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ハトジケ  作者: misodrill
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ハトジケの一話 「光るそれ」

   光るそれ





     0


 雨が降っている。

 季節外れの冷たい雨だ。

 嫌な雨だ。

 天気予報では、午後には上がるという。

 もし止まないようなら。 


 延期しなくてはならない。







 でも、きっとそうはならないだろう。

 だって――――――――――――









 雨が降っている。

季節外れの冷たい雨だ。

「はあ。よく降りますねぇ」

 銀縁丸メガネの少女が、そう呟いた。真っ黒な髪は肩口で切り揃えられている。かなりの程度隙無くかっちり整ったその顔には、弛緩してのほほんとした表情が浮かび、それ故彼女のその顔に、美しさより奇妙な不安定さを感じる者もあるかも知れない、そんな顔だ。恐らくは高校生か大学生であろうが、どことなく年齢不詳な雰囲気も漂わせている。


 彼女は浴衣の上に、丸に狸の印が入ったドテラを羽織っている。

「午後には上がるみたいだけど。それよりさー神無さん、破羽先生ホントに来るの?」

 尋ねたのはもう一人の少女、青み掛かった長髪のこちらは、メガネの娘よりだいぶ小柄だ。小学校高学年といっても通りそうな背丈だが、ざっくりしながらもしっかりした喋り方は、もう少し上のようにも思える。その瞳は、カラーコンタクトか生まれつきか、兎の様に赤い。彼女も、同じ浴衣を着ていた。


「うーん、どうでしょう。なにせ、時間にルーズな上にトラブルに巻き込まれ易い人ですからね〜。運が良けりゃ来るかも、ってとこです」

 神無と呼ばれた少女は、投げ遣りに答えた。彼女は今、二人掛けのソファの隅にちょこんと座り、カップの紅茶を啜っている。

 ここは、西伊豆某にある、黒狸亭こくりていという名の、老舗のホテルである。二人が、破羽探偵研究所所長、破羽鳥人はうとりひとと落ち合う為、ここにチェックインしたのが四日前。以来破羽所長からの音沙汰は無い。眼鏡の少女、逆姫神無さかひめかんなは、温泉やら観光ホテル特有のアナクロな娯楽施設やらに喜んでいるが、もう一人の少女、米倉亜理麻よねくらありまは一日目にしてすっかり退屈しきっていた。

 碌に見えない窓の外を見ながら、亜理麻はぼやいた。

「ホントにあの先生、時間どおりに現れたこと無いよね。つーかわたし、あの人の顔二回しか見たことないんだけど」

 神無はきょとんとした顔で答えた。

「私はもう少し多いですかねぇ」

「そりゃそうでしょ。全然亜理麻より付き合い長いじゃん」

「そう言えばそうですね」

 神無はすっかり冷めた紅茶を、もう一度ずずずと啜った。

「兎に角さー、明日いっぱい待って連絡も来ないようなら、一旦帰ろうよー。幾ら所長が金出してくれてるつっても、もーこのままじゃ全身カビちゃいそう」

「うーん、そうですねぇ。ほんと、あの人は世話が焼ける人です、昔から」

 ソファに埋もれたままの神無だが、その瞳には、普段滅多に見せない「なにか」が籠もっている。逆姫神無と破羽鳥人はその昔、何やら大きな事件に巻き込まれ、そこで知り合ったらしい。亜理麻が破羽探偵研究所に通い始めてから、まだそこまでどえらい事件は経験しておらず、彼女は二人の絆が少々妬ましかった。どっちが妬ましいのかは、本人にもよく判らなかったが。


 神無と亜理麻が滞在している黒狸亭は、ホテルといっても一般のそれとは、少々異なっている。よくある白塗りの近代的なビルではなく、その外観は相当に年期の入った洋館であり、老舗といっても、それほど大きい訳でも、繁盛している訳でもない。何でも、戦前は某華族の別荘地であったらしい。そしてお定まりの没落後、幾人かの手を経て、今の黒狸亭の経営者の物になったそうだ。勿論内部は近代化されているし、ほぼ全館にわたって幾度も改修がされているが、外観は、昔のままだという。

 そして、黒狸亭のもう一つの特徴が、名前の由来でもある、どでかい狸の像であり、それは二人が今居るロビーのど真ん中にでん、と居座っている。よく見る徳利を下げた信楽焼の狸なのだが、これは、全高2メートル強あり、その名の通り、全身真っ黒なのだ。

一説には、これは八百八狸の長である、刑部狸ぎょうぶだぬきを現したものだという。尤も、黒いのはただ古くて煤けているようにも見える。

「ねぇ、神無さん、明日は観光にでも行かない?雨も止むらしいし。運が良ければ地元のヤンキーが因縁付けてくるかも知れないし」

「いつの時代の話です、それ。良いじゃないですか。たまにはこうしてぐでぐでだらだらするのも」

「たまに、じゃないでしょうが・・・」

 亜理麻は窓際に腰掛け、脚をぶらつかせながら呆れたようにうそぶいた。


 この逆姫神無という人物は見かけによらず、真っ当な物には、概ね興味を示さない。その反面、いかがわしい物、胡散臭い物は、大抵好きである。この事は探偵としての特質にも現れていて、怪しい、裏がありそうな事件は、飲まず食わずでも追いかける一方、ありがちで平凡な真相が見えると、途中でもほっぽらかして帰ってしまうという、言ってみれば「名探偵的」特質を持っていた。やる気がない時の神無は、(丁度今がそうだ)ウミウシより役に立たない。

