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ハトジケ  作者: misodrill
2/4

ハトジケの二話め 「まる かいて ごん」


0‐IN


 気が付いた時、私は闇の中にいた。


 それは、完全な暗闇だった。

 最初、私の脳裏に浮かんだのは、自分の瞼が開かなくなったのでは、という危惧だった。だが、瞬きしてみると、確かに瞼の動きが感じ取れる。

 次に私が疑ったのは、盲目の可能性だった。しかし、これは確かめる術が無いように思えた。眼球を動かせる限り動かしてみても、何度瞬きしてみても、そこには全く均等な暗闇しか存在しなかった。

 だが、闇に対しての恐怖や不安は、不思議と起こらなかった。寧ろ私は、それに郷愁のようなものを覚えてさえいた。





 


1‐0UT


「乱歩と言ったら、私はやっぱり『孤島の鬼』ですね。ちょっとベタで恥ずかしいですけどやっぱり好きなんです。あの、割と真っ当な冒頭の事件から、どんどん非現実に入り込んでく雪崩のような展開も素敵ですけど、何より私が惹かれるのは、あの諸戸屋敷のイメージなんです。古い屋敷、不気味な家人、そして開かずの間、蔵の中の住人。日常の隣の非日常。そういうものに惹かれるんですよね、何故だか判りませんが」

「ふーん」

「それでですね、私が思うに、乱歩の作品が一部の人間を強く惹き付けるのは、それが、心の暗がり、それも幼児体験とか、時には胎内記憶とか・・・・・・そういう根っこの部分に共鳴するからじゃないかと思んです。だから、例えば、パノラマ島奇談なんて、名作と言われてるけど、私には、がつん、と来るものが無いんですよね。それは、幼児体験からくる、何と言いましょうか、『周波数』の違いに因るんじゃないか、そう思います。周波数が会う人にとっては、あれも、がつん、と来るものがあるんでしょう、って」

「で、井須島然吾いすじまぜんごにとってはそれが、『鏡地獄』と言うわけ?」

「まあ、恐らくは、ですね」

 逆姫神無さかひめかんなは、壁越しに見える「塔」を見上げながら答えた。会話の相手は勿論、探偵助手助手の米倉亜理麻よねくらありまである。彼女は高い石塀にもたれかかって、手持ち無沙汰にしていた。この辺りの住宅は、どれも一様に、それが義務であるかの如く、高い壁と黒い柵に覆われている。

 秋晴れの、キン、とした空気が辺りを包んでいる。落葉樹たちが色を変え始める、そんな季節だ。気候的には、一番過ごしやすい時期かも知れない。学校帰りなのか、二人の少女は肩からカバンを掛けた制服姿だ。最も、寒がりの神無のほうは、制服の上にコートを着込んでいる。

「けどさー・・・・・・ホントに殿村警部たち、来るの?」

 亜理麻は、神無の、肩口で切りそろえられた黒髪が揺れるのをぼんやり眺めながら尋ねた。彼女のほうは、今日は長い髪を後ろでまとめている。

「大丈夫ですって。これでも私、結構な情報網持ってるんですよ。殿村さんと長瀬さんが今日、この井須島邸に来ることは既に判っているんです。所長なら兎も角、あの二人なら確実に現れますよ」

 神無はそう言って、ふふふ、と意味ありげに笑った。亜理麻は何となく納得した。




1‐IN


 暫くそうして様子を見ていたが、何事も起きる様子はない。その時になって、私は、自分が空腹である事に気付いた。

取り合えず起きよう、と私は思った。それまで何故か意識していなかったのだが、私はその時、横向きで、胎児の如く膝を抱えた、いささか妙な態勢で寝ていたのだ。そして、これも間抜けなことにそれまで気付かなかったのだが、私は酷く衰弱しているようだった。別に縛られたりはしていないのに、身体は言うことを聞かなかった。瞼以外に動かせるのは、指先くらいのようだ。妙な態勢で長く居たためだろうか、身体が痺れてしまったらしい。

 兎に角、この窮屈な姿勢を正すべく、少しずつ膝を伸ばしてみることにした。試してみると、僅かづつなら動かせるようだ。暫くは、気長にこれを続けるしかあるまい。

 私はどうも、精神的にも衰弱していたようだ。真っ先に思いついて然るべきその事に、此処に至って漸く私は思い立ったのだった。


 私は何故、こんな所にいるのだろう?いや、そもそも、

 此処は一体何処なのだろう?

 そして、記憶の中から、手掛かりを探し出そうとした私は、更に深刻な疑問に突き当たってしまった。


 私は、一体、誰なのだろう?




2‐0UT


「それで、警部、誰なんです、その・・・・・・いす何とか、って人は」

「何だ、長瀬。お前、井須島然吾を知らんのか?」

「ええ、まるっきり」

 ハンドルを握ったまま、胸を張ったのは、背が高く、切れ長の瞳に銀縁メガネという、一見すると、本庁からやってきた将来の幹部候補生、そんな雰囲気を感じさせる若い刑事だ。だが、助手席に座っている、こちらは小柄で初老に差し掛かった、いかにも現場叩き上げといった風采の殿村警部は、この部下の見かけが全くもって本人の中身とかけ離れていることを、いやというほど知っていたので、彼の発言に呆れはしたが驚きはしなかった。

 「何で威張ってんだ?しょうがない奴だな。井須島ってのは、結構名の知られた彫刻家だぞ。本人も変わり者らしいが、作る彫刻も変わっているらしくてな、ええと、特に有名なものとしては、『大アルカナ』と名付けられた、一連の作品群が挙げられます。これらには、氏の特徴である、異素材の使用が特に顕著で、鉄、真鍮などの金属を初めとした様々な素材が、作品を構成しています、と、そういう事だ」

「警部、何か読んでません?」

 助手席の殿村警部は、雑誌を後ろに放り投げてから笑った。

「はっはっは。何を馬鹿な。それより、きちんと前を見て運転しろよ」

「判ってますよ。にしても、警部。これって、まだ事件かどうかはっきりしないんでしょう?」

「まあな。今朝方、井須島邸の使用人の、根浦と言う男から通報があって、一週間前に、主の井須島然吾が、自分で造らせた鏡張りの鉄球に入ったまま出てこない、ってんだからなあ」

「おまけに、今頃になって通報した理由ってのが、『旦那が、一週間は警察に通報するな、って仰ったもんで・・・』ですからねえ」

「馬鹿なんだか、何か隠してるのか、ちょっと判断がつかんがね。でもまあ、井須島は鉄球に入る時に水と食料も持ち込んだらしいから・・・これも根浦の証言だが、それが本当なら、別に心配するような事は起きてない可能性が高いな」

「それなら楽なんですけどねえ」

「まあな」

そう何気なく答えてから、殿村は妙な悪寒に襲われてぶるっ、と身震いした。車窓の外に目をそらす。この辺りはいわゆる高級住宅街で、塀の高い、広い敷地を持つ家々が、その威容を競っている、そんな場所である。

「・・・・・・にしても、こんな、刑事事件になるかどうかも判らない事件に、警部自ら出向かなくても良いんじゃないスか?」

「ああ、そりゃ勿論訳有りさ。簡単な理由だ。井須島然吾の母方の叔父、ってのが、うちの署長なのさ」

「はあ、成る程。・・・・・・お、警部、どうやら、アレが井須島邸みたいですよ」


 その屋敷は、確かに長瀬刑事でも判るほど、特徴的な代物だった。著名な芸術家の住居だけに、周りの家々より更に広い敷地を持っている。だが、それより特徴的なのが、塀越しにも見える、庭に建てられた二つの建造物だった。一つは二階建ての母屋より高い、土蔵を思わせる建物。壁の上方に、格子付きの小窓が見えるのみで、あとは飾り気の無い殺風景な代物だ。

そして、もう一つが、庭の真ん中にそびえ立つ、「塔」である。

「や~、凄いですねえ、ありゃ。鉄で出来てるみたいですね」

「おい、長瀬」

「やっぱあれも、井須島の作品なんでしょうねえ」

「おい!長瀬っ!」

 殿村は部下の肩をがくがくゆすった。

「え?あ?な、何ですか、警部。吃驚するじゃないですか。事故ったらどうするんスか、もう」

「だったら、前見ろ、前!あのな、長瀬。俺の見間違いかも知れんから、確認するんだけどな。井須島ん家の前に、誰か居るな」

「居ますね、二人ばかり」

「俺は見覚え有る気がするんだが・・・・・・気のせいかな」

「なあに言ってんですか、警部。あんなインパクトの強い人を忘れたんですか。あれは神無さんたちじゃないですか。破羽さんのとこの」

「・・・・・・やっぱり・・・・・・」

 殿村警部は、助手席で頭を抱え込んだ。

「どーしたんですか?警部。頭抱えたりして。あれ?もしかして警部、神無さん、苦手?何でです?神無さん、結構美人じゃないですか。僕は割と好みだなあ」

 殿村は、でへへ、と笑う部下を、ジト眼で睨んだ。

「いいよな、それしかない奴は。そういう事じゃなくてだな。あの嬢ちゃんが絡むと、必ず奇天烈な怪事件になっちゃうだろ。それが嫌だっての。ああ、地味ーで、渋くて、ホロ苦いハードボイルドな世界が・・・・・・」

