少女達の戦い
十四
手を握り返してくる感触に、詩歌は期待を込めて目を開けた。まず視界に飛び込んできたのは、一方的に握っていた手を握り返している手。
顔を上げると、もう何年も見ていなかったように感じた彼女の凛とした瞳が詩歌を見ていた。
「カゲ…」
声を上げた詩歌の口元を詩歌は遮るように片手で塞いだ。
「佐伯詩歌……………ありがとう」
照れるでもなく、微笑むでもなく、いつもの調子でカゲノは言う。そのことに詩歌は胸が一杯になった。
「良かった、良かったぁ…」
詩歌はカゲノに抱き付いた。カゲノもそれに答えるように詩歌の背中に腕を回す。
「お前の声が聞こえた」
「…うん。そうだよ。私はまだまだ弱いから、カゲノちゃんに助けて欲しいの」
「…ああ。お前の力はまだ弱い」
「うん、うん…」
「だが、お前の心は眩しいな…」
カゲノは噛みしめるように言うと、すっと立ち上がった。
「行くぞ、佐伯詩歌。倭文子をこのままにしていいはずがない」
「うん。…あっ!雅ちゃんと佐羽ちゃん!気を失っているみたいなの」
「気を…?」
詩歌はこれまでのことを説明した。
「なるほど、蛇が…」
カゲノは雅と佐羽の体を調べながら言った。
「そうなの。蛇がワーッていて凄かったの」
「私は昔から何故か蛇に好かれるからな。だから来てくれたのだろう。蛇は愛らしい上に情に深い生き物だな」
「愛らしい…?」
詩歌が疑問符を頭に浮かべているとカゲノは詩歌を振り返った。
「高澤雅、五百雀佐羽は確かに気を失っているだけだ。問題はない。だからこのままここに置いていくことが最良だ」
「置いていくって、でも…」
「…お前の気持ちはわかる。だが、そうするより他ないだろう」
「…うん」
詩歌はしょんぼりと落ち込んだ。そんな詩歌にカゲノは言う。
「……二人には感謝している」
その意外な言葉に詩歌は驚いた。
「五百雀佐羽は自分の心と向き合う切っ掛けをくれた。雛子のことを思い出させてくれた。私は忘れてはいけないことを忘れていたのだ」
「でも、それは倭文子の力で…」
「いや、私の心が弱かったのだ。もっと強い心を持っていれば倭文子に惑わされることもなかっただろう」
「カゲノちゃんは弱くなんてないよ」
詩歌の言葉にカゲノはふ、と表情を緩めた。
「今、私の頭の中はとてもすっきりしている。こんな感覚は今までにない。自分の弱さを認め、見つめることができた。お前のお陰だ。そして高澤雅がここまで逃げてくれなくては私はとっくに倭文子の餌食になっていただろうな。………言い方を変えよう。二人の体はここに置いていく。だが、お前とそして私までをも想ってくれたその想いは一緒に連れて行こう」
「…うん!」
「さあ、行こう。二人が気が付く前に片付けてここに戻るぞ」
強い力を宿した瞳でカゲノは言った。今までの彼女とは違う新たな強さが宿った瞳だった。
「カゲノちゃん、なんだか凄く綺麗」
詩歌の口から自然とその言葉が零れた。その言葉にカゲノはさすがに怪訝そうにする。
「…お前、何を言っているんだ?」
「へ?あれ?えーっと、ごめんね、つい…」
「おかしな奴だな」
「あはは…」
「まあいい、行くぞ」
外はほんのりと薄暗くなっており、そのことにカゲノは顔を顰めた。
「もうこんな時間なのか」
「うん、結構経っちゃったみたい」
「どおりで倭文子も気配を隠さないわけだな。自分に有利と踏んでいるのだろう」
「うん。私にもなんとなくわかるよ」
「そうか。この短時間で随分力を付けたんだな」
「そうなのかな?自分では自覚ないや」
詩歌がエヘヘと笑うのを見て、カゲノは神妙な顔をした。
「力を持つことはお前にとって良いことなのだろうか」
「?」
「お前に力があれば戦える、多少は役に立つかもしれないと私は思っていた。だが、それは私の勝手だ。お前の気持ちを私はほんの少しだって考えはしなかった」
そう言うカゲノの表情に苦渋の色が滲む。