 亜理麻と神無が、双方とも興味をそそられる場所、となると寧ろ何かのトラブルが起きてない限り殆ど有り得ない気がする。そんな所、観光パンフレットに載ってないし、ネットで調べても無駄だろう。さて、どうしたものか。


 と、亜理麻がそこまで考えたとき、神無が、がば、と身を起こした。

 彼女の眼が、左の眼が、きらきらと輝いている。何か興味のあるモノを見つけたらしい。

 神無の「右眼」について、亜理麻は殆ど知らない。ただ、件の事件に関係している、と推測しているのみである。


 神無の視線の先を辿ると、それはロビーの丁度逆側の隅に注がれている。そこには二人が陣取っているのと同じようなソファセットがあり、一人の少女が本を拡げていた。

 彼女は何故だか、酷く儚げに見えた。顔立ちは整っている。美人と言っていい。薄いグリーンの地味なワンピースを着ている。だが、彼女の場合、その儚さが良くない方に作用している。病的というか、陰気なイメージになってしまっている。  

 だが、神無の関心は、少女自身ではなく、彼女が読んでいる本にあるようだ。

 亜理麻は目を凝らしてみたが、ここからでは何の本か、確認できない。両眼2.0オーバーの彼女に見えないのだから、神無に見える筈はないのだが。或いは、本能と経験で判るのか。

 神無は立ち上がった。少女に話しかけてみる事にしたらしい。当然のように、亜理麻もそれに従う。


 神無は向かいのソファにぺたん、と座った。少女はまだ気付かない。

 亜理麻はほんの形ばかり考えた末、少し離れて立っている事にした。近くで見ると尚更に、その少女はあまり彼女の興をそそりそうにない相手だったからだ。

 少女が熱心に読んでいる本のタイトルは、「宇宙人遭遇への近道」とある。

 神無は胡散臭い物が好きな訳だから、当然、UFOだの、宇宙人だのは大好きである。

 特に彼女のお気に入りはフラ何とかモンスターとかいうヘンなヤツで、これはフィギュアが研究所に飾ってあるほどだ。宇宙人といえば誰もが思い浮かぶ、所謂グレイは、「つまらないから嫌い」らしい。宇宙人って面白いとかつまらないとか、そういうものじゃない気も亜理麻はするのだが。


 少女が気付いた。


 神無を見て、びくっ、となる。印象通り、あまり社交的ではなさそうだ。神無は身を乗り出して、にこ、と笑った。

「それ、面白いですよね」

「えっ?」

「その本です。私も前に読んだ事があります。実に興味深いです」

 少女の警戒が見る見る解けていくのが傍目にも判る。

「そ、そうですよね、私も好きです。もう五回も読んでます!」

 神無が、それはそれは、と感心したような声を出す。

「そ、それで、あの・・・・・・」

「ああ、はいはい。私、逆姫神無と云います」

「逆姫さん・・・こちらへはやはり観光で?」

 何故か神無は意味ありげに微笑んだ。

「そうですね、それが一番通りが良いですね。・・・・・・こちらには観光に来ました」

「はあ、そうですか・・・・・・あっ、すいません、わ、私は代木泉よぎいずみって云います。その、今日は家族で、旅行に・・・・・・ここには毎年来てるんです」

「毎年ですか?」

「はい。亡くなったお爺様がここのご主人と知り合いで、昔から伊豆旅行が毎年恒例行事になっているんです」

「それはご苦労様ですね。それはそうと、」

 神無はまたも意味ありげに声を潜める。

「あなた、宇宙人に会ったことありますよね?」

 神無のこの台詞に何故か泉は狼狽した。

「そ、それが、その・・・・・・恥ずかしいんですけど、まだないんです、私」

 何故恥ずかしいのか、亜理麻にはさっぱり判らなかったが、神無は意外そうな顔をしている。

「でもですね、その本には、地球人の90パーセントが宇宙人に遭遇してるって書いてありますよ。地球人口が四十億として、宇宙人が現れてから五十年とすると、ええと、毎日、二十万人弱が宇宙人に遭遇してる訳ですね。何人いるんでしょうか、宇宙人」

「凄い事ですよね。でも、私はその十パーセントの方なんです、きっと。私生まれつき体が弱くて・・・・・・この旅行以外は、殆ど外出出来ないんです。だから・・・かな・・・」

「・・・・・・ふうん」

 神無がドテラの懐から煙草を出したので、亜理麻は仰天した。割と年齢不詳だが実を言えば未成年である神無は、当然ながら普段は全く煙草を吸わない。少なくとも亜理麻は見たことが無い。そもそも、何時の間に、どこから調達したものなのやら。

 亜理麻の動揺など知らず、神無は煙草を一本引き出すと、逆さにくわえた。火は点けない。だが泉は気付いていない。夢中で話を続けている。

「でも、でも私、UFOは見た事ありますよ」

「ホント?それ、詳しく聞きたいですねぇ」

「それがですね、実は、ここで見たんです」

「ここ?このホテルで?」

「はい。さっきも言いましたけど、私ここには、毎年来ていまして、最初に見たのは二年前です。あのですね、私が夜、九時頃だったかしら、部屋に居ましたら、藍華あいかさんがいきなり入って来たんです」

「藍華さん?」

「ああ、すいません。説明しなくちゃ判らないですよね。藍華さんは私の・・・ええ、妹です」

「はあ」 

「それでですね、藍華さんが仰るには、頭の中で奇妙な声がする、何か呼びかけているみたい、って。私、すぐにこれは宇宙人のテレパシーだって判りました。ですから、彼女に何か意味のあるメッセージが聞き取れないか、尋ねたんです。そうしたら・・・」

