夏はラムネ色をしてやってくる
風を感じる。ふわぁっと髪が広がる。太陽の光が見ずに反射してきらきらと輝く季節。いつの間にか月日は巡って7月とか8月とかになっていて私はある時にふと気が付くのだ。
ああ、もう夏が来ているのだと。
私はラムネというものが好きだ。あの独特の瓶のフォルムは大きな目のついた怪獣みたいでちょっと不気味ですらあるのに、中身は冷え冷えの甘い炭酸飲料で宝物みたいなビー玉が一つ眠っているのも真珠みたいでロマンチックだ。このアンバランスさが好い。それにだいぶ前の夏の日を思い出すのだ。
水平線を眺めて過ごしたあの夏。遠くて近い海と太陽の距離を。
田舎の港町。夏休みに親類の家に追いやられた私は、今日も一人で波止場の端に腰かけて足をぶらぶらさせている。都会の学校のセーラー服は私を守る防具の一種で、毎日のようにそれを着ていた。後ろから人が来た気配がしても振り向かなかった。それが誰かを私はちゃあんと知っていたからだ。
「はい。」
突如、顔の真横に現れたそれに驚く。ほんのり涼しい海風より心地の良いひんやりしたラムネの瓶。
「ありがと。」
差し出される冷えたラムネの瓶は汗をかいていて、その雫が私のよりずっと大きな手を、指先を濡らしている。私は薄い笑顔でそれを受け取った。じっと見つめるラムネの瓶。大きな手の持ち主は「ああ。」といって笑った。
「開け方知らない?見てて。」
そう言って手渡したラムネの瓶を取る。力の入る指先、太陽光に透ける色素の薄い髪、長くて黒いまつげに覆われた優しい瞳は伏し目がちだ。一瞬ぐっと力が一気に入り、ぷしゅんと音を立ててビー玉はラムネの口から落ちる。溢れだす白い泡と液体。
「わっ・・・ごめん、ちょい失敗したっぽい。」
「や、ありがとう。」
そう言って私が受け取ると自分の分のラムネを同じようにぷしゅっと開けて彼はごくんと飲んだ。
「ふー。」
「おっさんみたい。」
「えーひどくないそれ?まだ二十代なんですけどー。」
けらけら笑う彼を無視して一口ラムネを飲んだ。
「つめた・・・美味し。」
「んまいっしょ。俺好きなの、コレ。ちっさい頃からずっと。」
「ビー玉あるからでしょ?」
太陽にラムネの瓶をかざす。液体とガラスと中のビー玉と全てに別の光を注いでいるみたいだ。幻想的な色、その全てがきらきらと輝いて見えるのはきっと「夏」のせいだ。
「んー?それもあるけど。ちょっと怪獣みたいじゃん。」
「はぁ?怪獣・・・なんで、どこが?」
「あはは。だよね、でもさーここが大きな目に見えんじゃん。ウルトラマンとか来てやっつける感じ?俺はうまくて冷たくてヒーローになれんじゃんって思ってた。」
「え、あー・・・飲んで倒すってこと?」
「そそ。自由っしょ、子ども。」
「だね。」
ごくんごくん。ラムネは冷たくて美味しかった。きらきらと水は輝いて、彼の髪は日に透けて綺麗で海風が私の黒髪を梳く。潮風で髪はざらざらになる。
田舎から都会に戻る日、同じように座っていた。彼は隣りにいた。
「また遊びに来いよ。」
「うん、またラムネ飲もうね。」
「おお、何本でも奢ってやる。」
「やった。」
船の時間までまだちょっとあって、この日も水面はきらきら輝いていて、どうしようもなく綺麗でセーラー服で武装したままの私はまだここに居たかった。きらきらと太陽光は海面を輝かせ、海は紺色。彼の髪はふわふわとしていて、茶色の虹彩が見えなくなるくらい目を細めて笑う。私の肌は海辺で過ごしたとは思えない程に白くて真っ黒の髪は潮風にさらわれてしまいそうになる。
声がした。少し遠くから彼を呼ぶ声。女の人の声、若くて綺麗な女の人の声だった。振り向き、立ち上がった彼は笑って応えた。男の声と顔をしていた。やってきた女の人に私を紹介する彼はお兄さんの顔をしていて、私は人見知りで恥ずかしがっている姪の顔をしてぎこちなく微笑んだ。
船のデッキから手を振った。もう私はこの港町にはやって来ないだろう。私は帰っていくのだ、防御して守った都会の女の子として帰っていくのだ。港が見えなくなって私は自分の力で、両手でラムネを開けた。ぷしゅっと音を立ててビー玉が転がった。口にしたラムネはこんなときでも甘くて切なくて、でも本当はすごく苦かった。
夏が来たことを気が付きたくなくて、都会の女子高生は都会の女子大生に会社員になって都会の妻から母となった。私は幸せである。
それでも夏が来たことを感じ取った時、あの夏の港町とラムネを思い出す。可愛かった私の苦い思い出として。
夏はラムネ色をしてやってくるけれど、ほんとうはちょっとだけ苦いソーダ水でもある。
ありがちな話ですが、夏っぽいものを書いてみたくて作りました。