58:男の話
今年の一月くらいだったかな。
歩道橋を上がってたら、前からお腹が大きい妊婦さんが最上段から降りてようとしたタイミングで、階段から落ちたんだ。
俺はちょうど前にいたからとっさに支えようとしたけど、もういつ生まれてもおかしくなさそうなくらい大きなお腹だったから、力も体格も全然足りなくて、妊婦さんは自分のお腹を庇うのが精いっぱいで、自分で踏ん張ったりバランスを取ったりすることもできなかったから、俺ごと落ちたんだ。
運よく、俺と妊婦さんの着地位置に近所のマンションで干してた布団がふっとんできて、それがクッションになって、どっちも大した怪我しなくて済んだけど。
……今の洒落じゃねぇよ! 素で言っただけ! ただの事故!!
……どうでもいいこと言ってごめん。
話を戻して、俺も妊婦さんも手足を階段の段差で打ったぐらいの怪我ですんだんだけど、俺は妊婦さんのお腹が心配だし、妊婦さんは下敷きにしちゃった俺のことを心配してるしで、結局、俺らが落ちるのを見てた人が救急車を呼んでくれて、俺も妊婦さんもそれに乗って病院に行ったんだ。
で、そこで医者に俺はもちろん、妊婦さんも母子ともに問題なしの太鼓判を押されたんだけどさ、……俺は全然安心できなかった。
だって、足を滑らせたとか段差を踏み外したとかで落ちたのなら、足から落ちるじゃん?
その妊婦さん、思いっきり前のめりに頭から落ちたんだ。明らかに突き飛ばされて、落ちたのを確かに見たんだ。
……その妊婦さんの背後には、誰もいなかったのも確かだった。
もうこれはあきらかに、俺というか羽柴の分野だよなーと思ってさ、怪しまれて引かれるのを覚悟で、病院で互いに迎えの家族を待ってる時に訊いてみたんだ。
怪談から落ちたのは、突き飛ばされたからですよね? って。
そしたら妊婦さん、ただでさえ落ちた時から悪かった顔色を真っ青にして、「見えたの!?」って訊き返してきたから、俺は正直に話したんだ。
俺は自分と波長の合うやつか俺にちょっかいをかけて来ようとする奴しか見えない、見えても見えるだけで何もできない、でも何とかできる知り合いがいる。
もし良かったら、その知り合いに何とかできるよう頼みましょうか? って、何とかするのは羽柴なのに、俺は勝手に言っちゃったんだよ。
いきなり初対面の小学生にこんなこと言われても、信用されるわけないよな。
妊婦さんはめっちゃ迷ってたけど、自分のお腹をしばらくギュッと抱きしめるようにしてから、俺に「お願い」って頼んだんだ。
で、俺は妊婦さんにとりあえず、明日の4時ごろに近所の公園で会う約束をして、家に帰ってすぐに電話で羽柴に頼みこんだよ。
羽柴は本当に何も関係ないし、いきなりなのに「いいよ」って了承してくれたんだ。
俺マジで羽柴に足を向けて寝れない。
それから次の日さっそく羽柴を公園に連れて行ったら、妊婦さんが公園のベンチに座ってたんだ。
妊婦さん、本当に俺が来たことにまず驚いて、そして連れてきたのは俺と同い年の美少女であることにさらに驚いて、最後にその美少女がいきなり真顔のまま自分に向かってダッシュしてきたことに、驚きを通り越して固まってた。
何してんの、羽柴さん!? って俺が突っ込む間もなく、羽柴は妊婦さんの元まで走って行って、そのまま妊婦さんの肩の上あたりに綺麗なストレートパンチを決めた。
……羽柴の拳が何にもない空間、妊婦さんの肩の上に決まった瞬間、妊婦さんの肩にボトトッ! って赤い液体が落ちて来て、妊婦さんと俺が悲鳴あげた。
その落ちて来て妊婦さんの肩を汚した液体は、血。
俺、妊婦さんに性質の悪い悪霊が憑いてて、羽柴が即行でそれを殴ったんだってことはわかってたんだけど、何で俺に姿は見えないのに、羽柴に殴られてたぶん出たであろう鼻血らしきものは俺にも見えてんの!? ってパニッくったわ。