「そしたら?」

「藍華さんが、『北の空を見よ』って聞こえるって言うんです。私の部屋は丁度ホテルの北側でしたから、慌てて窓を開けて見てみました。そうしたら・・・ああ、私、あの時の感動は忘れられません!丁度、一番高い杉の梢の向こう側だったと思います。緑色に光るUFOがふわふわ漂っていたんです。私、感激で声も出ませんでした」

「ふーむ。興味深いお話です。しかしその宇宙人さん、結局何がしたかったんでしょう?」

「判りません。暫くしたら、UFOは不意に消えてしまいました。ああ、私にもテレパシーが届けば良いんですけど。やっぱり持って生まれた素質みたいなものがあるんでしょうか」

「うーん、そうかも知れませんねぇ。ところで一つ聞きたいんですけど。その、藍華さんも宇宙人とか興味があるほう?」

「いえ・・・藍華さんは・・・普段はそういう話全くしません。だから・・・何で彼女にはメッセージが届いて、私には・・・・・・かなって、ちょっと・・・」

 泉は俯いてしまった。神無は気にする素振りもなく、話を続ける。

「それで?それっきりUFOは現れなくなっちゃったんですか?」

少女は顔を上げた。

「それが違うんです。その時はそれっきり何も起きなかったんですけど、次の年、だから去年ですね、また、同じ事が起きたんです。また藍華さんがメッセージを受け取って、それで、またUFOが現れたんです」

「で、今度は宇宙人さん何か言ってきました?」

「いえ、結局またUFOが現れただけで・・・」

「それは残念ですね。で、状況とかも、全く前の年と同じだったんでしょうか?」

「はい。あ、いえ、去年はそのUFOが現れた部屋は藍華さんが宿泊してまして、だから私が彼女の部屋に呼ばれたんですけど。違いはそれくらいです」

「ふうん」

「ですから、私今年は父に我が儘言って、そのUFOが現れる部屋を充てて貰ったんです。私が宇宙人とコンタクトできるのは今日ぐらいですし・・・」

「UFOはどんな形でした?」

「あの、お椀を伏せたような形で、下には多分球が・・・」

「はいはい。いわゆるアダムスキー型ですね。ベタベタですね」

「はい、だからあれは友好的な宇宙人に間違いないです!」


 それから二人の会話は、どんどんディープになっていった。最早、亜理麻が入り込む余地は全く無い。入り込む気も無いが。

 どうせなら、いきなりトカゲ型宇宙人がレーザーガンをブッ放しながら乱入してこないかな、と期待したが、このお話はSFアクションではなくミステリなので、そんな気配はまるで無い。

「それでですね、私が好きな事件はモントークプロジェクト。ナチスやら、タイムスリップやらイドの怪物やら、盛りだくさんすぎるのが好いと思いません?なんか、こう、超常現象幕の内、みたいで、お得感があります」

「はあ。でも私はあの事件は、多少の誇張があるんじゃないかと。宇宙人実在の証拠としてはそれより・・・」

 奇妙な会話であった。双方とも一向に気にしていないようだが、話が微妙に噛み合わない。その理由は明白だ。少女は明らかに宇宙人の存在を疑っていない。純粋すぎる位、完全に信じ切っている。一方の神無は、明言した事こそ無いが、亜理麻が見るにまるっきり信じていない。むしろ、彼女の本当の興味は、そういう存在を信じ込んだり、でっち上げたり、時には自らでっち上げたものを信じ込んだりする、人間心理にこそある、と亜理麻は考えている。しかし、全く反対の意見の二人がどうしてあんなに盛り上がれるのかは、さっぱり解らなかった。

 単に相手の話を聞いてないだけかも知れない。

 ふと気が付くと、いつの間にか二人の話題は一巡して、泉がこの黒狸亭で見たUFOに戻っている。

「やっぱり宇宙人と交信するには、生まれつきの素質とか、必要なんでしょうか。藍華さんなんてそういう事に全然興味無いのに・・・・・・」

「私はそんな事無いと思いますよ。こういうのは見たい人には見えるものです。それにね、もしかしたらあなたが気付いていないだけで、本当はもう、宇宙人と会ってるのかも知れませんよ」

 神無の言葉に泉はあっ、と声にならない声を上げた。神無の顔を穴の開く程じっと見続けている。

「そ、それは一体・・・」

「今は言えません。それより、その藍華さん?妹さんて言ってたけど」

 神無の顔に怪しい笑みが浮かぶ。チェシャ猫の笑いだ。

「貴女と血は繋がってないんでしょう?」

「!」

 泉は愕然として立ち上がった。神無を見るその眼は、もはや、そう、あれは「宇宙人」を見る眼だ。

「ど、どうして・・・どうして知ってるんです?」

 不意に、神無は少女の目の前に右手を突きだした。

「知っていた訳じゃない。読みとったんですよ」

「よ、読みとった?・・・・・・」

「他にも、そうですねえ。あなたの父君は・・・電気・・・・・・いや、エレクトロニクス関係のお仕事でしょう?再婚したのは、四、五年前」

「あ、あなたは、ま、まさか・・・」

泉が言い淀んだ、正にその時。

階上からもう一人の少女が姿を現した。


 太陽のような少女だった。

 均整の取れた顔に浮かぶ微笑みも、優雅な身のこなしも、恐らくは高級ブランドであろうコートも、全てが自信に満ちて輝いていた。

亜理麻の口から、思わず「へえ」という感嘆のようなものが漏れた。少女の美しさのせいではない。彼女の顔を知っていたからだ。最近では殆ど毎日のようにお茶の間に現れる、それは、今売り出し中の人気タレント、荻居おぎいアイカの顔だった。

