虚像の雛子
十二
「ああ、僕のお人形がぁ…」
「お人形がぁ、じゃねぇよ、ガキ。もっとうまくやれよ。すぐにバレただろうが。もっと新鮮な死体はなかったのかよ。見た目だけマトモにする術かけても動かしゃ速攻ボロが出たじゃねぇか」
八咫は舌打ちをして花緒を睨んだ。
「でも、セーラー服の死体なんて他にないし…。だからレアだったのに…。自殺の名所を六ケ所も巡ってようやく見つけたやつだったのに…。最近は死体があってもすぐに片付けられちゃうから大変なのに…。姉さまがどうしてもって言うから使ったのに…。ああ、それにしても若い女の人の死体っていいよね。綺麗なのも腐っているのもみんな素敵だよ、姉さま」
花緒が恍惚とした表情をするのを見て八咫はオェ、と吐く真似をした。
「ガキのくせにネクロフィリアとかつくづく救われねぇな、テメェは」
「ち、違うよ。僕は死体が好きだからコレクションしてるだけで……んんっ!」
うじうじと続けようとする花緒の唇を八咫は千切れんばかりの力でつねった。
「黙れ、気持ち悪ぃんだよガキ。まぁ、思ったようにコトは進まなかったがこれはこれで面白ぇ展開になりそうだな」
厳しい顔で睨みあうカゲノと佐羽を八咫たちは霧に紛れて観察した。
「それで?何がおかしいのか言ってみろ」
カゲノはどこか挑発的に言った。
「二人とも、今はそんな言い争いしてる場合じゃ…」
「詩歌、お願い少しだけ時間を頂戴」
佐羽の鋭い口調に詩歌は口を噤んだ。
「霧咲さん、あなたはどうして倒れているのが雛子ではないとわかったの?」
「あのようなモノを人間と見間違える方がどうかしている」
そう言われると詩歌と雅は申し訳なさで視線を落とした。
「違う。わたしはあれが起き上がるところを見た。途中までは人間と変わらなかった。ううん、そこはどうでもいい。わたしが言っているのはあれが起き上がる前のこと。あなたとわたしの距離はそんなに離れていなかった。わたしがあなたの少し前にいた。わたしの方が前にいたけれど…倒れている人の姿ははっきり見えなかった。足元の霧がとても濃かったから。かろうじてセーラー服が見えたくらい。それなのにあなたは、あれが起き上がる前に雛子であることを否定した」
それを聞いてカゲノは鼻で笑う。
「姿が見えなくとも私にはわかるだけだ。姿形でしか判断できないお前たちと一緒にするな」
「…そう」
佐羽はそう言うと目を閉じて、息をゆっくり吐くと目を開けた。
「見せてもらった手紙、あれは本当に今日のもの?」
その問いにカゲノの眉がぴくりと動く。
「どういうことだ?」
「わたしには、そう見えなかった。紙の傷み具合、インクの劣化…ほんの僅かだけど、わたしにはあれが昨日今日のものとは感ぜられなかった」
「詩歌、気付いた?」
雅が耳打ちする。
「ううん。少しもわからなかった。佐羽ちゃん、何を言いたいんだろう…」
詩歌の疑問をよそに二人の会話は続く。
「人の顔色伺いの次は手紙の鑑定か」
「そんなことはできない。ただ、そう思っただけ」
「…そうか。やはりただの時間の無駄だったようだな。お前たちはここに置いていく。行くぞ、佐伯詩歌」
カゲノはそう吐き捨てると、佐羽に背を向けた。
「えっ、待ってカゲノちゃ…」
「話はまだ終わってない」
刺すような佐羽の言葉にカゲノは立ち止まり顔だけを佐羽の方へ向けた。
「…………」
凍てつくような鋭い視線で佐羽を見る。
「ここまで言って何も話さないつもりなら、一番怪しいと思ったことを聞く」
「話の内容によっては、その煩い口を塞いでここに置いていくことになるぞ」