 長瀬は、それは自分たちには最初から縁遠いのでは、と思ったが口にはしなかった。彼とて、学習能力がゼロと言うわけではないのだ。

 殿村は真顔に返って首をひねる。

「・・・・・・しかし、妙だな。我々がここに来ることを、何で連中が知ってるんだ?」

「え?そりゃ知ってますよ。だって、僕が教えたんですから。あっ、こっちに気付きましたよ。やあやあ、どーもどーも」

 殿村は、車が完全に停まったのを確認してから、部下の顔面に無言でパンチを叩き込んだ。


 車の中から、鼻を押さえた長瀬刑事と、苦虫を噛み潰した殿村警部が降りてきた。神無はにこにこしている。

「ああ、どうもどうも。ご無沙汰しています、殿村警部」

 殿村警部は、無駄のような気もしたが、それでも少し抵抗してみることにした。こちらも負けずに愛想笑いを浮かべる。

「ああ、こんちは。しかし、今日はまた、どうしてこんな場所に?私は、お呼びした覚えはありませんがね。第一、今日の仕事は、まだ事件かどうか・・・もとい、事件にはならんよ、絶対。ただ、人騒がせな芸術家を救出するだけだから、うん。逆姫君の出番は無いよ、申し訳ないが」

 神無は眼を丸くして殿村を見返した。そんな表情をすると、彼女も年相応に見える。

「あの~。警部、何か勘違いしておられるみたいですけど。私たちがここに来たのは、井須島然吾の作品を拝見できるチャンスと思ったからですよー」

「へ?」

「私たち、って言うか、神無さんだけでしょ。亜理麻はゲージュツとか興味ないし。ただの付き添い」

 口を挟んだのは、勿論米倉亜理麻である。神無はそれをさらっと流して殿村警部に言った。

「井須島然吾の作品って、中々生で見るのは難しいんですよ」

「はぁ?」

「彼はあんまり自分の作品を売りたがらない人なんです。特に彫刻家として成功してから始めた『大アルカナ』なんて、半分以上がこの家に仕舞いっ放しになってるんですよ。勿論、一般客に開放なんてしてませんし」

「そうなのか?しかし売らなきゃ商売にならんだろ」

「だから全てってわけでなく、自分の気に入った作品だけですけどね。そのぶん市場に出回ってる作品には法外な値が付いたりもしますが」

「うーむ。まあ井須島のことは兎も角。じゃあ、君たちは今回の件を嗅ぎ付けて来た訳じゃないのか?」

「今回の件?何か事件が起きたんですか?」

「いや、そんなことはない。多分な」

「そうですか。それでは、そろそろお邪魔することにしましょう。行きましょ、警部」

 頷きかけて殿村は我に返り、慌てて神無の襟首を掴んだ。

「行きましょ、じゃあない。幾ら君でも、部外者をほいほい入れる訳にはいかん」

「え~~~~、でも、こないだの事件では警部の方から呼んだじゃないですか」

「う。いや、あれはだな、民間人に事件解決に協力して貰った、と言う事で・・・今回はそもそも、事件かどうかもまだ判らんのだからして、彫刻を見たいだけの部外者を連れていくというのは・・・」

 殿村の弁解を聞いた神無はしかし、不敵に笑った。肩に掛けたカバンをよいしょ、と前に回すと、中をごそごそし始める。

「ふっふっふ。ふっふっふのふ。まあ、そう来ると思ってましたよ。私だってそれくらい考えてるんですから。ほれ、この通り、警察手帳を偽・・・」

 不意に、亜理麻が動いた。神無の手から、取り出そうとした、四角くて黒い物がかき消すように消える。

「あ、あれ?」

 空になった自分の手の平を見てきょとんしている神無を尻目に、亜理麻は殿村警部にしなだれかかって上目遣いで頼み込む。

「ねぇ、警部さん、お願い!神無さん、今日のこと、楽しみにしてたんです。作品に手を出したりしないよう、わたしが監視してますからぁ。ね、お願いします!」

 珍しく敬語で頼む亜理麻。殿村警部は、一つ溜息を吐いてから言った。

「まあ、君がそこまで言うなら・・・くれぐれも邪魔しないでくれよ」

 そう言い残して、殿村と長瀬は井須島邸の門をくぐった。神無は腕組みして何やら考えている。亜理麻はそんな神無を横目で見ながら言った。

「・・・神無さんってさぁ、時々わたしより非常識だよね。一応あの人たち警察なんだから。偽造はまずいっしょ」

「私より、亜理麻さんの説得の方が効くなんて、あの警部・・・・・・そっち系ですか?」

「そういう問題じゃないって。大体わたしはそっち系じゃない!・・・ちょっと平均より背が低いだけで」

「そうですかねぇ。まあ殿村警部から見たら、私と亜理麻さんの年齢なんて誤差の範囲かも知れませんけど」

「もう、その話は良いからさ。折角許しが出たんだから中に入ろうよ」




2‐IN


 どれほどの時間が掛かったのか、定かではない。

 私は漸く、脚を伸ばし終えた。腕の方も、ある程度は動くようになった。もっとも、身体の下敷きになっていなかった、右腕だけだが。

 周囲は変わらず、真っ暗なままだった。どんなに闇に目が慣れても何も見えない無色の世界。そしてここは、耳を澄ましても何も聞こえない、無音の世界でもあった。

 一体、ここは、何処なのだろう。

 そして、私は何故、ここに居るのだろう。何者かによって閉じこめられたのだろうか。だが私は、自分が奇妙なほど落ち着いているのを意識していた。記憶を無くしているとは言え、もしそのような事があったとしたら、今の私の精神状態は、少々理屈に合わない気がする。では――――――私は、自ら望んでここにいるのだろうか?何のために?そもそも、ここは何処なのだ?そして、私は――――――

 堂々巡りだ。先程から、思考が同じ場所をぐるぐる廻っている。考えるより動いた方が良いのかもしれない。私は、今の自分に残された感覚―――触覚―――で、周囲を調べてみることにした。

 私が横たわっている「そこ」が、寝心地の良いベッドなどでない事は明らかだ。左半身に張り付いたその感触は、酷く堅く、そして冷たかった。恐らく金属製であろう。そして、奇妙な事に、私の寝床は平らではなかった。何故だかそれは、緩やかな球面状を成していた。

 次に私は、どうにか動くようになった右手で、周囲を探ってみた。収穫は、思いも掛けず、すぐ側にあった。左向きに横たわった私の前方、丁度手を伸ばしきった辺りに、厚手の布で出来た、袋のようなものが有る。私は、苦労してそれを引き寄せた。リュックか肩掛け鞄のようだ。中を探ろうと手を突っ込んだとき、不覚にも私の腹は、ぎゅるう、と歓喜の声を上げた。私の手に触れたものは、小さな紙製の箱と、ペットボトルらしきビンだった。途端に喉もカラカラに渇いている事に気付いた私は、左手が使えないもどかしさに苛つきながらも、口と右手で蓋を開けるのに成功した。思った通りだ。それは、スポーツ飲料のボトルだった。私は震える手で、貪るように渇きを癒した。次いで紙の箱を開ける。これも予想通り、中身は栄養食品だった。

 飢えと渇きがひとまず収まり、漸く私は自分の生を意識した。ここから出なくては、という気もしてくる。だが・・・・・・この食糧は、私自身が持ち込んだものなのだろうか。だとすると、私は望んでここにいる、という事になる。いや、必ずしもそうとは限らない。何者かに監禁されている、という可能性も無いとは言えない。私を生かしたまま捕まえておきたい誰かが―――――しかし、記憶は一向に甦らず、私にそんな敵が果たしているのかどうか、さっぱり見当が付かなかった。。

 先程のリュックを、もう少し調べてみる。食糧は、思ったより沢山有るようだ。ボトルと、箱の山をかき分けていると、ペットボトルと同程度のサイズのプラスチックの筒状の物体が見つかった。

 ・・・・・・取り敢えず、それは後回しにして、もう少しリュックを探してみる。一番奥に、ガラスの小瓶が見つかった。振ると、カシャカシャと音がする。食糧ではなさそうだ。どちらかというと、薬品のように思える。だが、当然この闇の中で、ラベルが読めるわけがない。もしかすると―――――毒物の可能性も有る。私は小瓶を元に戻した。

 結局、大したことは解らなかった。些か疲れた私は、身体を仰向けに動かすと(その時には体の向きを変えられる程度には体力が回復していた)、余り意味がない、と思いつつも眼を閉じた。だが、その瞬間、私はあれを見てしまったのだ。




  3‐OUT


 玄関で殿村警部たちを出迎えたのは、小柄でやせた、乾いた老人だった。警部が出した手帳を見て彼は、卑屈に何度も頭を下げた。

「あんたが、根浦さん?」

 殿村警部の問いに、男は再びぺこぺこする事で答えた。

「困るんですがね、こういう事はもっと早く届けてくれないと」

「へ、へえ、ですが、その、旦那が、一週間は警察に届けるなと」

「それは聞きましたけどね。だからって、馬鹿正直に・・・いや、詳しい話は後で聞こう。それより、井須島氏が籠もっている鉄球とやらに、」

「わ、わ。亜理麻さん、いきなりありましたよ。すごい、『正義』ですね、これ」

 突然、殿村を押し退けて、神無が現れた。彼女が指差しているのは、玄関右手の壁に飾られた、一枚の絵である。電気椅子に座った死刑囚を描いた物らしい。あまり、玄関に飾りたくなる絵ではない。殿村は顔をしかめた。