 アイカの後ろには、一組の男女が続いている。男性の方は高級そうなスーツを着た中年の紳士で、穏やかな笑みを浮かべたその容姿には、やはり自信と貫禄が満ちている。女性の方も同年輩で、やはり高そうな衣服に身を包んでいるので、二人は夫婦と見て間違いないだろう。多分、アイカの両親なのだ。女性の顔立ちには、明らかに彼女と共通する処がある。

 泉の言う「藍華さん」って「荻居アイカ」だったのか。だったら私も干渉しておくんだったかな、と亜理麻はちょっとだけ悔やんでいた。別に荻居アイカに興味は無いが、ちょいと話して知り合いになっておいて、それをミーハーな相手、例えばちょくちょく研究所にやってくる、長瀬という若い刑事、アイツに自慢でもしたら結構愉快だったのに。


 とかなんとか、亜理麻がしょうもない後悔をしている内に、アイカたちは下に降りてきていた。 

「あ、藍華さん・・・・・・」

 泉を認めたアイカは、にっこりと微笑む。

「ごめんなさい、泉さん。今日の収録はどうしても外せなくて。年に一度だけの家族旅行なのに」

「え、いえ、藍華さん、忙しいから、仕方ないです・・・けど・・・あの・・・」

 藍華は泉の耳元に唇を寄せ、笑みを浮かべる。

「ああ、何か感じたら連絡するから。携帯、切らないでね」

「は、はい、待ってます。あ、あの・・・・・・」

「ああ、それから泉さん。悪いけど、あなたもコリンの事気を付けててね」

「コリンちゃん、まだ帰ってこないんですか?」

「ええ、今までこんな事なかったんだけど・・・ひょっこり帰ってくるかも知れないから。お父さんお母さんも、お願いしますね」

 アイカは優雅に振り返り、初老の男女、すなわち彼女の両親にそう言った。父親が鷹揚に頷く。

「ああ、ホテルの人たちにも頼んでおいたから、お前は心配せず、仕事に専念しなさい」

「もう、あなた、藍華はまだ十七ですよ。仕事仕事って」

「年齢は関係無いさ。一度受けた仕事は、必ず完了する。これはビジネスの基本だよ。まして藍華には将来代木グループを任せる事になるかも知れんからな。だから・・・」

「ああ、お父さん、心配しなくても、仕事を疎かにしたりしませんから。だって、私この仕事に生き甲斐を感じてるんですもの。」

「む、それは困るぞ。私の跡継ぎがいなくなる。河野になど紹介するんじゃなかったな」

「そうね。じゃあ、お父さんお母さんに、頑張って弟を作って貰おうかしら」

「もう、嫌ねえ、藍華さんたら」

 既に、泉は完全に蚊帳の外だ。二人の少女は正に太陽と月のようだった。照りつける太陽の下では、月はその存在すらも危うい。


 その時である。どたどたと不細工な音を立てて、最後の登場人物が姿を現した。

 彼はそれまでの人物たちと些か趣を異にしていた。よれたセーターに色褪せたジーンズ。モノは悪くないのだが、だらしない着こなしのせいで、そうは見えない。身長も低くはなかったが、残念ながら横幅の方が目立つ体型だった。彼は藍華の顔を認めると、慌ててばたばたと階段を降りてきた。

「え、何、何何、藍華さん、えっ、もう行っちゃう訳?」

「ああ、城也さん。ごめんなさいね。今日は番組の収録があって。もう行かなきゃならないの」

「え、いや、いやいや、それは知ってたけど。も少しゆっくりできるのかと。いや、まあ、しょうがないんだけどさ」

 藍華は太陽の笑みを彼に向けた。

「それより、城也さん」

 城也が動揺するのが誰の目にも見て取れる。

「お願いしますわ、あなたにも」

「え?ああ、うん、勿論」

「藍華。そんなに気を病まなくても、猫なんぞ、腹が減ったら帰ってくるさ」

「それなら良いんですけど。あら、もうこんな時間。じゃあ、私行きますから。皆さん、気にせず楽しんで下さいね」

 藍華がそう言うと、タイミングを見計らっていたように表玄関から、マネージャーらしき男が現れた。


 太陽が沈むと、ロビーは火が消えたように静まり返った。代木家の登場人物たちは言葉少なに、めいめいの部屋へと退場し、ロビーには再び当初から居た三人だけが残った。

「・・・・・・あ、あの、逆姫さん」

 ようやく、意を決した泉の言葉はしかし、今度は神無自身に遮られた。

「泉さん」

「は、はい?」

「二、三、尋ねたい事があるんですけど・・・構いませんか?」

「な、何でしょう?」

「まず、これは確認ですけど・・・先程の中年の紳士。彼が代木宗一ですよね、あなたの父君の」

「は、はい、そうです。あの、あなたは・・・」

「と、いう事は、一緒にいたご婦人が、今の奥様ですか」

「は、はい。藍華さんの実母で、だから私の義母の冬子さんです。それが、何か・・・?」

「それから、あの城也とかいう男性。あれは・・・あなたの従兄弟か何かですかねぇ」

「凄い・・・その通りです。父方の従兄弟の、多村城也君です」

「彼、随分藍華さんにご執心のようでしたけど」

「ええ、城也君は前から藍華さんを好きだったみたいですけど、彼女が芸能界デビューしてからは、特に・・・・・・まあ、城也君に限らず、藍華さんは誰にでも愛されてますけど・・・」