カゲノは完全に怒り、彼女には珍しく感情的な態度を取った。黒い札を指に挟み、佐羽へ向けたのだ。カゲノが力を込めればすぐに札は佐羽に襲い掛かるだろう。
「好きにしていい」
「では聞こう」
「あなたは今日、雛子に会ってないと言った。それなのに…どうして彼女がセーラー服を着ていると知っていたの?」
「そ、れは…」
カゲノはその質問に少なからず動揺をしたようだ。しかし自らを納得させるように首を振り、動揺を抑えた。
「雛子も私も普段から制服で出かけることが多いから、今日もそうだろうと思っただけだ」
「…また、嘘をついた。わたしにはわかると言ったはず」
「嘘ではない!」
カゲノは声を荒げ、わなわなと体を震わせた。その様子に詩歌と雅は驚く。
「佐羽、ちょっと言い過ぎだよ。ウマが合わないのかもしれないけどさ、今ここでそんなこと話し合ってもしょうがないでしょ?」
雅が佐羽を宥める。
「雅、わたしもわかってる。疑って、追い詰めるような酷いことをしているのを。でも、これはきっと大事なこと。このままにしておいてはいけないこと」
雅と佐羽が話し合っているのを見て、詩歌はいつもと様子が違うカゲノを落ち着かせようと彼女の肩に手を置いた。
「カゲノちゃん、あの、なんていうか、その…」
気の利いたことを言おうとするが上手く話せない。まごまごしている内に、カゲノの様子の変化に気付いた。
「カゲノちゃん?」
カゲノは虚ろな目を見開き、どこかずっと遠くを見ている。勿論視線の先には何もない。カゲノは自らの体を抱きしめると、何かを小声で呟き始めた。雅と佐羽も会話を止めてカゲノの方を見た。
「……わ、た、しは見た…のか?これ、は…私は…雛子は…。いや、しかし…でも…」
「カゲノちゃん!しっかりして!カゲノちゃん!」
たまらず詩歌はカゲノの肩を揺するが、カゲノされるがままに揺さぶられるだけだった。
「この記憶は、光景は…」
「カゲノちゃん!」
「おいおいどうした霧咲ちゃんよぉ」
突然霧の奥から声がした。
「あなたは…」
「あんまり楽しそうだったからつい顔出しちまったぜ」
霧の中から現れたのはは八咫だった。相変わらずの下卑た笑みを浮かべている。
「ね、姉さま…遠くから見るだけのはずじゃ」
「あぁ?アタシに偉そうな口きくんじゃねぇよ、ガキ」
「ご、ごめんなさい…」
「んなコトより」
八咫はニィと口角を上げると呆然としているカゲノの正面に立った。詩歌はそれから庇うようにカゲノの前に立つ。しかし八咫は尚も愉快そうに笑い、詩歌の顔を覗き込んだ。
「かわい子ちゃんよぉ、面白ぇ話聞きたくねぇか?」
「き、聞きたくありません!カゲノちゃんから離れてください!」
八咫をキッと睨み付けて言ったつもりだが、慣れない強気なセリフに詩歌の表情は弱弱しい。
「そう言うなって。アタシはマジで雛子のコト知ってんだぜ?なぁ、霧咲、テメェも知ってんだろぉ?なぁ?」
カゲノは八咫の言葉にハッとした様子を見せる。
「私が、知っている?私は、知っている…」
「そうだ!思い出せよ!」
八咫は詩歌を突き飛ばすと、カゲノの顔を両手で掴んだ。呆然とするカゲノに有無を言わせない八咫の迫力、二人の間に割り込む隙は無かった。
「大事な大事な雛子チャンのコトだぜ?お前が忘れるわけないだろ?」
気味が悪いくらいの優しい猫撫で声で八咫は言った。
「大事な、雛子…」
「ああ、可愛い可愛い雛子チャンだ」
八咫とカゲノの顔がキスが出来そうな距離まで縮まる。八咫はその距離でカゲノの瞳をじっと見つめた。
「…………ぁあ!」
カゲノの瞳孔が大きく見開かれた。しかしその目にすぐ前の八咫の姿は映らない。詩歌の姿も、濃い霧の風景も見えない。カゲノが見たのはこの場の光景ではなかった。