「力があれば苦しむことも多い。ヒトならざるモノへと近づくことになる」
「違うよ」
詩歌は真剣な顔で言った。
「この力は化け物になるための力じゃない。そうだよね?」
そう言って笑いかけると、カゲノは詩歌をちらりと見て「そうだな」と呟いた。心なしか頬笑んでいるように見えた。
「水の気配がするな」
歩きながらカゲノが言う。
「水?」
「倭文子の傍に水の気配がする。流れる水の気配…川だな」
「川、か。なんだか昔みたいだね」
「昔?」
今度はカゲノが聞き返す。
「倭文子とアンキと白神が最後に戦った場所」
「…そうだな」
「ね、アンキさんはカゲノちゃんの前世だよね?なんだか、そんな気がするの」
「ああ」
「どうして隠そうとしたのか聞いてもいい?」
「…羨ましかったのかもしれないな。自らの弱さを認め、霧咲とは違う世界へ飛び出したアンキのことが。私はそれらをアンキを弱いと思うことで否定したかったのだろう」
「そっか。今も羨ましい?」
「どうだろうな。私はアンキにはなれない。霧咲を捨てることはできないだろう。だが、何の為かもわからずに戦う今までとは違う。お前がいるからな。だから、今、私は戦える」
カゲノはそう言ったのと同時に黒い札を前方へと投げ放った。札は空気を切り裂く速さで突き抜けたが、何も起こらず姿を消した。
「こちらまでは出てきてくれないようだ」
札の消えた方向へ足を進める。薄ら黒い気配が次第に濃くなっていく。手足に絡む空気が枷のように重く感じられた。
視界が開けた。穏やかな川のせせらぎの中心に倭文子はいた。
「蛇に咬まれた傷は治ったか」
挑発するようにカゲノが言うのを倭文子は静かに見ている。
「カゲノちゃん、倭文子と話を出来ないかな」
「お前はまだそんなことを言うのか」
「少しでいいの。倭文子と、彼女と話がしたい」
「…いいだろう。だが、奴が行動に出れば私はお前の命を守ることを最優先とする。倭文子に力を与えたくないからではない。お前の存在が私の力となるからだ。だから、お前も己の命を守る行動を最優先にしてほしい」
「うん、ありがとう」
詩歌は微笑み、カゲノの前に出た。
「倭文子、あなたは救いを求めていないと言った。それはあなたの本心なの?」
「………」
倭文子からの返事はなく、川の流れる音が静かに聞こえる。
「佐伯詩歌、やはり無駄だ。下がれ」
「お願い、もう少しだけ」
詩歌はもう一度口を開く。
「倭文子、あなたのことが聞きたいの。あなたが今、何を考え、これからどうしたいのか。あなたの口から、あなたの言葉を聞きたい!」
「…ァ」
かさり、倭文子の口がぎこちなく動く。
「反応した…?」
カゲノは驚きを隠さない。倭文子は陽炎のようにゆらりと動き、詩歌の方を向いた。
「わが身ヲ封じた命さえ気配を消シ、眠ルこと無キこの身、長キ闇、長キ時間、渇キだけが増していく。求めるモノの見えぬ渇望。こうしたのは誰カ。己カ。お前カ。否、全てだ」
倭文子の黒目が大きく膨張した。獲物を見つけた猫のような目で、突如詩歌に向かって飛び掛かる。
「どけろ!」
カゲノは詩歌を突き飛ばし、倭文子の横っ腹に蹴りを入れる。ミイラ化したままの乾いた肉の部分は簡単に砕け、ビーフジャーキーのような肉片が飛び散った。しかし倭文子は怯まずに、返す力でカゲノに飛び掛かる。鋭利な指先がカゲノの頬を掠めた。
一筋の血が頬を流れる。カゲノはその血を黒い札で拭うと、倭文子目がけて投げつけた。札は多頭の黒蛇へと変じて、倭文子の顔面へ喰らいつこうと牙を剥く。だが軽々と頭を掴まれ引き裂かれた。新たな札を構えるカゲノの足元に黒い影が這い迫り、足首を捉える。気づくのが遅れたカゲノは影を振りほどこうとするが、影は足首から太ももまで這い上がり腹部の位置まで絡みついた。
「くっ」
カゲノは札を影に押し付けようとしたが、倭文子が腕を伸ばすと影はきつく体に食い込んだ。