「悪趣味な絵だな。これも、井須島然吾の作品かね?」

「決まってるでしょう。井須島のライフワークとも言われる、『大アルカナ』の一つですよ」

「あ、ああ、ああ、大アルカナね。それ位は、知ってるとも、勿論。しかし、彼は、絵も描いていたのかね?」

 神無は、心底呆れた、というように殿村を見た。

「警部~、よく見ました?これは絵画じゃありませんよー」

「何だって?」

 改めて殿村は絵を覗き込んだ。思わず、声が上がる。

「これは・・・・・・彫刻か?」

 それは、平面上に描かれた物ではなかった。額に入っていると思われたそれは、実際には壁にめり込んだ、奥行き5センチ程の空間だった。そこに、多数の小さな金属板を組み合わせて、平たい電気椅子が形作られているのだ。囚人の方は、何かで造った芯に、ワイヤーをひたすら巻き付けて造ったようだ。

「まあ、掘って造った訳じゃありませんから、彫刻とも言えないかも知れないですけど」

「成る程ねえ、・・・・・・って、こんな事してる場合じゃないぞ。根浦さん、早速案内を」

「へ?へ、へえ・・・・・・」

 呆れたような顔で二人のやり取りを眺めていた根浦は、それでも、またも頭を下げ、一行をアトリエへ案内した。



3‐IN


 何故か、声は出なかった。まだ出せなかったというべきかも知れない。

 私は、自分が恐怖しているのか、歓喜しているのか、それすらよく判らなかった。ただ、自分が衝撃を受けていることだけを意識していた。瞼の裏の、狭い狭い暗闇に浮かんだものは、それは、女の顔だった。

 まだ若い女のようだ。ようだ、というのは、彼女の顔が、紛れもない恐怖にひきつり、大きく変貌していたからだ。平常では整っていたのであろうその顔は、それ故に、無惨なほど醜く歪んでいた。

 私は、概視感デジャヴを感じていた。私はこの女を知っている。だが、不思議な事に、彼女の名前や私との関係は、少しも思い出せなかった。



4‐OUT


 アトリエは、あの、外から見えた土蔵のような建物だった。

中は、三階近い高さにもかかわらず、一フロアで使われており、当然ながら、天井がえらく高い。壁や天井は、鮮やかな白塗りで、この建物が、建てられて間もない事を表していた。だが、床の上には、作業台や様々な工具、用途の解らない機械群、金属や石膏の破片などが散らばっており、こちらは既に年季が入っているかのような様相を漂わせている。

 その中で、一際目を引く物が、入り口とは逆側の隅を占拠している、件の「鉄球」である。部屋の大きさに合わせてなのか、或いは部屋の方が合わせて大きいのか、それは、かなり巨大な物体だった。直径は四メートルはあるだろうか。鈍い黒の外皮を持つそれは、鉄製の巨大なお椀を、二つ合わせたような外見をしている。お椀の縁には、上下ともに、幅十センチ、厚さ二センチほどの平たい出っ張りが有り、そこにずらりと並ぶ、沢山のボルトが二つのお椀を繋げているようだ。鉄球の底は、鉄骨を組み合わせた、無愛想で無骨な台座に乗せられている。そして、鉄球の上端からは、数本の太い鎖が天井に向かって伸びていた。鎖は、天井に取り付けられた滑車を経由して、車のエンジンを大きくしたような、物々しい機械に繋がっている。

「あれが・・・・・・」

「あれが、『世界』ですか!?ホントに?」

 殿村の問いは、神無の驚嘆に阻まれてしまった。身を乗り出して、根浦に詰め寄る。

「本当に、あれが『世界』なんですか?間違いなく?」

「へ、へえ、間違いないです、はい。確かに旦那が、そう仰ってたですから。それが、何か・・・・・・」

「変ですね・・・これじゃあ、大きすぎます。井須島然吾が気付かなかったとは思えないんですけどねー。おかしいです」

「あのー、これが『世界』って、どういう意味ですか?」

 長瀬刑事の間延びした問いに答えたのは、亜理麻だった。

「あのね、井須島然吾の『大アルカナ』がタロットカードをモチーフにしている事は、知ってるよね、長瀬さん」

「え?ああ、ええと、多分」

「『世界』は、タロットの二十四番目、つまり最後のカードなんだ。そして、井須島氏は、前々から、次の作品は、『世界』と公言していたわけ。でもって、そのテーマは、江戸川乱歩の・・・・・・」

「『鏡地獄』。なんですけど。これは、大きすぎますよ、やっぱり」

「鏡地獄?大きい?」

「そこから説明が必要なんですか?」

 神無は呆れ顔で長瀬たちを振り向いた。

「まあ、時間もありませんから、簡潔に言うとですね、主人公の友人が、鏡張りの球を造って中に閉じこもって、気が狂ってごろごろ転がる話です」

「神無さん、それ簡潔というより大雑把ー」

「何だかさっぱり解らんが・・・兎も角、井須島がその小説を元ネタにコイツを拵えた訳だな。大きすぎるってのは?どう言う事だ?」

「『鏡地獄』に出てくる球体は、玉乗りの球より一回り大きい程度、とありますから、せいぜい直径一・五メートルくらいでしょう。これより、かなり小さいはずです」

「そりゃそうかも知れんが・・・・・・それでは駄目なのかね?」

「駄目に決まってるでしょう!だって、こんなに大きくちゃあ、内側を『一枚の』鏡で覆えないじゃないですか。これは、そうしなければ、大して意味の無い代物なんです。実際、『鏡地獄』に出てくる鏡球は、ガラス球に銀を裏打ちして、内側をほぼ一枚の球面状の鏡で覆っています。だからこそ、中に籠もった主人公の友人は、鏡に映った自分自身を見て、狂ってしまったんです。もっとも、この鏡球も、入り口の部分は別パーツになってましたから、完全とは言えないんですけどね。でもまあ、実際問題として、人が入った完全な鏡の球を造るのは相当厳しいですから、仕方ないですけど」

「はあ、そうですねえ。確かにこのサイズで一枚のガラスだと、工場から造らなけりゃならないでしょうね、うん」

 長瀬がしたり顔で頷く。それには構わず神無は話を続ける。

「かといって、複数の鏡を使っても・・・・・・そうですね、普通のひとなら狂うかも知れませんけど・・・・・・多少なりとも、狂気というものを知っている人間には・・・・・・意味が無いでしょうね」

 長瀬刑事が、ぱんと両手を合わせた。

「神無さん、きっとそれが理由ですよ。完璧に造ったら、中に入った自分が狂っちゃうから、だから、あえて不完全にしたのでは?」

「だったらこれは、ただの粗大ゴミですよ、長瀬さん。それに、彼が望んで一週間もこの中に閉じこもっている事と矛盾しています」

「え?ああ、そうですねぇ、確かに」

 殿村が、ふん、と鼻を鳴らした。

「まあ、どうだって良いさ、そんな事は。どうせこれから会うんだから。本人に聞けば済むことだろう?まあ、生きてればの話だがね」

 殿村は、後方で所在なげに突っ立っている、根浦の方に向き直った。

「それで、根浦さん。この球っころの入り口は何処に有るんです?」

「え?入り口ですか?それは、もう、有りませんが」

「あん?無い?だって、あんたがこの中に井須島がいるって言ったんだろうが。入り口が無きゃ、入れないだろう?」

「あ、あの、だから、旦那が中に入ったときは、まだ有ったんで」

「はあ!?」

「あのさ、殿村警部」

 うんざりしたように、亜理麻が声を掛けた。神無は、鉄球の周りを廻りながら、まだぶつぶつ文句をたれている。

「警部、多分、入り口はここだよ」

 亜理麻が指差したのは、鉄球を構成する上下のお椀の合わせ目、多数のボルトで彩られた縁の部分だった。

「へ?」

「ほら、あそこに随分大きなモーターが有るじゃない。あれが鎖を巻き上げて、この鉄球の上半分を持ち上げる仕組みなんだよ、きっと」

「ふーむ。しかし、これは、ボルトで厳重に止められているぞ。これじゃあ、開かんだろ」

「だからそれは、井須島さんが入った後に留められたんじゃないの」

「そうなんですか、根浦さん?」

「へ、へえ。旦那が中に入って、三十分もしない内に、葉野山さんたちが来まして、」

「葉野山?誰だい、それは」

「旦那の知り合いの鉄工所の社長です。旦那が作品に金属をお使いになる場合は、何時も葉野山さんの所に頼んでいました」

「では、今回も?」

「はい、旦那があそこに入る前に、葉野山さんに、仕上げを頼んである、と。そう仰ってました」

「仕上げ?それがボルトを止めることだったのか?」

「はあ、多分・・・・・・」

「この『世界』、中からは開けられないんですか?」

 突然、神無が話に割り込んできた。

「さ、さあ・・・・・・私は、中をよく見てませんから・・・・・・葉野山さんなら解ると思いますが。あの機械も、葉野山さんの所で拵えた物ですから」

「うーん、そうですか。では、あと一つだけ質問です。この鉄球を閉じたのは、あなたですか?根浦さん」

「え、ええ。で、でも、それは、旦那がそうしろと。わ、私は言われたとおりにしただけで」

「はあ。別に責めてるわけではありません」

神無は殿村の方を振り返った。

「警部、やっぱりこの中に出入りするには、その蓋を上げるしかないみたいですね。他に、継ぎ目が全く無い。これは、造るの大変だったでしょうね」

「じゃあ、やはり井須島氏は中にいる訳か」

 殿村は、節くれ立った拳で、鉄球をがんがん叩き、井須島の名を呼んだ。

 反応は無い。殿村は、溜息を吐き首を振った。

「やれやれだ。兎も角、この釜の蓋を開けなきゃならん。長瀬、県警に連絡して、応援を寄越させろ。それから、根浦さん。その、葉野山鉄工所に電話して、この鉄球に関わった連中を全員呼んで貰えますか。ええ、早急に」