羽柴は俺や妊婦さんのパニックを落ち着かせる気も、血の説明もする気がなくて、自分の手についた血をハンカチで拭きながら、妊婦さんにこんなことを言ってた。
「母親になるか女のままでいるか、選びなさい。個人的には、女のままでいたとしてもその男とは縁を切った方がいいと思いますけど」
羽柴にそう言われた瞬間、妊婦さんは必死で肩についた血を拭おうと手でゴシゴシこすってたのをやめて、羽柴を見返してた。
その時の顔色は、青を通り越して真っ白だったのを覚えてる。
そのまま何も言わずに妊婦さんが固まっちゃって、羽柴の方は言いたいこと言ったらもうさっさと帰ろうとするから、俺は妊婦さんにとりあえず取り憑いてたものは羽柴が物理で何とかしたから大丈夫! あとは、羽柴の忠告通りにした方がいいっすよ。あいつが間違えたことを言ったことないですし。って一方的に言って、そのまま羽柴の後を追って訊いたんだ。
結局、あの妊婦さんに憑いてたのは何? って訊いたら、羽柴は少し不愉快そうに言い捨てたんだ。
「父親にも大人にもなることにも逃げたバカな男の生霊」って。
……もうそれを聞いた瞬間、羽柴が妊婦さんに言った言葉の意味を訊く必要がなくなったわ。
どういう理屈かは俺にはさっぱりだけど、殴ってでた鼻血が俺にも見えたのは、死霊の血じゃなくて本体とリンクした生霊が出した、本物の血だったかららしい。
つーか、なんとなく感じてた妊婦さんの違和感が、あの時わかったよ。
そんなに多くないけどさ、羽柴や俺以外に霊が見える人とか悪霊とかに危害を加えられる人に今まで見てきたけど、そういう人に俺も霊が見えるってことを話したら仲間を見つけたと思うのか、ちょっと安心した様子を見せて、でも見えるだけで何も俺はできないってことがわかったら、どんなにうまく隠しても役にたたないなぁみたいな期待外れ的な感情が見えるんだ。
別にそれはいいんだよ。俺だって、逆の立場ならそういう反応してると思うし。
その妊婦さん、俺が突き飛ばされましたよね? って訊いた時、顔を真っ青にして焦ってたんだ。
そんで、俺が姿は見えなかったってことを話したら、少しだけ、ほんの少しだけだけど……安心してるみたいに見えたんだ。
今までとは、普通とはほとんど逆の反応だったんだ。
その時は気のせいだと思った。何とかできる奴を連れてくるって言って迷ってたのは、俺がガキだから信用できないからだと思ってた。
……初めからあの人は、わかってたんだな。
自分のお腹の中の子供を殺そうとしているのは、自分の旦那……子供の父親だってことに。
それ以上のことは聞けなかったし、聞きたくもなかったよ。自分の子供も嫁も殺そうとした、クソ男の事なんて。
むしろ、またこんな後味悪いことに羽柴を巻き込んだのが本当に申し訳なくて仕方なかったから、羽柴に謝りまくって逆に困らせたなー。
その後、詫びと礼に何でもするって言ったら、羽柴に「コタツでアイス食べたい」って答えたから、近所のコンビニでアイスおごって、俺ん家のコタツで一緒にアイス食べたのはむしろ俺得だった。
そんな最終的にはいい思い出に分類できた話だったんだけど、まさか今日に続くとは思ってなかったわ。
羽柴が今日、学校で「お礼とおすそ分け」って言って、菓子折りと瓶詰のハチミツをくれたんだ。
菓子折りは高そうな焼き菓子がいくつか詰まったもので、ハチミツは牛乳瓶より一回り小さいくらいのサイズの瓶で5つも。
どうしたんだよ、これ? って訊いたらさ、あの時の妊婦さんが昨日、羽柴の家に訪ねてきたんだって。
妊婦さん、羽柴の忠告通り、選んだんだ。