 泉は俯いてしまった。神無は意に介した様子はない。

 片隅で聞いている亜理麻は少々、いやかなり退屈し始めていた。そもそも、何故神無さんはこんな、UFOを信じているくらいしか面白みの無い女の話に付き合ってるんだろう。

 亜理麻にはいま一つ彼女の心理が判らない。

「後は・・・そうそう、河野さんて、誰です?」

「え?あ、ああ、多分それは父の知り合いでプロダクションを経営してる人です。私は会った事ありませんけど」

「そうですか。事件には関係なさそうですね」

「えっ?」

「いや、こちらの話。後は・・・もう一つ、これだけは聞いておかないといけません。藍華さんの飼い猫が居なくなったらしいけど、も少し詳しく話して頂けませんか?」

「詳しくと言っても・・・私もコリンちゃんがどういう状況でいなくなったのか、よく知らないんですけど・・・すいません」

「うーん、そもそもですね、どうして旅行に猫連れて来てるんです?このホテルってペット持ち込みOKでしたっけ?」

「いえっ、それは、その、藍華さんがどうしてもと。彼女コリンちゃんをすごく可愛がってるんです。それで、父がホテルのオーナーさんに掛け合って、無理を聞いて貰ったんです」

「ははあ。納得しました。天下の代木エレクトロニクスの社長に頼まれちゃ、断れませんよね。じゃあ、猫ちゃんも毎年旅行に同行してる訳ですね」

「いえ、藍華さんがコリンちゃんを買ってきたのは、ええと、そうです、丁度去年の旅行のすぐ後でした。だからほぼ一年前ですね。彼女、それまでは動物なんて飼った事なかったから、みんな驚いたんですよ。よっぽどコリンちゃんが気に入ったんでしょうね」

「ふうん・・・それは、また」

「あ、あの、そんな事より、教えて下さい、あなたはもしかして・・・・・・」

 詰め寄る泉を神無は手を挙げて制した。

「それについては、今は言えません。でも安心して」

 神無はそう言うと、浴衣の懐から、何やら包みを出した。

「寝る前にこれを一錠だけ、水と一緒に飲みなさい。それであなたの願いは叶う筈です。それを起きてからも覚えているかは、あなた次第ですけどね。私、少し用事があるから、そろそろ失礼します。縁があれば、また会うでしょう」

 神無はそういって手を差し出した。泉は右手を出しかけたが、神無が出しているのが左手と気付き、慌てて出し変えた。




 水滴がガラスの上を、つう、と滑り落ちていった。それをぼんやり眺めながら、神無は、はぅ、と溜息とも付かない声を上げた。

 場所は黒狸亭自慢の(というよりは唯一のウリの)湯殿、時は人によっては真夜中に分類するような時間だ。流石に他に利用者は無く、神無は浴槽を悠々と占拠していた。

 自慢するだけに立派な浴場である。この館の最初の持ち主が趣味で造らせた物だが、神無が居る女湯だけで、二十畳近い広さがある。浴槽はかなり年期の入った檜造りで、これは後から造ったらしい、大口を開けた狸が、湯を吐き出している。今は真っ暗で見えないが、北面の大窓からの景色も、ウリの一つである。裏庭であるそこは、ちょっとした庭園になっており、煉瓦の遊歩道が左右に伸びている。といっても、浴場の大窓は裏庭より二メートル程高い位置にあるので、NBAの選手でもない限り覗くのは無理だ。庭の奥には、巨大な杉の木があり、暗闇の中に、そのシルエットが辛うじて確認できる。もっとも、眼鏡を外した今の神無には風景など意味がない。彼女の左眼は強度の近視であり、だからこそ、こんな時間に入浴しているとも言えた。そして、神無の右眼は今、消毒用の小瓶の中から、彼女自身を見つめている。


 静かな夜だ。


 不意にガラガラ、という物音が静粛を破り、小柄な影が湯殿に現れた。

「あー、やっぱし。寝床にいないと思ったらここにいた」

 小柄な影の正体は、勿論亜理麻である。どこも隠さないフルオープンで入ってきた彼女は、そのままざぶん、と湯船に飛び込んだ。

「亜理麻さん、もう少し静かに入って下さいな」

「そんなことよりさー、神無さん、あの人、荻居アイカのお姉さんだったんだね。サイン貰っとけば良かったかなー」

「はぁ?何、あの人有名なんですか?」

「へ?神無さん、知らないの?ほら、最近テレビによく出てくる・・・」

「あー。私テレビって殆ど見ませんからねぇ」

「それにしたって、ネットとかでも名前出てくるじゃん」

「私、興味の無いことは極力憶えないようにしちゃってますから。しかし、亜理麻さんが芸能人に興味があるのは意外でした」

「いや、全然無いけど。長瀬刑事あたりに見せびらかしたら面白いかなー、って思って」

「ああ、それなら納得です」

 亜理麻は、すすすすす、と波を立てながら神無の脇へと寄ってきた。

「そんなことはいいけどさ。荻居アイカを知らないなら、昼間あの娘に色々言ってたのは、どうして解ったの?」

「ああ、アレですか。簡単な推理ですよ。彼女の言動から、彼女が世間知らずのお嬢様である、という見当は付きますよね。で、代木というちょっと珍しい名字と照らし合わせると、思い浮かぶのは、代木エレクトロニクスでしょう?更に、これも彼女の口振りから、彼女と妹が普通の姉妹関係ではない、と推測できます。となると、一番ありそうなのが異母姉妹、という訳」