過去の光景。赤とんぼがススキの先に止まっている。コスモスのキツイ匂いが鼻腔をくすぐる。夕暮れの赤い夕陽が遠くでぼやけて見える。足元で枯葉を踏む音がする。
五感の全てが過去へと飛んでいった。
「あ、れは…?」
森の奥深く、枯れた雑草の上に横たわるのは誰だろうか。近くを流れる川のせせらぎが大きくなる心臓の音を隠す。
瞳に映るのは泥で汚れたセーラー服と彼女の自慢の柔らかい髪の毛。血の気を失った太ももの上をコオロギが這う。
これは誰だろうか。誰だっただろうか。目の前に倒れるこの彼女は…。
「雛子、雛子…」
嗚咽交じりの声で涙を流すのは雛子と良く似た女性。美しかった彼女はほんの少しの時間で何十も年を取ったように見えた。
不意に彼女の乱れた前髪の隙間からナイフのような目がこちらを見た。
「あなたのせいで、あなたの…!霧咲は今も昔もただの人殺し集団じゃないの!」
胸元を掴まれる。でも、それは違う。霧咲は多くの人間を救ってきたのだから。死んでいくのは力がないからだ。
彼女は、雛子の母はやがて少女のようにすすり泣いて地面に額をつけた。
「お願い…雛子を返して。お願い、お願いします…。返してください…。お願いします…」
返す?何を言っているのだろうか。だって雛子は…。雛子は…?
足元に倒れるセーラー服の少女。柔らかい髪の下に隠された顔はどんな表情をしているのだろうか。
地面に膝をつく。彼女の髪に触れる。そのまま顔にかかった髪の毛を掻き上げる。彼女の顔が見えた。ああ、私は彼女を知っている。
「思い出しただろ?霧咲?」
八咫が掴んでいたカゲノの顔を離すと、カゲノはずるりと脱力してその場に座り込んだ。
「カゲノちゃん…」
詩歌はまたカゲノの肩を揺さぶったが、完全に脱力してしまっており壊れた糸人形のようだった。目も輝きが失われ翳っていた。
「ああ、いい顔だ。ゾクゾクするぜ。今、ヤっちまったら操りやすいキ厄になりそうだなぁ」
八咫は恍惚とした表情で鎌を振り回す。
「ま、待って姉さま。カゲノさんの死体なら僕も欲しいです」
花緒も頬を赤くしている。そんな二人を見て詩歌はここから逃げなくてはと思った。ここにいてはカゲノに危害が加わるだろう。
「立って、カゲノちゃん」
カゲノの腕を自分の肩に回し無理矢理立ち上がらせたが、完全に脱力した人間の体を一人で支えるのは困難だった。
「待てよぉ。どこに行くんだ?」
シュンと音を立てて鎌が詩歌の目の前を走る。髪の毛が数本切れて目の前を舞った。
「どけてください」
詩歌は今度こそ強気に言った。
「はい、どうぞ、なぁんて言うわきゃねぇだろぉ?ほぉら、霧咲を置いて行けよ。テメェらがコイツを置いて逃げたって追いかけたりしねぇからよぉ」
「嫌です!あなた…あなた一体カゲノちゃんに何をしたの!?」
「アタシは何もしてねぇよ。ただ、思い出させただけだぜ。雛子がとっくに死んでるってことをな!」
言うと八咫はケラケラと笑い出した。
「雛子さんが…死んでいる?そんな、だって…」
「嘘じゃねぇぞ、いつだったか忘れちまったがな。霧咲が殺したんだっけなぁ?ああ、違った、霧咲が巻き込んだんだったなぁ。だから霧咲もそんなんになっちまったんじゃねぇか。しっかし自分の都合の悪ぃことは忘れちまうとは、所詮霧咲もヒトの子ってことか?ま、お陰でこんな面白いぇコトになってくれたがな。ああ、想像するだけでたまんねぇぜ、あの霧咲を好きなように出来るなんてなぁ」
八咫の目は興奮で赤く充血している。
(どうにかして逃げないと…!)