「ぅあっ」
「やめてっ!」
地面に転がっていた詩歌は、苦しむカゲノに飛びついた。詩歌は必死にそれに掴みかかるが影はビクともしなかった。
「馬鹿、くるな!くっ」
影は体にどんどん食い込んでいく。カゲノの顔が苦痛に歪んだ。詩歌は爪が割れそうな程に力を込めるが、状況は変わらない。それどころか倭文子が指先を動かすと影は詩歌にまで纏わりついていった。
「なにこれっ…」
纏わりつく影の触感に詩歌は声を上げる。ぬめりの付いた海藻が皮膚に絡む感覚に似た不快感だ。
「ううっ」
不快感を感じるだけならまだしも影は徐々に体に食い込んでいく。身をよじり、抜け出そうとするがもがけばもがくほど手足の自由が消えていく。
倭文子は目を細めている。詩歌達の苦しむ様を愉快そうに見ているようだった。
「カ、カゲノちゃ…」
詩歌は不安そうにカゲノを見た。カゲノはそれに気づくと、苦しそうにしながらも答える。
「っう、心配、するな…」
カゲノは小さく不敵に笑って続けた。
「私、が、このままやられると、思うな!」
声を張り上げるとどこからか黒い札が現れ倭文子を取り囲んだ。倭文子は影を操っていた手を下げ、札の動きを見つめる。そのお陰で影に捕らわれていた詩歌とカゲノは解放された。
「佐伯詩歌、大丈夫か」
「う、うん。平気」
詩歌の様子を確認すると、カゲノは倭文子に向かって新たな札を投げた。それを合図に倭文子を取り囲んでいた札は一斉に爆発し、黒い炎が吹き上がった。炎は見る見るうちに倭文子の体を包み込む。倭文子は醜く短く唸るとその場に座り込んだ。
「消え去るがいい」
カゲノが言うと大量の黒い札が四方から飛び出してきて、そのまま倭文子に襲い掛かった。燃え盛る倭文子の体を切り裂く。間髪入れずに再びカゲノは札を繰り出した。今度の札は倭文子の体に貼りついていく。炎は消えたが、倭文子の動きを封じることに成功したようだ。多数の黒い札が体に貼りついた倭文子は、かつて封じられていた時のように真っ黒な塊に見えた
動かなくなった倭文子の前にカゲノは立つ。
「随分あっさりとしたものだな」
「終わった、の?」
詩歌は隣に立ち、尋ねる。
「いや、まだだ。このままでは結局アンキがしたことと変わらない」
「じゃあ…」
詩歌の瞳が不安げに揺れる。カゲノはそれに気付いたが続けた。
「お前にとってこれは正しくないことなのだろう。だが、私にとっての正しいことはこれ以外に考え付かない。…嫌になったか?」
「え?」
カゲノは揺らぎない真っ直ぐな瞳で詩歌を見ていた。
「お前がどんなに酷なことだと思おうが、倭文子を消滅させる。私はこの方法しか出来ないのだ。お前がこんな私を見限っても仕方ない」
「そんな、見限るだなんて…」
「無理しなくていい。お前は目を背けていい。これは私が決め、私が背負うべき業なのだから」
「…うまく言えないけど」
そう前置きして詩歌は言葉を続けた。
「カゲノちゃんはこれまでずっと戦ってきて、色々なキ厄を知っている。彼らがどうしてそうなったのか、どんな罪を犯され、犯してきたのか。そして全ての事柄から彼らを消滅させるということがどんなに重く、辛いことなのか。だから、きっとカゲノちゃんのすることは間違いなんかじゃない。それが業だというなら、私も一緒に背負いたい」
「霧咲の家の業をお前が背負うことはない」
「私は霧咲家のことはよわからないよ。私が背負いたいのは、霧咲家とは関係ない、大切な友達の心の重荷だよ。私では力が足りないかもしれないけど、ほんの少しでもいいからカゲノちゃんに力を貸したいんだ」
「佐伯詩歌…」
「だから私は目を逸らさない」
「…わかった」
カゲノは小さくそう言うと、腕を伸ばし倭文子に向かって印を結び出した。舞うような指先の動きに詩歌は目を奪われた。徐々に手の動きは激しなっていく。余程の気力を使っているのだろう、カゲノの頬に汗が伝う。倭文子を包んだ黒い札は倭文子を押しつぶそうとするように、縮んでいった。