「成る程ねー。あれ?でも、確か神無さん、再婚したのは四、五年前、って言ってたよね。あれはどういう推理?」

「あら。憶えてましたか。困りました。うーん、種をばらすとですね、知ってたんです、私。四年前にね、ある事件を調べてまして。経済誌だったかな、載ってたんです、代木エレクトロニクスの社長が某大物財閥のご息女と再婚って」

「何だ。じゃあ、推理じゃないじゃん」

「何だじゃありませんよ、亜理麻さん。情報は探偵の財産です。そして、それをどう使うか、それこそが、探偵術である、ってこれ、所長の受け売りですよ。この場合、ただ、『代木さん?ひょっとしてあなた代木エレクトロニクスのご息女ですか』、なんて聞いたら、ぶち壊しなんです」

「ぶち壊しって、何が?」

「私の、好意が」

「好意って?」

「泉さん、いい人みたいですし。彼女を宇宙人に会わせてあげようかな、って」

「ははーん。何となく判った。てことは、あの煙草を逆さにくわえたりとか、怪しい言動も?」

「嘘を吐くのは嫌ですから。彼女が私を宇宙人と誤解するのは、本人の勝手ですけどね」

「けど、あんな程度で宇宙人と思うかなー、普通。そりゃ、ヘンな人とは思うだろうけどさ」

「亜理麻さん。これは重要な事ですよ。探偵術の極意と言ってもいいかもしれません。メモしておくと将来のためになります」

「???一体、何の話?」

 今の話の中にそんなに重要な事があっただろうか。亜理麻は首を捻った。だが、神無の口調は真剣だ。

「何よりまず、常に頭に置いておきましょう。人間はね、すべからく、自分が見たい物を見るんです」

 今一つ意味が解らない。

「むー。正直よくわかんない」

「例えばですね、空を何か光る物体が飛んでいたとするでしょ。これを宇宙人の乗り物と思う人もいる。霊魂だと思う人もいる。プラズマだと思う人もいる。誰かのイタズラだと思う人もいる。目の錯覚だと思う人もいる。それは、基本的には、その人の主観によって左右されるのです。これは、どんな事にも当てはまるんです。完全に客観の視点なんて現実には有り得ないから、つまり、あらゆる事象には、係わった人間の数の真実があるって事です」

「つまり、アレ?彼女は常に頭の中が宇宙人だらけだから、あんな事でも宇宙人との遭遇と認識するって、そういう事?」

「はい、正解です。あのコが読んでた本の中には、タクシーの運転手がイイ人だった、なんてファーストコンタクトも出てる位ですから。まあ、あの程度で充分でしょう」

「でも、彼女、今まで宇宙人に会った事ないって言ってなかった?幾ら身体が弱いといっても、その程度でいいなら、一度くらい宇宙人に会ってそうなモンじゃない?ちょっと変わってる人はみんな宇宙人なら、わたしの周り宇宙人だらけなんだけど」

「亜理麻さん。『見たい物』とは、必ずしも本人の願望とは一致しないんです。泉さんは・・・恐らく妹さんへのコンプレックスからだと思われますけど、彼女が見たのは、『自分を救ってくれる者に巡り会えない自分』だったんです。勿論、他人に会う機会が少ないっていう彼女の境遇も関係してるんでしょうけど。だから私が、ちょっと強引にその辺を引っくり返してあげたんですよ」

 ふう、と一息吐いて、神無は立ち上がった。普段は白い肌が、上気して、さすがにほんのり桜色になっている。

「後は明日にとっときましょう。流石にこれ以上浸かってると、茹だっちゃいます」

「じゃあさ、あと一つだけ。神無さん、彼女に色々質問してたけど、あれも宇宙人としての演出?」

 神無は湯殿の薄暗がりの中で、奇妙な笑みを浮かべた。

「ああ。あれは、ちょっと違いますね。あの質問は、私自身の為のものですね、言ってみれば」

「は?」


 会話が途切れ、数秒、浴場は静寂しじまに包まれた。そして、正にその時、それは起こったのだ。

 

初め、神無はどうして自分が窓の外を見ているのか、判らなかった。それが、外から聞こ

えてきた微かな声と音――――微かな、獣のような叫び声と、石か何かをぶつけたような、鈍い物音――――の為だと思い立ったのは、数秒の後である。その時は、それどころではなかったのだ。

 どう、と、先程よりかなり大きい音がした。神無は窓に張り付いて、その音源を覗き込んだ。

 神無の裸眼の視力では、この距離でもぼんやりとしか判別は出来ない。だが、それでも判る。

 それは、男性の(恐らくは)死体だった。

 神無の傍らに立った亜理麻が、「うわぁ」と声をあげた。

「神無さん、アレあいつだよ。ほら、」

 だが、彼女の台詞は最後まで続かなかった。再び、今度は、女が降ってきたからだ。 顔はやはり神無の視力では判別できない。だが、その薄いグリーンのワンピースには、確かに見覚えがあった。そして、それはすぐ裏付けられた。