気は焦るがカゲノの体を支えたままで歩くことさえ出来ない。詩歌が苦戦していると、ふっとカゲノの体が軽くなった。
「雅ちゃん!」
見ると雅が詩歌の反対側から体を支えてくれていた。
「とにかくどっかに逃げないとね」
雅はウインクとともに笑った。
「はあ?逃げるだって?」
八咫はぶん、と鎌を振り回した。
「無理無理無理無理。テメェら如きが逃げられやしねぇよ。手間かけさせるんじゃ…………っ!」
喋りながら突然八咫は振り返り、何かに向かって鎌を振り下ろした。ガキン、と音がして真っ二つになった何かが地面に落ちた。石だ。こぶし大の大き目の石が綺麗に二つに別れて転がっている。
「おいおい、チビよぉ、キャッチボールしてぇなら声かけてくれねぇと危ねぇだろ?」
ニタリと八咫が笑って見た先には佐羽がいた。佐羽は数個の大きな石を片腕に抱えて、もう片方の手で持っていた石を再度八咫に向かって投げつけた。
しかし八咫はそれを軽く避ける。
「チッ、うぜぇな。テメェからやってやろうか?」
八咫は鎌を振り回しながら佐羽へ向かう。佐羽は抱えた石を一つ、二つと投げつけるが鎌にはじかれて八咫の体をかすめることさえなかった。腕に持った石が底をつき、万事休すとなった時、佐羽は詩歌達の方をちらと見た。それに気付いた詩歌はハッとする。
(佐羽ちゃん、私たちを逃がそうとしてる…!?でも、そんなこと…)
佐羽の真意を理解しても、友達を見捨てていくことは詩歌にはとても出来なかった。そうしている間に八咫は佐羽に迫っていく。どうするべきなのか、どうするのが正解なのか…詩歌は考えるが答えは出ない。
「おい、花緒!」
八咫は突然声を上げた。
「言わなくてもわかってるとだろうが、そいつらのこと見張っとけよ」
「はい、姉さま。カゲノさんの体はちゃんと見張ってます!」
花緒はニコニコとカゲノを見つめていた。まるで詩歌と雅の姿は目に入っていないようだった。しかし、折角佐羽が八咫の気を引いてくれたというのに、見張りがいてはどうすることも出来ない。それには佐羽も悔しそうに唇を噛んだ。
「霧咲が手に入りそうだったから、アタシの機嫌も最高にヨカッタのに、テメェらがうっぜぇから気が変わっちまったよ。生きて逃がしてやろうと思ったがヤメだヤメだ」
八咫はゆるく首を振った。
「全員ブチ殺してやるよ」
カッと見開かれた八咫の目は本気を物語っていた。それに見つめられた佐羽は思わず怯えた。必死になって八咫に向かっていたが、全く恐怖を感じないわけではなかった。
「花緒ぉ、コイツらの死体欲しいか?」
「ほ、欲しいです!若い女の人の死体はレアだからコレクションしたいです!」
「キメェな。ま、そんならなるべくお顔は綺麗なまんま死なせてやるよ!」
八咫は鎌を振りかぶった。
「佐羽ちゃん!」
「佐羽!」
二人の悲鳴より先に八咫の鎌が振り下ろされた。佐羽はそれをギリギリのところで避けたが、ほんの少し鎌の先が腹部に触れた。それは僅かだったというのに、佐羽の腹部はスッと横に斬られ白い服にじわりと赤い血が浮かんだ。
「さ、佐羽ちゃん…!」
詩歌は一度、カゲノの体を離れ、佐羽に駆け寄ろうとした。
「大丈夫!」
佐羽は震える声で言った。
「傷は、深くない。平気」
そうは言うがこの状況で負った怪我に浅いも深いもない。
「今…今助けるから!」
「はあああああ?何を助けるってぇ?」
八咫はバカにしたような口調で言う。
「くっだらねぇなぁ。ああ、くっっだらねぇ!折角のいい気分が台無しだぜ!アタシはなぁ、テメェらみてぇな弱ぇくせにキャンキャンキャンうるせぇのが大っっっっ嫌いなんだよ!」