 長瀬刑事と根浦がアトリエを出ていくと、殿村は、再び大きな溜息を吐いた。

「全くやれやれだな。君が出てくるとどうしてこう面倒な事になるのかね」

 『世界』をまだ調べていた神無は、心底心外、といった感じの顔を上げた。

「私のせいじゃないですよ~、警部」

「まあ、理屈じゃそうなんだがなあ。どうも納得が・・・・・・それより、君はどう思う。井須島然吾はこの中にいると思うか?」

「さて、どうでしょう。井須島氏がこの中にいるっていう根拠は、根浦さんの証言だけですしね。そうですねぇ。居るのと居ないのと、どっちが面白いと思います?」

「あのなあ、面白いとかつまらないとかじゃなくて、根浦の証言が本当かという・・・」

「彼が嘘を吐くメリットが見当たらないですね、今の所。まあ、これが開けば嫌でも判るんですし、良いじゃないですか、どっちでも」

「そりゃ、そうだがね」

 神無は、うん、と一つ、伸びをした。

「じゃあ、警部、私は他の作品を見てきますから、後は宜しく」

「ちょ、ちょっと待った、逆姫君。今回も、刑事事件になっちまいそうだ。鑑識が入る前に、指紋をあちこち付けられちゃあ・・・・・・」

 神無は何も言わず、懐から出した手袋をひらひら振って見せた。

「む・・・・・・だが、作品には触らないでくれよ。下手して壊しでもしたら・・・」

「だいじょぶ、だいじょぶ。信用無いですねー、もう」

「君をここに入れたのは、俺の責任だからな。そんな事になったら、クビどころじゃ・・・あっ、何か欲しい物が有ったりしても、ガメたりするんじゃないぞ」

「しませんよー、そんな事。じゃ、行きましょう、亜理麻さん」

「はいは~い♪」

 殿村に有無を言わせず、二人の少女はアトリエから出て行った。


4‐IN


 ざわざわと、耳鳴りがしていた。

 私は、変わらない闇を見上げて、呆、と一つ、溜息を吐いた。

 耳鳴りは続いている。完全なる無音の世界に、私の耳が耐えられなくなったのだろうか。

 だが、そうではないとすぐに判った。

 誰か居る。

 それも一人ではない。複数だ。最低でも二人、感じからすると、恐らくそれ以上。だが、彼らが居るのは、私が居る闇の部屋とは別の所のようだ。だからこそ、彼らの話し声が、ざわざわという耳鳴りに聞こえたのだ。

 私は、声を上げ、彼らに助けを請うべきか、と考えた。だが、私はすぐにその考えを破棄した。外にいる、「彼ら」が味方だという保証は何もない。そもそも、今の私には、誰が味方かも判らないのだが。

 一つ気掛かりなのは、私が、この漆黒の空間に、恐怖も不安も感じていないという事である。通常、このような暗黒に人が投げ出されれば、どうにかして光の下へ出ようとするのではないか。だが、どういう訳か私は、闇に対しては、本能的な不安を覚えなかった。寧ろ今の私は、光の下で何かが見える事をこそ、怖れているように思える。

 また、あの女の顔が脳裏に浮かぶ。未だ、彼女が何者かは思い出せない。それが思い出せた時には恐らく、全ての記憶が戻っている事だろう。何にしても、私がここに居る事に彼女が関係していないとは思えない。

 再び喉の渇きを覚えて、私はペットボトルに口を付けた。体調の回復に連れて、記憶に掛かった靄のようなベールが、徐々に薄れていくのを感じる。あと少し、何かきっかけさえ有れば、記憶は戻ってくるのではないか、そんな予感が漠然とあった。

 突然、がんがん、という鈍い音が、闇の中に響き渡った。後で思えば、それ程大きな音でもなかったが、沈黙に慣れた私の耳を痛めるには、充分だった。次いで、何やら叫ぶ声。私に向けられているかも知れないその呼びかけはしかし、反響する轟音にかき消され、全く聞き取れなかった。

 結局私は、呼びかけに沈黙で答えた。記憶さえ、記憶さえ戻れば、確実な選択が出来るのだ。そしてそれは、そう先の事ではない。今はまだ・・・・・・焦る必要はない。


 5‐OUT


 井須島家の庭園は、井須島然吾の作品を支持する全ての人にとって、羨望の地であった。 良く管理された広い庭のそこここに、彼の作品群の中でも、殊更大がかりなものが、その姿を晒している。その多くは、近年、彼の名が一般にも知られるようになってから後の作品だが、中には、一度手放した昔の作品を、自ら買い戻したものもある。そしてこれらを鑑賞できるのは、気難しい主人の眼鏡に適った知人に限られていたのだった。少なくとも今までは。

 そして、その庭園の中央で、圧倒的な存在感を示しているのが、長瀬刑事が塀越しに見た、あの「塔」だった。足下には、二つの小さな人影。逆姫神無と、米倉亜理麻である。

「ほえー。これが、『塔』か。間近で見ると、流石に凄いね」

「これね、塔だけに、梯子に見える部分を使って、天辺まで上がれるようになってるそうですよ。実際上がった人はいないらしいですけど。亜理麻さん、挑戦してみてはどうでしょう?」

「やだよ。高いところは、もう懲りた」

「そうですか。残念」

 「塔」は、全体としては、バベルの塔の上端を掴んで引き延ばしたような、上を切った円錐型をしている。だがその表壁からは、腕とも枝とも、クレーンともつかない突起物が、無数に生えていた。それらを含めた塔全体が、赤錆の浮いた古びた鉄骨で組み上げられており(最も、赤錆も井須島然吾が造って張り付けた造形物である)、下から見上げる者に、激しい威圧感を与えている。

「ねーねー、神無さん、あそこに扉みたいなものが付いてるけど、もしかしてこれ、中に入れるんじゃない?」

 亜理麻が指差した部分は、確かに両開きの扉に見える。縦横1メートル程度の二枚の鉄板からなり、中央合わせ目寄りには、サークル状の無骨なハンドルが付けられていた。そのすぐ下には、閂らしき鉄の棒が見える。

「あれ、亜理麻さん、知らないんですか?この『塔』は、元々、焼却炉として造られたんですよ」

「焼却炉?」

「そうそう。まあ、聞いた話なんですけど。井須島然吾が思い立って、庭に焼却炉を一つ置こう、って事になったんですけど、市販品じゃどうしても気に入らなくて、結局自分で創っちゃったという。だから、これに付いては、最初から彼は売る気は全く無かったわけですね。自分自身のために創ったと。まあ、井須島作品には多いんですよ、そういうの」

 神無がここまで喋った時、ぎい、と音を立てて、門が開かれた。どやどやと不協和音を立てて、作業服を着た男たちが入ってくる。次いで駐車場に入ってきたトラックの脇には、「葉野山鉄工所」と書かれていた。更に、少し遅れて増援の警官たちが到着し、邸内は俄に騒がしくなってきた。




 愕然、という言葉は今、彼のためにあるな、と長瀬刑事は思った。

 それ程、彼、葉野山欽次はのやまきんじの両眼と口は、愕然と開かれていた。

 葉野山は、鉄工所の所長というイメージからは少々外れた、ひょろり、とした男だった。背は平均並みだが、痩せているため、実際より高く見える。歳は四十五だそうだが、頭には白い物が混じっており、無粋な黒縁眼鏡を掛けた様子は、鉄工所所長というより、銀行員のようだった。

 開きっぱなしだった両の眼が、ぱちぱち瞬いた。次いで口をぱくぱくと二度三度やって、やっと葉野山は声が出せた。

「そ、それじゃあ・・・・・・何ですか?あれの中に、井須島先生が居ると?」

「ん、まあ、根浦さんはそう言ってるんだが」

 殿村警部は、その根浦の方をちらちら見ながら言った。

「わ、私は嘘なんぞ、吐いてません!本当に、旦那はこん中に・・・」

「判ってます、判ってます。別に疑ってやしませんよ。兎に角、今あれを開いてますから」

 殿村に宥められて、渋々根浦は腰を下ろした。アトリエ内には、落ち着ける場所が無いため、殿村は応接室を借りて、仮の捜査本部としている。例の鉄球は今、鉄工所の職員の立ち会いの下、警察の特殊任務班によってボルトが除去されていた。