「拙いよ神無さん。今落ちてきたの、多分あのUFO女だよ!その前のも、昼間の太った兄ちゃんだ」

「亜理麻さん、とにかく出ましょう。お願いします!」

「任せて!」

 身支度を終えると、二人は同時に脱衣所を飛び出した。

「亜理麻さん、あなたは上に行って。もしこれが殺人なら、まだ犯人がいるかも知れません。気を付けて下さいね。私は二人を見てきます」

「うん。神無さんこそ気を付けてよ?」

 神無は軽く頷くと、正面玄関へと駆けていく。


 玄関ロビーへと廻った神無は、怪訝そうなフロント係の前を突っ切り、スリッパのまま、ぺたぺたと外へ飛び出した。先程の様子では、二人共既に絶命しているのは、まず間違いない。だから、人を呼ぶよりも、荒らされない内に現場を一人で見ておこう、と考えたのだ。

 伊豆とは言え、初春の夜は、相当に冷える。浴衣の上にドテラを羽織っただけの神無は、クショん、と小さなくしゃみをした。

 裏庭は紫の闇に包まれていた。月は薄い雲の向こうから、控えめに辺りを照らしている。常夜灯はあるものの、足下はかなりおぼつかない。何時の間に調達したのか、神無は懐から懐中電灯を取り出した。

 光円の中に浮かんだ、物言わぬそれらは、やはり、代木泉と、多村城也だった。調べるまでもなく、完全に死んでいる。神無は、無言、無表情で、そっと死体を調べ始めた。

 二人とも、頭部に激しい損傷がある。恐らくこれが死因だろう。神無の乏しい視力でも、確か頭から落ちてきたように見えた。服装は、泉は昼間のワンピース、城也の方は、昼間の格好の上に、ジャケットを羽織っている。

 倒れた城也を見て、神無は軽く首を捻った。

 何故、城也だけが靴を履いているのだろうか?泉は靴下のみで、スリッパが片側だけ、側に落ちている。更に、二人が各々握り締めている品も不可解だった。泉の右手には、薄いピンクの携帯電話が握られていた。可愛らしいストラップがじゃらじゃら付いている。誰かと電話している最中に襲われたのだろうか。これも、完全に壊れている。そして城也が握り締めていたのは、カーボン製の釣り竿だった。川釣りに使う物だろうか。途中で切れたのか、或いはまだ仕掛けを作ってなかったのか、糸の先には何も付いてない。

 更に辺りを懐中電灯で照らしていた神無は、あ、と声を上げそうになった。さっきは気付かなかったが、落ちてきたのは、二人だけではなかったのだ。あと一つ、少し離れて落ちていたそれは、血にまみれた麻袋だった。

 近付いて照らしてみる。べっとりと付いた血の臭いが鼻に突く。大きさは五キロの米袋くらい。口は堅く縛り付けてある。そして。

「?これは・・・・・・灯油?」

 血臭で判りづらいが、確かに油の臭いが混じっている。袋全体に、どっぷりとかけられているようだ。神無はしばらく迷った挙句、結局中を見るのを諦めた。

 腰を上げた神無は、館を見上げた。黒狸亭の北壁は、ほとんど出っ張りのない、シンプルな造りだ。二、三階の窓に、申し訳程度に小さな手摺があるのみである。

 二階の窓が開け放しで、明かりが漏れている。二人はあそこから落ちたのだろうか。三階は真っ暗で、窓も閉まっている。

 一通り調べ終え、神無は何とはなしに大杉を見上げた。梢の向こうに、何かが、ぼう、と光っている。


それは丸く、そして緑色に光っていた。




 亜理麻は神無と別れると、一足飛びに階段を駆け上がった。

まず二階から調べることにする。この辺りの部屋は、他のホテルで言う、いわゆるロイヤルスイートに当たるようだ。廊下の装飾からして、亜理麻たちの泊まっている部屋と大分違う。浴場の真上の部屋は、すぐ見当が付いた。

 亜理麻は、猫のように音を立てず、扉の前に立ち、耳を当て、気配を伺った。無音。人のいる気配はない。

「ちぇ、もう逃げたかー。あるいは三階かな」

 迷っている暇はない。亜理麻は指紋を消さないよう、ハンカチ越しにノブを掴むと、回そうとした。彼女とて、そのくらいの探偵的気配りは出来る。だが、ノブは回らなかった。鍵が掛かっている。

「あれ?ここじゃない?」

 或いは、自殺か事故に過ぎないのか。とにかく、三階も調べてみないと。だが、くるりときびすを返した亜理麻の前に、

「誰だね、君は」

代木エレクトロニクス社長、代木宗一が立っていた。


 結局、亜理麻は、湯殿で見た事────上から男女二人が落ちてきた────だけを告げることにした。泉と神無が知り合いというのは、伏せておく。正直面倒くさいし、変に勘ぐられても困る。

「では、君はその、落ちてきたのが、私の娘だというのか。馬鹿な事を。あれが自殺などする訳がない。それは、この上のフロアの人間じゃないのかね」

「残念ですが・・・ないんです、それは」

 代木宗一が驚いて振り返った。そこには無論、逆姫神無の姿があった。後ろには、真っ青な顔をした、ホテルの支配人が続いている。

「現場で確認してしまいました。あれは、あなたの娘さんの泉さんです。そして、もう一人もあなたの身内、多村城也君です」

「な・・・き、君は一体?」

「逆姫神無と言いまして。泉さんの友人です。半日で終わりましたが」

 また口を開きかけた代木の前で、神無はひらひら手を振った。

「申し訳ありませんけど、あなたと問答している時間も趣味もないのです。もし、これが殺人なら、犯人か、その痕跡がまだ残っているかも知れませんよ」

「さ、殺人!」

 後ろで黙って成り行きを見守っていた、代木の妻、泉の義母の冬子が悲鳴を上げる。神無が頷くと、支配人は、震える手で鍵を開けた。亜理麻が再びハンカチ越しにノブを回す。 

 だが、扉の向こうにあったのは、窓が開かれたままの、無人の部屋だった。窓際には、相方を失ったスリッパが、所在無さげにぽつん、と落ちている。

 結局その日の収穫は、そこまでだった。泉の部屋は、指紋等を荒らさない程度にざっと調べられたが、犯人も、その痕跡も見当たらなかった。念のため行われた三階の調査も、ここ暫く使われていないという、支配人の言葉を裏付けるだけに終わった。