苛立ちを表すように八咫は鎌を振り回す。
「ね、姉さま、体あまりぐちゃぐちゃにしないでね。ああ、でもぐちゃぐちゃなのもそれはそれでいいかも…」
興奮して息を荒くする花緒に詩歌と雅はぞっとした。
「うるせぇよガキ。アタシに指図すんじゃねぇ。アタシはアタシのヤりたいようにヤるさ」
八咫の目が据わった。本気で全員を殺そうとしているのが気配で伝わってくる。詩歌達は身構えたが武器も何もない状態では何も出来ない。仮に武器があったとしても八咫をどうにかすることなど出来ないだろう。唯一戦えるであろうカゲノは体を支えなければ立つことさえ困難だ。
「雅ちゃん、ごめんね」
「どうして詩歌が謝るの?」
「だって、こんなことになっちゃって…」
「私らが勝手に来たんだもん、詩歌は謝らないの」
「でも、佐羽ちゃんは怪我までしちゃって…。私、私…」
涙が零れそうになる。
「詩歌、泣かないの。佐羽だってそうやって詩歌が悲しんでるのを見たくないはずだよ?」
佐羽は腹部の怪我を押さえながらも、心配そうに詩歌を見ていた。八咫の一番近くという最も危険な位置にいるのに、自分のことよりも友人の心配をしているようだった。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ!」
八咫が振り返り、鎌を思い切り振りかぶって勢いよく下におろした。鎌の刃先から目に見える黒い衝撃波が生まれ、空気を切り裂き詩歌達に迫った。
詩歌はカゲノと雅をぎゅっと抱きしめて目を瞑った。同じように雅も抱きしめ返してくるのを感じた。雅には恐らく衝撃波は見えていないのだろうが、強い風が巻き起こり何かが起きたのを肌に感じたようだ。
あれを喰らえばどうなるのだろうか。体が八つ裂きになってしなうのだろうか、それとも木端微塵に弾けてしまうのだろうか。どんな恐ろしいことが起きるのか、わからないまま体を強張らせて衝撃を待つ。
………………………。
しかし衝撃は来ない。恐る恐る目を開けてみると衝撃波は消えていた。それどころか八咫は憎々しげな表情を消し、霧のずっと奥を目を細めて見ていた。花緒も同じ所をじっと見ている。詩歌もつられて彼らが見ている方を見た。
何も見えない。ただひたすらに濃い霧が続いているだけだ。
「なるほどな、こりゃあ厄介そうだ」
八咫は舌なめずりをして呟いた。その瞬間、濃い霧の中に黒い人影が浮かんだ。陽炎のようにその影は揺れる。
ゆっくり、しかし確実に影は近づいてくる。そして霧を纏い、姿を現したモノを見て詩歌は
、ああ、と思った。
いつしか彼女と出会った時の記憶が目に浮かぶ。それはあの、カゲノの神社でのことか、それとももっと昔のことだったか、詩歌の頭の中にフラッシュバックのように色々な光景が浮かんだ。
倭文子、ソレは確かにそうだった。
左の二の腕、右足の脛、首の左半分、右の胸、ミイラ化しているのはもうその部分だけだ。針金のようだった髪の毛は油で撫でつけたかのようにしっとりとしている。
カメレオンに似たぎょろぎょろとした黒目は相変わらずだ。
倭文子の異様な雰囲気に空気が止まった。八咫は詩歌たちから興味が逸れたようで、興味深そうに倭文子を見ている。そして舌なめずりを一つしたかと思えば鎌を左右に振り、あの黒い衝撃波を倭文子目がけて繰り出した。先程のものと違い、黒い衝撃波は途中でふわりと上昇し、漆黒色のカラスへと変じて倭文子に向かって急降下する。
鋭利な嘴が倭文子の顔面を抉ろうと狙いを定めた。倭文子は一点を見つめたままカラスを全く気に留めていない。しかしカラスは倭文子にの顔面スレスレまで近づいた途端、煙になって消えた。