 殿村は再び、葉野山に事情徴収を始めた。

「それじゃあ、あなたは、井須島氏から、あれがどういう物なのか、聞いてなかったのですか?」

「そりゃそうです。私のとこでは、井須島先生の注文通り、仕上げるだけでして。それがどういう作品になるかなんて、聞きませんよ」

「彼とは、仕事上のつき合いしか無かったんですか?」

「ええ、まあ。井須島先生は、その、いわゆる芸術家気質と言うか、難しい所がありましてね。仕事以外では極力人付き合いは避けたいみたいで。仕事でも、必要最低限の事しか言ってくれないですしね。それで、少しでもイメージと違うと、何度でも造り直させるんですよね。あ、いや、まあ、それが芸術家の芸術家たる所以なんでしょうけど。はは、は。あ、でもお酒は好きみたいで、時々、繁華街で見かけた事がありますよ」

「ふーん、繁華街ね。そっちにも聞き込みしてみるべきかな」

「そんな事はどうでも良いんですけれども」

「うわ、吃驚した」

 驚く長瀬刑事を押し退け、神無が唐突に割り込んできた。いつの間にか、亜理麻共々、応接室に入り込んでる。

「き、君、一体いつの間に・・・」

「それもどうでも良いことですね。それよりです、葉野山さん。あの『世界』についてですけれど。あれを設計したのは、あなたでしょうか?」

「は、はあ。図面を引いたのは確かに私ですが。でも、井須島先生の指示に従っただけですから、設計した、というのは少し違いますが」

「あの、上半球を持ち上げる機械もあなたの所で?」

 葉野山は、心なし、胸を張った。

「勿論です。あれこそ、ウチじゃなきゃあなかなか。元は、ディーゼル車のエンジンをちょっとしたコネで払い下げて貰った代物なんですけどね。古い物できちんと稼働させるだけでも結構な手間なのに、やれ、なるたけ騒音が出ないようにしろ、排気は全て屋外に出るようにしろ、ってね。まあ、大仕事でしたよ」

「はあ。それでですね、あの機械の操作は他の場所から出来るんですか?」

「え?」

「だからですね。有線にしろ無線にしろ、あの機械を他の場所から、例えば、『世界』の中から、操作できるようには、なっているんですか、と」

「いえ、そんな注文は有りませんでしたから。機械自体に付いてるコントロールパネルでしか動かせませんよ」

 葉野山が、そう告げると、神無は、如何にも嬉しそうに、にこにこ微笑んだ。

「そうでしょう、そうでしょう。そうでなくちゃ、面白くないです。念のために聞いておきますけど、鉄球に隠し扉とか、無いですよね?」

「有るわけないでしょう。見れば判るじゃないですか。そもそも、継ぎ目が無いんですから。あれは、普通の鉄工所じゃあ、絶対・・・・・・あ・・・・・・」

「どうしました?」

 急に黙った葉野山に、殿村が怪訝そうに尋ねた。

「え、いえね、井須島先生は、最初っから、あれの中に入るつもりだったんだなあ、と思いまして。ああ、何で気付かなかったんだろう」

「??どう言うことです?」

「あれには、空気穴が付いてるんですよ。縦横5センチの四角い穴が、上の半球に四カ所ばかり」

「それを先に行って下さい。それならそこから中が見えるかも知れん。長瀬!」

「は、はいはい」

 二人の刑事は、すくっと立ち上がった。思ったより早く、中の様子が分かりそうだ。これで、今後の方針が立てられる。

 だが刑事たちのそんな思惑は、葉野山の次の台詞であっさり雲散霧消してしまった。

「そりゃ、無理ってもんですよ。先生の注文に、内部に絶対光が入らないように、というのがありましてね。ですから、空気穴も、こう、曲がりくねったパイプになってましてね、おまけに黒いフィルターまで張ってあります」

「そうですか・・・・・・うーむ、なんちゅう・・・」

 再び二人の刑事は、ばたんとソファに座り込んだ。神無はお構いなしに質問を続ける。

「それでは、後一つだけ。あなたは、『世界』の内側が鏡張りだった事は知っていましたか?」

「へっ?鏡・・・・・・ですか?あれの内側は鏡を張ってあるんですか?」

「そうです。井須島氏から聞いてませんか?」

「いえ、あの人は必要ない事は殆ど言わないんで・・・初耳です」

 神無は身体ごと、くるり、と向き直った。今度は根浦の方を向いている。

「根浦さんは?知ってましたよね?」

「へ、へえ。あの、旦那が入るのを見てましたから。それに、あの、鉄球が完成してすぐに、えらく沢山の曲がった鏡が届いて驚いた事がありましたです。旦那が自分で発注したそうで」

「どこに発注したのか、判ります?」

「いえ、旦那は何にも・・・・・・」

 神無は、それを聞くと、満足そうにくすくす笑った。周囲の不信感溢れる視線など、勿論気にしていない。

「そうでしょう、そうでしょう。そうでなくては、面白くないのです。警部、この発注先を調べるのは、ちょっと困難だと思いますよ」

「それは、どういう・・・いや、それよりもだな、逆姫君。話を聞いた限りじゃ、こりゃあ、君が言うような『面白い事件』にはならないんじゃないか?自殺か事故か、生きてるか死んでるかまだ判らんが、単に、井須島氏があの鉄球に入って、出られなくなってる、それだけだろう。まあ、彼が、どういう考えでそんなことをしたか、ってのは、君には興味深いかも知れんがね、刑事事件ではなさそうだぞ」

 神無は、爛々と輝く左の眼で、殿村警部を見つめた。それは、殿村が年甲斐もなくどきりとしたほど、怪しい輝きだった。

「警部。警部は、本当に、あの中に井須島然吾が居ると思います?」

「そ、そうでなけりゃ、理屈に合わんだろ。むろん、彼――根浦さんが嘘を吐いてなければだが。しかし、君もさっき言ったろう?」

「ええ。『彼が嘘を吐くメリットが見つからない』」

「だろう?それならだな、」

 警部の台詞を遮るように、ドアがばたんと開かれ、増援の警官が顔を覗かせた。殿村の方を向き、ばし、と敬礼する。

「殿村警部、ボルトの撤去作業が完了しました」




5‐IN


  俄に周囲がざわつき始めていた。大勢の歩き回る音。聞き取れぬ話し声。金属が擦れるような、がりがりという不協和音。

 彼らは、ここに侵入しようとしているのだろう。ここから逃げるべきだろうか。そう考えている自分を見つけ、私は苦笑した。かなり回復したとは言え、這って歩くのがやっとの状態で、しかも、前後も判らないような闇の中で、一体どうして逃げるというのか。

 結局の所、このままじっと死んだふりを決め込む以外に、私の選択肢は無いのだ。私は目をつぶり、不快な金属音にじっと耐えた。

 金属音は、小一時間ほどで鳴り止んだ。




     6‐OUT


「さっきさー、警部は、自殺か事故、って言ってたけど、自殺ってのは、有り得ないよね?」

「?どうして?」

 神無に話しかけたつもりだったが、返事を返したのは長瀬刑事だった。神無は、何やら考え込んでいる。

 舞台は再び、アトリエに移っていた。「世界」を開くための、最後の準備が為されている。殿村警部は、「世界」の上蓋を持ち上げる機械の動かし方を聞いているところだ。

 亜理麻は長瀬刑事の、理知的な顔立ちに浮かぶ弛緩した表情に少しうんざりしながら、話を続けた。

「だからさー。もし、井須島が何らかの理由で自殺するにしても、芸術家の心理として、作品が未完成では、死ねないんじゃない。この場合は、勿論『大アルカナ』」

「それは、つまり・・・・・・どう言うこと?」

「『世界』がタロットの二十四番目、最後のカードをモチーフにしている事は聞いた?でも、『世界』は、井須島然吾の作品としては、二十三番目。まだ、後一つ、彼が作品のタイトルに使ってないカードが残ってるんだ。それは、」

「『愚者』」

 神無が、「世界」を睨みながら答えた。一応、聞いてはいたらしい。

「そう。だから、『愚者』が創られていない以上、井須島が自殺するというのは、」

 突然、神無が、手のひらをぽん、と叩いた。

「ああ、そうですね。自殺ですか。そういう捉え方もあるわけですね」

「え?」

「神無さん、何それ」

「亜理麻さん。『世界』の中には何がありますか?」

「『か』の字」

 長瀬の答えは無視された。

「一つの解釈ですけどね。『世界』の中には、『愚者』が居るんですよ。もしかしたら、『居た』かも知れませんけど」

「それってさ、」

 亜理麻が再び発した問いはしかし、神無の耳には届かなかった。『世界』が轟音と共に開き始めたからである。ディーゼルエンジンがじゃりじゃりと鎖を巻き取っていくに連れ、鉄球の上半分がゆっくりと上がり始めた。思わず鉄球ににじり寄った人々は、その隙間から流れ出る異臭に足を止めた。

「うっ、これは・・・?」

 その臭いに覚えが有る者も無い者も、殆どの者がすぐに「それ」に思い当たった。

そう、それは

死臭だった。

 殿村は、緊張の面持ちで鉄球に近付いた。そうして、三十センチ程に広がった隙間から中を覗き込む。何かが光を反射して煌めいた。鏡だ。やはり「世界」の内側は、多数の凹面鏡で覆われているのだ。