母親になることを。
わかってたけど、これはちゃんと聞けて嬉しかった。
そうだよな。除霊を迷ってたとは言え、結局はきちんと除霊することを選んでたんだよな。
……階段から落ちる時、自分の頭とか体なんか一切庇わず、お腹だけを庇ってたんだ。
あの人はちゃんと母親だ。
あの時、羽柴が旦那の生霊を殴ったおかげで本体も大怪我して、そのせいか生霊を出す気力も体力なければ、本人が直接危害を加えることもできなくて、おかげで無事に出産できたんだって。
妊婦さんは、自分が旦那以外の男、たとえ妊婦さんの実の兄弟であっても嫉妬して、ちょっと会話するだけでグチグチ文句を言ってくるような旦那だけど、子供が生まれたら変わってくれる、ちゃんと父親になってくれると信じてたんだ。だから、自分に憑いてるものが旦那だってわかってても、気の所為だって自分に言い聞かせてた。
でも羽柴の言葉で目が覚めた。生まれる前に殺そうとする奴が、生まれてから変わってくれるわけないし、変わったって子供を殺そうとした事実はなくならないことに気付いて、子供の為に離婚する決心がついて、今月になってようやく離婚が成立したんだってさ。
そんで、子供を守ってくれたことと離婚を決心させてくれたことのお礼がどうしてもしたくて、実家に子供と帰る前に羽柴と俺を探して、羽柴は色んな意味で目立って有名人だし、羽柴の家は店やってるから割とすぐにわかったんだろうな。
羽柴は妊婦さんに、俺にも礼を伝えておいてくれって言われて、預かってたお礼の菓子折りとハチミツを持ってきたってわけだった。
……これだけなら、やっぱりいい話だと思うじゃん。
羽柴さ、何かずっと不愉快そうだったんだよ。
俺が何か怒らせたのかと思って焦ったけど、羽柴が自分で「ソーキさんの所為じゃないよ」って否定してさ、じゃあどうしたんだよ? って訊いたら、ちょっと迷ってたけど訳を話してくれた。
妊婦さんからのお礼は菓子折りの方だけで、ハチミツは「良かったらもらってほしい。私は捨てるためとはいえ、触りたくもない」って言って、渡されたものだったらしい。
そのハチミツ、10本くらいセットの高級品でさ、離婚が決まった旦那が最後に「子供と食べてくれ」って言って渡したんだってさ。
それを聞いた時、俺はバカなことに旦那は今更で遅かったけど、少しは反省したんだって思ったんだけど……羽柴が教えてくれたよ。
乳児にハチミツは、絶対に与えちゃいけない食べ物だってこと。死んでもおかしくないんだって。
……俺さ、男であることが嫌になってよ。
ハチミツをやったのがわざとならいっそただの最低ですむけど、わざとじゃないなら結局、反省しても赤ちゃんには何が良くて何が悪いかも調べていない、父親として最低な奴ってことじゃん?
そんな奴の事なんか何一つとして理解したくないし、そんな奴みたいになりたくないのにさ……少しだけわかる部分があるんだよ。
好きになった女の子にさ、自分だけ見て欲しい。他の奴なんか視界にも入れないでほしいっていう、嫉妬と独占欲は俺にだってある。
だから少し、告白もしてないガキの俺が心配する必要はないってわかってるけど、少し、怖い。
一番なりたくない、父親にも大人にもなろうとしないバカに、俺もなるんじゃないかって思っちゃったんだ。
* * *
『心配しなくても、あんたはそんな男になれないわよ。
見ず知らずの妊婦を庇って、階段から落ちたあんたがなるわけないわよ』
元ネタと言うよりアイディアのきっかけとなったのが、「地.獄.堂.霊.界.通.信」の「地.獄.墜.ち」
ちなみにこの作品、児童書です。知っている方こそ信じられないかもしれないけど、児童書です。
次回は羽柴さん無双です。