「…なるほどな」
八咫は思案顔で呟いたあと、その場に背を向けた。
「姉さま?」
「ヤってヤれねぇことねぇがアタシは面倒くさいのはごめんだぜ。霧咲は惜しいがチャンスは今だけじゃねぇ。そこのキ厄にヤられてから回収すんのも手だ。行くぞ、花緒。じゃあなぁ、かわい子ちゃん。アタシに殺されてた方がよっぽど良かったと思うぜ」
「待って、待って、姉さま」
去っていく八咫を花緒は慌てて追いかけた。この場に残ったのは詩歌達と倭文子だけになった。
雅は、信じられないものを見る目で倭文子を見ている。大きく開いた瞳には恐怖が浮かんでいた。佐羽は、表情こそは変わらないが倭文子の姿形だけではない異様さを感じ取っているようだった。
そしてカゲノは、倭文子が現れたにも関わらず、何の反応も示さない。
倭文子は、歩みを止めて立ち止まり焦点の合わない黒目を遊ぶようにくるくる動かしている。詩歌はここでどうするのが最良なのかを考えた。今、この場ですべき正しい行動は…。
「雅ちゃん」
詩歌は心を決めた。
「詩歌?」
「三人で逃げて欲しいの。雅ちゃんなら、この山を下りられるはずだから」
「な、何言ってるの。この状況で…」
「私はここに残る。倭文子が狙っているのは私とカゲノちゃん。二人が同時に逃げれば倭文子は追ってくる。どちらかがここに留まれば、きっと倭文子は残った方を先に始末しようとすると思うの。だから、私は残って倭文子の気を引く」
「そんなこと出来るわけ…!」
雅は詩歌の顔を見て言いかけた言葉を飲み込んだ。詩歌は今までに見たことがないくらい真剣な顔をしている。
「大丈夫。少し引きつけたらすぐに私も逃げて合流するから、ね?」
詩歌は不安を少しも見せない、固い決意を込めた笑顔で言った。それを見ると雅は反対することはできなかった。
「…わかった。でも、約束して。後で絶対に合流するって」
雅は小指を差し出した。詩歌はもう一度笑顔を見せると、その小指に自分の小指を絡めた。
「約束する」
「ん。じゃあ、行くね」
雅は名残惜しそうに小指を離すと、カゲノをおんぶして立ち上がった。佐羽の元へ行くのに倭文子の前を通らなければならなかったが、幸い倭文子は呆けたように立ったままで何もしてこなかった。
「佐羽、行くよ」
「行くって?詩歌は?」
「後で合流するよ」
「そんなのダメ。詩歌も一緒じゃないと」
「大丈夫。詩歌もすぐに来るって約束したから」
「ダメ。それならわたしも詩歌と一緒に行く」
「佐羽!」
雅は声を荒げた。雅がそんな声を出すのを初めて聞いた佐羽はびくりと体を震わせた。
「佐羽は怪我してるでしょ?詩歌と一緒に残ってどうするの?」
「それは、でも…!」
「佐羽の気持ちはわかるよ。でも、詩歌を信じられない?」
「雅…」
「信じられるよね?」
「…うん」
「じゃあ、行こう?怪我は平気?」
「…うん」
佐羽は名残惜しそうに詩歌を見た。詩歌はそれに気づくとにっこり笑う。
「詩歌、あとでね…」
「そうだよ、佐羽。後でまたすぐ会えるから」
雅と佐羽は互いに頷き合って、その場を離れた。詩歌はその姿が霧に隠れて見えなくなったのを確認すると、離れた位置から倭文子の正面に立つ。
(カゲノちゃんは倭文子の力がまだ完全じゃないって言ってた。だからきっと、私にも引きつけて逃げるくらいのことは出来るはず…)
詩歌はすぅっと息を吸った。
「倭文子、あなたの気持ちはわかる。だけど、あなたのしたいようにされるわけにはいかないの」
長い時を経て、二人は再び向かい合った。