 殿村は次に、鉄球の縁を見た。ボルトを止めるための張り出しが有るため、正確には判り難いが、鉄球の厚さは、三センチはありそうだ。そして何故か、内側の鏡はそれよりも分厚かった。五センチ近い鏡板が、それより薄い鉄の外殻にぴったり張り付いている。 そうしている間にも上蓋は引き上げられ、鉄球の内があらわになっていく。そして、その光景は殿村警部を、

「あああ・・・・・・い、一体、」

 愕然とさせた。

「一体、どういう訳だ、これは!?」




  6‐IN


 がつん、という激しい衝撃が、私の居る空間を襲った。思わず掠れた悲鳴が飛び出したが、轟音に掻き消され、私自身の耳にすら届かない。轟音と振動。じゃりじゃりという金属音さえ無ければ、大地震と間違えそうな凄まじさだった。私は四肢になけなしの力を込め、振動に耐えた。

 そして遂に、闇に覆われていた私の世界に、巨大な光の輪が現れ、闇の中で安穏としていた私の瞳を打った。痛いほどの眩しさに、私は喘いだ。

 光の輪は、徐々にその厚さを増していった。





7‐OUT


「一体全体、どういう事なんだ?」

 殿村警部は、大分後退している頭髪を、思わず掻きむしった。隣に来た神無が、中を覗き込んで、あらまあ、と声を上げた。殿村を見て、にこ、と笑う。

「ね、やっぱり井須島然吾は居なかったでしょう?」

 全ての鏡に、おびただしい量の血液が付いていた。いや、付いているように見えた。実際には血痕が付着しているのは一部の鏡で、それが他の鏡に映り、また他の鏡に、というように複写され、全ての鏡を赤く染め上げているのだった。そして、その中心には。

 殿村は、「そいつ」を指差し、神無に怒鳴った。

「逆姫君!君は知っているのか?そいつは一体、誰なんだ!?」

「さあ。俯せで顔は見えませんけど、私の知り合いじゃないと思いますよー。それは、そちらで調べるべき事ではないでしょうか?そうですね、一つ言えるのは、井須島然吾じゃないって事でしょうね、恐らくは」

「当たり前だ!井須島は男だぞ!」

 赤一色の万華鏡。その中心に俯せに倒れていたのは、一人の女だった。顔は見えないが、身体つきからするとまだ若いようだ。彼女は、一糸纏わぬ全裸で倒れていた。だがその肌は土気色に近く、そこここに固まった血がどす黒くこびり付いている。

 殿村は、不承不承ながら、神無の言う、「面白い事件」になってしまったのを 認めた。兎も角顔を、刑事の顔に戻すことにする。

 殿村は、お椀の縁を跨ぐと、血痕を踏まないようにそろそろと女に近付いた。同時に鏡面には、灰色の異形が、血痕の間から、うねうねと姿を現した。殿村の煤けたコートを映し出しているのだ。殿村はそれらから無意識に眼を背け、しゃがみ込んで脈を診た。やはり死んでいる。殿村は立ち上がった。

「長瀬、鑑識に連絡だ。喜多川さんに来て貰え。それまでここは立入禁止だ。田口、お前見張っとけ。他の者は家宅捜査だ。それで、だ。根浦さん」

 殿村は、根浦をきっ、と睨み付けた。当の根浦は、死体を眼にしてからずっと、大口を開けた驚愕の表情で固まっている。名前を呼ばれたのに気付くと、ゆっくりと、殿村の方を向いた。

「警部さん・・・・・・旦那は・・・・・・どこに行っちまったんですか?」

「奇遇だな。俺もそれが知りたかったんだ。ここは、もうすぐ慌ただしくなるからな。さっきの部屋で、その辺をじっくり話し合いましょうや」

 殿村は、事情がまだ呑み込めていない根浦を連れてアトリエを出た。「世界」の側には、神無と亜理麻だけが残された。それまで後ろにいた亜理麻が、爪先立ちで中を覗き込む。

「わ。凄いね。ハダカじゃん。しかも血まみれ。いきなり神無さん好みの事件になったなぁ」

「人を猟奇マニアみたいに言わないでください。それよりもっと、細かい部分を観察して見て」

「細かいとこ?」

「見てごらんなさい。鏡のせいで判りづらいですけど、彼女の身体で出血が激しい所が二つあります」

「えーと、頭部と・・・両手だね。頭部の出血が致命傷だろうなぁ。俯せになってて、見えないけど。両手の方は・・・わぁ酷い」

 亜理麻は、緊張感皆無の悲鳴?をあげた。死体の両の指は、全て爪が剥がれていた。更に何本かは、明らかに不自然に折れ曲がっている。

「それでですね。周りの血痕の中に、指で引っ掻いたようなものや、何かをぶつけたような痕が沢山見つかるでしょう」

「つまりこれは、自分でやったわけ?うげー。そういうのは趣味じゃないなー。けど何で?」

「うーん、それはも少し調べて貰わないと断言出来ませんね。さてと。鑑識が来るまでは暇ですねえ。もう少し、屋敷内の作品を見て回りましょう」

「あの根浦って爺さんは?今取り調べしてるっしょ」

 神無は唇に指を当て、考えている振りをする。

「うーん。あのお爺さんからは、もう、何も出ないと思いますけど。彼は云わば、舞台装置の一つに過ぎません。そのディーゼルエンジンと同じですね」





  8‐OUT


 鑑識の喜多川は、数少ない、殿村警部が苦手とする人物の一人だ。何故苦手なのかは、彼自身にも上手く説明できない。別に仲が悪い訳ではない。寧ろあちらは、殿村が駆け出しの頃から、何かと眼を掛けてくれている。或いはそれこそが原因かも知れない。その世話の焼き方が、彼女の風貌と相まって、世話好きな親戚の叔母さん、といった風に思えてしまうのだ。殿村のペースを乱す、という点に於いては、逆姫神無に匹敵する。

 今も、到着した彼女に黙礼した殿村への返事はこうだった。

「あらあら。お久しぶりねえ、ヤキメシ君。また変な事件にぶつかったって?あんた一度視て貰った方が良いわよ。なんならあたしの友達の知り合いに御祓い師がいるから、紹介しよっか?あ、そういや奥さん元気?もう随分会ってないわねえ」

「あの。喜多川さん。勤務中ですから、プライベートな話は後にして下さい。それと、そのヤキメシってのはいい加減止めて下さい」

「警部、前から不思議だったんですけど、ヤキメシ君って何なんすか?」

 のんびり尋ねた長瀬刑事を、殿村は殺しかねない形相で睨み付けた。

「んな事は、ど、う、で、も、い、い。とっとと仕事に戻れ!」

「あのね、昔『太陽にほえろ』っていう刑事ドラマがあってねえ。それでね・・・」

「喜多川さん!早く仕事に戻って下さい!」

 最早、殿村の声は悲鳴に近い。

「はいはい、そんなに怒鳴らなくても聞こえてるわよ。嫌ねえ、いつからこんなにせっかちになったんだかね。あら。神無ちゃんに亜理麻ちゃん。あなたたちも来てたの。なら心強いわね。特にこういう事件では。それはそうと、破羽君元気?」

「元気と言う言葉の定義にもよりますけど、大体そうだと思いますよ。尤も、私ももう一ヶ月以上会ってないですけど」

「まあまあ。相変わらず放浪癖は治ってないの?全くいい歳して、裸の大将でもあるまいし、困ったモンだねぇ」

今度は神無たちと世間話を始めた喜多川を引き戻すのに、殿村は更に二回怒鳴らなければならなかった。

「あら、まあ。随分若い仏さんじゃないの。可哀想にねえ。それじゃ、失礼して。よいしょ、っと」

 喜多川は、死体を無造作にひっくり返した。途端、周囲から、うおぉっ、という、悲鳴とも怒号とも付かない声が漏れた。死体など見慣れている筈の猛者たちを驚かせたのは、彼女の顔だった。額はばっくりと割れており、固まった血がこびり付いている。これが直接の死因なのは明らかだ。だが、それは問題ではない。十分予想できたことだ。問題は、彼女の表情だった。それが、そこにいる殆どの人間に衝撃を与えた。両眼はこぼれんばかりに見開かれ、同じく大きく開いた口から、舌先が屹立していた。ある者はそこから恐怖を、ある者はそこから狂気を見て取った。何れにしろ、彼女が死の間際に壮絶な体験をしたのは確かだった。

「こりゃ酷いな・・・喜多川さん、何か解ります?」

「うーん、まあ、開いてみないと断言できないけど、このおでこのヤツが直接の死因よね。最も即死するような傷じゃないわねえ。大量出血による失血死よね、きっと。あたしの勘と経験から言って、死後六日ってトコね。コレも調べりゃ判るけどさ」

 仕事柄か性格か、喜多川は流石に殆ど動じてなかった。死体の損傷を淡々と分析する。殿村が口を挟んだ。

「ちょっと待った。六日?つまり、井須島が入って、これが密封された時には、まだこの女は生きてた、って事か。根浦さん、本当にこの中に入ったのは井須島一人なんだろうな?」

