえ思えて来る。もの凄くお喋りで飄々としたこの口は俺とは正反対な存在だ。
「あなたは、これからどうするつもりなんですか?」
『どうって言われてもなぁ、愁也の体から離れられるわけじゃねぇみたいだし、どうしたら良いとかもあるわけじゃねぇし、何をしろとかもねぇし、気付いたらここに居たわけだから……とりあえず俺は退屈しなけりゃ良いから……』
「じゃあ、今のところは俺の掌に居続けるわけだよね?」
『そーだな。まあ、掌じゃなくても愁也の体なら何処でも移動出来るってのは分かるぜ!』
勝手な予想であり、そうであればと思う願望でもあるが……。
この口は俺を変えてくれる、俺に何かを与えてくれる。この口が現れたことによって俺の人生は一転するかもしれない。
気持ち悪さや不安よりも、そう思う嬉しさと希望が心の中を占めた。
『クッキーくれよ。腹は減らねぇけど食うか喋るしか出来ないって超退屈。もう食わなきゃやってらんねー。っていうか、俺に腹とかあんの? この食ったクッキー何処行ってんだよって感じじゃね? っていうか、掌に口がある状況で冷静な愁ちゃんお前ってなんなの? 頭大丈夫なの? 俺なら悲鳴あげてると思うけど』
「え、なんか運命かなぁ……って思って」
『運命!! なにそれ、俺と愁ちゃんって出会うべくして出会った運命的な存在なのかよ!!運命的な出会いするなら俺もっと可愛い女の子との出会いが良かった!! むしろ女の子に言われたいそれ!』
――そんなこと言われても……。
『っていうかさぁ! そういえば、愁ちゃんの顔が分かんねぇわ! 俺、なんかずっと自分の口見て喋ってんだけど! 俺の口キモイな! 口だけとか超キモイ! 愁ちゃん視点だと俺しか見えねぇ! 喋り続ける口って超キモイ!』
「自分のことなのに三回もキモイって言ってるけど、良いの?」
『自分で言うのは良いんだ。言われると傷付くけど……、多分』
放って置いたら延々と一人で喋ってそうな口に言われるまま、とりあえず俺は自分の姿を鏡で見る。いつも見てる顔だけど鏡に映った俺の姿を見て口が声をあげた。
『愁ちゃん! 愁ちゃん! 愁也ちゃーん! なんで女子に生まれなかったし! 駄目だ! 駄目! トイレとかもう行かないでくれ! 俺を思うならトイレとお風呂はやめよう!』
「人間だからそれは無理だよ」
『ショック! 愁ちゃんが女の子なら俺は口だけでも満足だった! 毎朝、おはようのチュウとかしてくれたら幸せだったのに! なんで男! いや、でも俺の視界からは愁ちゃん見えねぇんだった! 俺が見んのは愁ちゃんの視点だから愁ちゃんの可愛い顔は見えないわけで俺は自分の口を見ながら生活しなきゃなんねぇんだよ! ってことはあれだろ、チュウする時も俺は自分の口を見ながらチュウするってことだよな! うわぉ、ちょっと待ってそれってエグイ! 掌にある口とチュウとかキモッ!』
「……」
『もうさっきから俺の視界に喋り続ける口しか見えないんだけど! 愁ちゃんちょっと視線を外そうか! テレビでも見ようよ! なにこの喋り続ける口! マジウザイしキモイな! 掌にある口が喋り続ける様って凄いキモイ! あ、この口、俺だ!』
一人で賑やかって逆に凄い!
呆れるどころかむしろ感心して観察してしまっていた俺は喋り続ける口を右手でちょんと突いて見せる。
『なんだよ、やめろよ! 噛むぞ!』
口を開閉させてカチカチと歯を鳴らす口。そうだ、この口と一緒に居るのなら名前を付けてやるべきじゃないだろうか……。ずっと『口』じゃ寂しいもんな……。
「一緒に生活していくにあたって、あなたに名前を付けようと思うんだけど……どんな名前が良い?」
『俺に名前? そうだな、やっぱりカッコイイ感じにして欲しいかも。いや、でもカッコイイ中にも可愛らしさもあってだな、あだ名とか付けて呼ぶと可愛い感じみたいな? ありきたりの名前とかダサイのはやめてくれよ?』
「じゃあ、口って漢字を音読みにして『コウ』っていうのは?」
『ヤダよ。ありきたり過ぎ、っていうか、安直過ぎね? なんかもっと捻って! 名前付ける時って見た目のイメージとかで付けたり色々考えるもんじゃん!』
……その見た目が口だけなんだけど。
『あ! 見た目って口だけだった! ごめんごめん! ついうっかり! 俺ってあれだ、多分すげぇイケメンよ! 多分! ほらなんか雰囲気出てるし! イケメンオーラ出てるって! 多分!』
「イケメンオーラは分かんないけど、頑張って考えてみる……」
『カッコイイのね! っていうか、喋り続けてたら喉とか渇いて来たかもしんない! 喉が無いから、分かんねぇけど! お茶ちょうだいお茶! あ、でもさ、喋れてるってことは喉ってあるはずだよな! なんだこの矛盾! すげぇ! テンション上がって来たんだけど! 俺のテンションやばくない!?』
途中、何度もお茶を飲みクッキーを食べるのを繰り返す口は物を食べている時以外はずーっと喋り続けていた。よくもまあ、そこまで話が出来るものだと思うくらい。
話しかけられても上手く言葉を返せない俺のことを気にも留めず喋るから俺的には気を遣わなくて凄く楽だけど……。
そして、日も暮れた頃に口の名前が決まった。
人よりも少し大きく感じる口、並ぶ歯もまた人より少し尖っているので人間よりも少し動物的だと……口には出さないがそう思った俺は、とある怪獣を思い出してこの口にこう名前を付けた。
「クチラ」
『え? それ名前? それ俺の名前なの? クチラ? うーん、まあ良いんじゃない? あだ名はクッチーだな、あ、結構良いかもしんない!』
「良い?」
『うん、良いよ』
「じゃあ、これからよろしく。クチラ」
『よろしくー』
俺の心の中で密かに、お喋り怪獣クチラが誕生したのだった。言わないけど。