倭文子であった黒い塊は一回り程小さくなった。
「霧咲の名において彼のものを消滅させる」
印を結ぶ手がゆるりとした動きに変わる。
「おいては全ての罪、恨み、因果は霧咲の血が引き受ける」
手の動きが止まった。
「魂の還る場所よ消えろ」
その途端に倭文子を包んでいた黒い札は一気に収縮し、ビー玉ほどの大きさになったかと思うとまたすぐに膨張した。膨張したそれは、まるで小さなブラックホールのようにも見える。縦横それぞれ一メートルくらいの漆黒の靄だ。
「これはやがて空気に溶けて消えてなくなる」
全てを終えたカゲノの息は少し荒い。首筋にも額にも大量の汗が流れていた。
「これが、消滅させるということ…」
誰に言うでもなく詩歌は呟いた。
「…後は私一人で大丈夫だ。お前はあの二人を連れて山を先に下りていいぞ」
「そんなこと、言わないで。一緒にいたいよ」
「…そうか。もう後は時間が経つのを待つだけだ」
カゲノはそう言うと近くの木にもたれ掛かった。額に玉のような汗が浮かんだままだ。詩歌はカゲノに近づくと、そっとハンカチでその汗を拭う。カゲノは何かを言おうとしたが、口を閉じて身を任せた。
「気持ちがいいな」
詩歌はカゲノがそう呟くのを聞いて、これで終わったのだと実感した。薄暗い山は静かで、ほんのり冷たい風が心地良い。
「カゲノちゃん、今度一緒にドーナツ屋さんに行こ?」
「ドーナツ?」
「うん、凄く美味しいお店があるの。チョコとナッツのが私のお気に入りなんだ」
「…イチゴは?」
「えっ?」
「イチゴクリームのものはあるのか?」
「う、うん!あるよ!イチゴクリームもイチゴチョコもイチゴトッピングもあるよ!」
「そうか。楽しみだな」
詩歌はカゲノの意外な一面を見たようでとても嬉しくなった。なんて可愛い人なのだろうと、顔が綻んだ。
そしてまた静かで穏やかな時間が流れる。詩歌は倭文子のことを考えた。可哀想などと思ってはいけないのだ。そう思ってはカゲノの想いを台無しにしてしまう。こうしなければ沢山の人が倭文子に殺されていたのだ。その中に自分も、カゲノも、雅も佐羽も入っていたのかもしれない。
これでよかった。倭文子の境遇を思うと強くそう思いきれないが、決してカゲノのしたことは間違いなどではない。
(私も、そしてきっとカゲノちゃんも、倭文子、あなたのことをずっと覚えているから)
それが自分に出来る唯一のことだろうと詩歌は思った。
その時だった。
『呼、ンダ?』
「え?」
あまりに一瞬の出来事に詩歌もカゲノも目を丸くする暇さえなかった。
倭文子であった黒い靄から長く真っ黒い腕が飛び出してきてあっという間に詩歌の体を抱えて靄の中へと連れ去っていった。
「な、にが…?」
カゲノは呆然と黒い靄を見た。そしてすぐにハッとして靄へ駆け寄りその中へ腕を突っ込む。だがその靄に実体はなく、いくら腕を掻きまわしても何も触れるものはない。
「何故だ、どうして…」
カゲノはその場に膝をつく。
「このままでは佐伯詩歌も一緒に消滅してしまう…。どうしたら、どうしたらいいのだ…」
絶望に似た声でカゲノは言った。
「どうしてだ…どうして…。奴の動きは完璧に封じていた。印の結びも間違えてなどいない…。…力を隠していたのか?」
思いつくことを全て考えてみる。倭文子の狙いはこの時にあったのだろうか。カゲノが力を使い果たす瞬間。倭文子は己の最期の瞬間に全てを賭けたのだろうか。そうだとすれば、倭文子が本当に望んでいたのはこの世界、世間への復讐などではなく…。
「私達への復讐、なのか…?」
口にしてみて妙にしっくりくるその答えは恐らく正しいのだろう。しかしそれに今更気付いたところでどうなるというのだろうか。
「佐伯詩歌…」
もう一度靄に腕を伸ばすが、その手は空を切るだけだった。