 根浦は水飲み鳥のようにかくかくと頷いた。

「は、はあ。そりゃもう。あの時中に入ったのは旦那お一人です。見てのとおり、隠れるような場所も有りませんで。間違いねえです」

「じゃあ、この女に見覚えは?井須島の知り合いとか」

 今度はぶんぶんと顔を振る。殿村が後ろに視点を移すと、葉野山鉄工所の面々も、一様に蒼黒い顔を振った。殿村は、今の所は関係者たちから得る物は無いと判断し、彼らを別室に下がらせた。

 刑事たちと、神無たちだけになると、殿村は、大きな溜息を一つ吐いた。

「解らんなあ。この女は何者で、井須島とどんな関係が有ったのか。どうやってこの中に入って、或いは入れられて、凶器は何だ。これも或いは、中に入れる前に殺されたのか。そして何より、井須島然吾はどこに消えちまったのか。くそ、訳解らん、全く」

「警部、凶器なら大体察しつくじゃんか」

 一同は、一斉に発言者の方に振り向いた。米倉亜理麻である。

「ほら、警部、神無さんが言ってた、『鏡地獄』の話・・・・・・覚えてるっしょ?」

「ああ、そうか。この女は、その小説の主人公みたいに気が狂って、挙げ句自分で頭ぶつけて死んだと、そう言いたいんだろ?」

 長瀬が内側の「鏡」をこつこつ叩きながら頷く。

「確かにこの鏡、防弾ガラスのように分厚くて頑丈ですね。これならその仮定もアリかも知れませんよ」

 亜理麻は、死体の指先を指差した。

「死体の殆どの爪が剥がれているのも、彼女が狂乱状態にあったとすれば・・・」

「説明が付く訳か。うーん、しかしなあ」

 殿村は視線を上げ、血飛沫の被害が比較的少ない凹面鏡の一つに目をやった。ぐねりとうねった、異形の影が映る。確かに気味は悪い。それが、自分の鏡像に過ぎない、と言う事実が寧ろ、説明し難い不快感を煽るのだ。だが。

「だがなあ。実際の話、こんな物で人間を狂わせられるか?そりゃあ、小説だけの話じゃないのか?それに、ほれ、逆姫君が言ってたろう。こいつは不完全な代物だって。なあ、逆姫君」

 殿村は神無に話を振った。喜多川の検死が始まってから、彼女は珍しく一言も発していない。何やら考え込んでいる。今も殿村の呼びかけに気付かず、もう一度呼ばれて漸く顔を上げた。

「ふぇ?え、何です、警部。ああ、これ。ええ、不完全ですよ。理想を言えば、一枚の鏡でくるっ、と全部覆って欲しいですね。くるっと。それが何か?」

「だからな、この中に人間入れても、狂ったりはせんだろ?」

「そうですねえ。精神的に脆い人なら、或いは、と思いますけど・・・・・・。後は、そうですね、」

「薬物・・・・・・なら大当たりみたいよ、神無ちゃん」

「え?」

「何ですって?」

 一同は声の主である、喜多川を振り返った。神無は、何故か気落ちした顔で頷いた。

「ああ、やっぱり・・・・・・そうでしたか」

「まあこれも、開いてみなけりゃ断言できないけどさ。ほら、注射の跡」

 喜多川は、死体の腕を取って見せた。

「ふーむ、と、なると、米倉君の説も、まんざら不可能ではない訳だ。確実性に欠ける気はするがな。問題は被害者の素性だが・・・・・・長瀬、何か遺留品は?」

「えー、それがですね、これといって・・・」

「ふむ。もう処分されたのかもな。死体もわざわざ裸にしている位だからな」

「警部、根浦の方はどうだったんです?」

 殿村は、長瀬の問いに、渋い顔を見せた。

「それなんだがなあ。どう考えてもあいつが嘘を吐くメリットが無いんだ。仮にこの女を殺したのが井須島で、根浦は共犯者だとしよう。だがな、それなら、何で井須島がこの中に入った、なんて嘘を吐かなきゃならないんだ?どう考えても意味がないだろう。では、根浦が井須島と女を殺したとしたら?これでも変だ。それなら、井須島の死体も一緒に入れて、罪を擦り付けるのが、筋ってモンだろ。ところが井須島は行方不明、根浦はわざわざ、中に入ったのは井須島一人と断言している。大体、あいつが通報して来なきゃ、当分、事件は発覚しなかったんだからな。どう考えたって意味がない。葉野山鉄工所の連中にしたって同じこった。ついでに言うなら、連中の誰にも、井須島を殺す動機がない」

 いつの間にか、「鏡」の縁に腰掛けていた亜理麻が、脚をぷらぷら振りながら、殿村の意見に相槌を打つ。

「そーだよね。第一、こんな所に死体を入れっぱなしにしないでも、大きな焼却炉がある訳だし。あれ使えば殆ど証拠隠滅だもん」

「焼却炉?」

「そ。ほら、そこから見える、庭に建った『塔』の内部が、焼却炉になっているんだって」

「何?本当か?」

「だよ」

「ちっ、そいつに気付かなかった。おい、長瀬!」

 殿村に命じられ、鑑識課員を引き連れた長瀬刑事が庭に出ていく。それを見送っていた喜多川も、よいしょ、と立ち上がった。

「じゃあ、殿村君、あたしもそろそろ戻ってこの子のお腹開いてみるわ。正直新しい事実が出てくるとは思えないけど・・・・・・ま、期待しないで待っといで」

喜多川はアトリエを出た。死体も残った鑑識課員によって運ばれていく。アトリエ内を再び静粛が支配した。暇をもてあました亜理麻まで、長瀬について行ってしまった。

 殿村は神無を横目で見た。どうも妙だ。何時に無く口数が少ない。今も何やら、考え込んでいる。だが、悩んでいる、という感じではない。横顔にはこれといった表情は浮かんでいない。何を考えているのか。

 殿村は、おほん、と空咳をすると、神無に向き直った。

「逆姫君、君・・・・・・」

 だが、やはりと言うべきか、殿村の台詞は、神無自身によって遮られた。

「ああ、警部!探してたんですよー!」

「探してたって・・・・・・あのなあ、」

「私たち、もう帰って良いですよね?」

「はあ!?」

「あれ、亜理麻さんは?何処行ったんでしょう」

「ちょっ、ちょっと待った。帰るって・・・事件の方は?」

「え?だって今回は私たち、井須島然吾の作品を見に来ただけですから。あんまり長居して、お邪魔しちゃあ」

「し、しかし、その代わりに捜査に協力してくれるんじゃあ・・・・・・」

「だって、それは警部が断ったんじゃありませんか」

「む」

殿村は言葉に詰まった。確かにそんな事を言ったような気もする。

「だ、だがな、事件の結末が気にならないのか。お前さん向きの事件だろう、これは」

「へ?そんなことないですよぉ。そんなに難しい事件じゃないですよ、これ」

「ちょっと待て。解ったのか、犯人が?」

「ええ、まあ、殆どは」

「じゃあ、どうして帰るんだ?ほら、関係者を集めて一席打ったりとか・・・」

「だって、これは、そこまでする程のトリックでは・・・・・・それにまだ、完璧、じゃないですしね。何、私が居なくても大丈夫ですよ。いずれ解決します、この事件は」

 神無はそう言って頷いたが、殿村の不安は消えない。彼にはまださっぱり解らないのだ。少々癪ではあるが。

「そうは言うがな。早く解決するに越したことはないんだ。殆ど突き止めているっていうなら、もう少しつきあって貰えんかね。こちらで出来ることは協力するから」

 神無はにっこり笑って殿村を見つめた。

「そうですかー。それなら一つだけ、お願いが有るんです」


 殿村は漸く、はめられた事を悟った。



9‐IN


 轟音と共に世界は再び闇に閉ざされる。光を拒絶したかのような限りなく完全に近い暗闇。だが、今度のそれは、すぐに終わった。明かりが点いたのだ。先程、刑事たちが直していた物だ。といっても、電球を取り替えただけで、カバーのガラスは割れたままだ。

 光の中心には、逆姫神無が立っていた。黒いセーラー服の上に白衣が踊っている。そして、その周囲、彼女を取り巻く「世界」には、同じように白と黒に彩られた、無数の異形が、じっと佇んでいる。あの女が付けた、夥しい血痕は、やはり刑事たちによって、粗方拭き取られていた。

 神無は周囲を見渡した。無数の異形が、一斉に揺らめく。すると、彼女はそれを見て、おかしそうにくすくす笑った。あの女とは全く違う反応だ。そして彼女は、

 ぐるりと、

 舞った。

 拙い舞いだ。明らかに素人の舞いだ。だが、にも関わらず、その舞いは魅惑的だった。いや、魅惑的なのは、彼女を取り巻く、異形の影たちだ。彼女の動きに連れて、その姿を限りなく変え続ける。それはまるで、神無が影たちを操り、踊らせているように見えた。

 それは、あの女の狂乱よりも、遥かに純粋且つ、洗練された狂気であった。

 不意に舞いは終わった。彼女は僅かに息を切らしている。

彼女の咽喉の動きにあわせ、異形の影たちが蠢動する。

そして、彼女は、ゆっくりと、

 私を見上げた。

 その、二つの瞳。左のそれは、炎の如く熱く、右のそれは、氷の如く冷たく。異なる輝きで、それは輝いている。彼女が口を開く。

「聞こえますか、井須島然吾さん。あなたは、まだ死んでいない筈です。何故なら―――」

 私は彼女の瞳にひどく惹き付けられていた。

 一体何者であろうか。刑事たちとの会話で名前は解ったのだが。

 その時、私の脳裏に、こちらは名前も知らぬ、一人の女の姿が甦った。あの女を拾ったのは、渋谷だった。クスリと金をちらつかせると、疑いもせず付いてきた。定まらない言動と濁った瞳から、既に重度の中毒である事は明らかだった。素材としては申し分なかったのだ。

 女はわめいていた。わめきながら、急速に狂気に侵されていた。その姿は、正確には女を狂わせつつ、一緒に狂っていく影たちの姿は、私に大きな衝撃を与えた。一時的に記憶を喪失するほどの衝撃を。

「――――――つまりあなたの『闇』は、『鏡地獄』ではなくて、『屋根裏の散歩者』だったのでしょう?」

 そうだ。私が見たいと望んだのは、狂気をもたらす「世界」ではなく、そこで狂っていく、「愚者」だった。そして、それは私に、予想以上の興奮と衝撃を与えた。

しかし。

 今、彼女の瞳は、私を見ている。向こうからこちらは見えない筈なのに。みている。

「――――――実は私も見てみたいんです、『愚者』を。だから・・・・・・協力していただけますよね、井須島さん。今のあなたなら、この不完全な鏡地獄でも、狂えると思うんです」 

頭のなかで、なにかがチリちりと、おとをたてていく。


わたしはかのじょをみていた。

かのじょはわたしをみていた。

わたしのなかにかのじょのしせんがしんにゅうする。

こんだくするいしきのなかでわたしはふとかんがえる、こんどはなにをうしなうのだろうか、と。




10


「こんな仕掛けになっとったとはなあ。うーむ、何故気付かなかったんだろう」

「だから言ったでしょう。これは、よく調べれば解るトリックなんですよ。ただ・・・・そうですね、ある錯覚が、それを覆い隠してた訳です」

「錯覚?」

 殿村警部は逆姫神無の方に振り向いた。神無は何故だか不機嫌そうに見える。「世界」は再び開かれている。

「ですから。『世界』の外壁が球ならば、内壁も球だろうと言う錯覚ですよ。普通なら誰か気付くのでしょうけど。鏡が張られていたせいで、誰も内壁の形状を把握できなかった訳です。そして、縁の厚さが併せて八センチ程度、外壁には、継ぎ目は全く無い、従って隠し部屋などは存在し得ない、と、そう思い込まされていたんです」

「むう」

「実際には内壁は、完全な球ではなく、上下方向にやや潰れていた」

「そして、その隙間に奴はずっと潜んでた訳か。やれやれ」

「ところで、被害者の方はどうです。何か解りました?」

「ああ。まず検死の方だが、まあ、概ね喜多川さんの視た通りだったな。死因は額の傷による失血死。だから即死じゃあない。被害者はかなり長時間苦しんだらしいな。酷い話だ。あと、やはり、重度の薬物中毒だったそうだ。覚醒剤だな。と、言うことは、やっぱりアレか、さっきの・・・・・・」

 殿村は嫌そうに言葉を濁した。神無が億劫そうに頷く。

「ですね。凶器は、『世界』そのもの。ただし、その不完全さを補うために、二つの物理的要因が使われました」

「二つ?一つは覚醒剤として、あと一つは?」

「酸欠ですよ。あの中は換気が殆どされていません。長時間閉じこめられれば、脳内の酸素が欠乏して、幻覚症状を引き起こします」

「しかし、こいつには空気の取り入れ口が・・・・・・ああ、そうか。あれは、上の部屋、井須島自身のために有った訳か」

「邪道ですね」

「報告書に書き辛い事件だな、全く。ふん。まあ、それはそれとして、だ。後はだな、ええと、被害者の胃の中から、睡眠薬が検出された。アルコールと一緒に飲んだ、或いは飲まされたらしい」

「そんな所でしょうね。他には何か?」

「後はそうだな、被害者の身元が割れそうだ。あのでかい焼却炉から、こんな物が出た」

 そう言って殿村が振って見せたのは、ビニール袋に入った紺色の布の切れ端である。端の方が少し焦げている。

「それは?」

「S大付属女子校の制服、だそうだ」

「もう解ったんですか」

「いや、解ったと言うか・・・・・・長瀬が間違いない、と言うんだ」

「長瀬さんが?何で彼には判るんです?」

「知らん。正直あんまり追求したくもない。まあ、奴が自信たっぷりなんでね、調べさせてる」

「はあ」

「・・・・・・だから、あと解らんのは、動機だけなんだ。いや、被害者の女、というより少女か、彼女と井須島が愛人関係だったとすれば、痴情のもつれとか何とか動機は幾らでも思いつくんだが、解らんのは何でこんな大がかりな物を拵えたのか、って事なんだ」

 神無はほう、と溜息を吐いた。

「警部、それはまるっきり逆ですよ」

「逆?」

「つまりですね、彼女を殺すためにこれを創ったんじゃなくて、これを完成するために彼女を狂わせたんです。痴情のもつれどころか、彼女と井須島は恐らく初対面です。或いは彼女の名前すら知らなかったかもしれない。彼には、彼女の素性なんてどうでも良かった。彼が欲したのは、『愚者』の素材としての彼女だけだったんです」

 殿村は鼻を鳴らした。

「素材?素材だって!?人の命を何だと思ってるんだ!全く許せんな」

「そうですね。井須島然吾ともあろう者が、人一人殺してこんな不完全な作品しか創れなかったのか、という問題は残りますね」

「・・・・・・いや、俺が怒ってるのは、そういう事じゃないんだが」

「まあ、原因ははっきりしてるんですよ。一言で言えば、井須島が自らが観客になる事に拘ったために、『鏡地獄』を完全な形で造れなかったという、まさにそこが・・・」

「それで、さっきから不機嫌なのか?」

「別に。機嫌は好いですよー、とっても」

 殿村は反論しようと、口を開き掛けたが、思い止まった。まだ聞いておきたい事がある。

「あー、それは兎も角としてだな。井須島はどうしてこいつを中からでも開け閉め出来るようにしなかったのかな。そうすれば、我々が介入する事も無かったろうし、下手すりゃ完全犯罪だ」

「それじゃあ、密室にならないじゃないですか。彼が乱歩マニアだって事を忘れてますよ。そもそも彼は、一週間後に警察を呼ぶよう、根浦さんを誘導しています。警察によって『世界』が開かれるのは、彼の予定に入っていた訳です。恐らく、自分自身のための作品とはいえ、全く他人の眼に触れない、というのはやはり侘びしかったんじゃないですか。そういえば、彼と一緒に見つかった・・・」

「謎の薬ビンか。あれはやっぱり睡眠薬だそうだ。被害者の胃の中に入ってたモンと同じ」

「はあ。だとすると、矢っ張り彼は全てが終わった後、自殺するつもりだったんでしょうかね」

「それはこっちも考えたが・・・単に証拠隠しのつもりかも知れんぞ」

「だったら、焼却炉で焼いちゃえば良いでしょう。大体この事件で睡眠薬一つ隠しても、あんまし意味無いですし。まあ、いざというときのために用意したのかも知れませんけど・・・・・・こればっかりは、本人に聞くしかないんですけどねー」

「一体全体、なんだって、こんなになっちまったんだ?」


 二人はそう言うと、同時に私の方を見た。

「あの『屋根裏』から引きずり出されてからこっち、何を聞いても、云とも寸とも反応しねえ。眼も焦点が合ってないみたいだし。何があったんだ、一体」

 私を見ながら、神無が答える。

「これは、自己防衛ですよ」

「自己防衛?」

「井須島はあの中で、自らも精神に強い衝撃を受けるような事態に遭った。そして、崩壊の危機に直面した彼の無意識は、やむを得ず、別の人格を創りだしたんです。それが、今の彼です」

「つまりあれか?・・・・・・多重人格?これが?」

「日本に於いては人格剥離と呼ぶべきですね。それは置いといて、彼が創りだしたのは、『無』の人格とでも言うべきものです。何も感じず、何も考えず、何を見ても何を聞いても反応しない、そういう人格を創ったんです。何も感じなければ、狂気に陥る事も無いでしょう?・・・・・・正直、井須島然吾ともあろう者がこんなに脆いとは思いませんでしたけど」

 最後の台詞は小声だったため、殿村警部には届かなかったようだ。

「やれやれ。じゃあ、こいつはずっとこのままなのかね」

「そのうち戻ると思いますよ。多分。さてと。では、本当にそろそろ失礼します。亜理麻さんは?」

「さっきまで長瀬と一緒にいた筈だが・・・見当たらないな」

「はあ。本格的に退屈し始めたみたいですね。こうなると彼女、何しでかすか判りませんし、ちょっと探してきます」

「・・・何だかんだで、良いコンビだな、君たちは」

 そして、二、三言挨拶を交わした後、彼女は私に一瞥もくれず出ていった。彼女の興味はもう別の所に有るのだ。私は奇妙な寂寥感と安堵感を同時に感じていた。


 そして、扉はゆっくりと閉じられた。   


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