 

   3


「私立探偵だぁ?」

 思い切り胡散臭げな声を上げたのは、ガッツ石松を更に煮詰めたような、濃ゆい初老の刑事だった。黒狸亭で起きた、奇妙な殺人事件(あるいは、事故、自殺)の担当になった彼は、部下と共に今、第一発見者の事情徴収に当たっている。

「はあ。助手とそのまた助手ですけども」

 第一発見者は、のんびりと答えた。殺人事件の第一発見者としての自覚が、皆目感じられない。老刑事は顔をしかめた。どうも苦手なタイプだが、そうも言ってられない。お仕事だ。

「探偵って・・・お前ら高校生だろ。保護者はどうしたい」

「保護者は、迷子と言うか行方不明と言うか」

 神無は、破羽探偵の事を、刑事達に説明した。煮ガッツ刑事は、露骨に疑いの眼を向ける。

「ふん。まあ良いや。それで?探偵さんが、どうしてこんな萎びた温泉地へ?なんかの調査ですかね?」

「え?そんな面倒なことしません。観光ですよ。探偵だって旅行ぐらいしますよ」

 ガッツ似の刑事は、更に疑い深い眼差しを向けた。

「本当か?あんたら、昨日の昼、ガイ者とコンタクトしてるそうじゃないか。大方、荻居アイカの事を知って、探偵の真似事をして嗅ぎまわってたんじゃないのか?」

「はあ。『破羽探偵研究所』は、そういう仕事は専門外です。所長にしてから、現役時代も尾行って成功したためしが無かったそうですから。どちらかと言うと、今回起きた、こういう事件が得意なんですよ。あ」

 第一発見者=逆姫神無の顔がぱっ、と明るくなる。ぱちんと手を合わせ、煮ガッツ刑事に言った。

「いい考えです。この事件、格安でお手伝いしましょう。お役に立ちますよ」

「馬鹿を言うな。本職が素人の手伝いなどいるか!大体お前らだって、一応容疑者なんだぞ」

「えー?何それ。動機がないじゃん」

 これは勿論、神無の隣に座らされていた亜理麻である。神無は彼女の方を振り返って笑った。

「仕方ありませんよ、亜理麻さん。私たちの証言が嘘ということにしないと、犯人の逃走経路がなくなっちゃいますから。事件直後、私は庭、あなたは廊下に直行して、犯人の逃げ道を塞いじゃったでしょ?まあ、五、六分のタイムラグはあるけど、犯人は私たちが目撃したのを知らなかった筈だから、これはかなり苦しいとこです。密室的状況、って事になっちゃいますね。でも、刑事さん、私たちが目撃していなくても、結局変わらないでしょう?だって、扉には鍵が掛かっていたし、窓から逃げても、夕べは、雨上がりで、裏庭はぬかるんでたから、足跡が残らない訳はないですし。やっぱり密室的状況に変わりありません。そうでしょ?」

 刑事は益々煮詰まった顔で渋々頷いた。

「まあな。足跡は、あんたのスリッパの跡しか見つからんかった。だから、警察としても、別に犯人がいるというのは、考えにくいと思っとる。寧ろ、ガイ者の多村城也、コイツがクサいな。女を突き落とした後、自分も後追い自殺、或いは逃げようとして誤って落ちたとか、そんな所だろう。家族は、自殺も殺人も有り得ないなんていっていたが、あの猫の事もあるしなあ」

「猫。あの袋に入っていたのは、やっぱりコリンちゃんでしたか」

「コリンちゃん?なんだか知らないが、荻居アイカ、いや、代木藍華と言うべきか、彼女の飼い猫さ。酷え事するよ、全く。腹んトコに男物の靴跡がくっきり付いてな、内臓破裂だ。おまけに灯油ぶっかけてあって、恐らく燃やすつもりだったんだな。鑑識待ちだが、足跡は十中八九多村のモンだ。連中は、多村は代木藍華にぞっこんで、そんな事する筈ない、ってんだが、多分アレだな、可愛さ余って何とやら、って言う・・・って、おい。何で部外者にこんな事話さなきゃなんねえんだ?他に気付いた事がないなら出てってくれ!」




「やっぱり追い出されちゃいましたね」

「田舎刑事としては順当な判断じゃない?で、これからどうするの?まさか『第一発見者』のままで終わるって手は無いよね?」

「そうですねえ。じゃあ次の手行きましょうか」

「次の手?」

 ガッツ煮刑事に、臨時の捜査本部である応接室を追い出された神無と亜理麻は、神無の部屋にて、作戦会議中である。

「こういう事もあろうかと思いまして。重かったけど、持ってきた甲斐がありました」

 神無が鞄から、どん、と出したのは、ゲーム機程の大きさの黒い機械。怪しげだ。

「・・・・・・神無さん、何それ」

「盗聴器です。旧式だから重くって参りました。亜理麻さん、繋いで貰えますか?」

「何で、そんな物持ってきてるのさ?」

「だから、こういう事もあろうかと思いまして。実際あったじゃないですか、こういう事」

 半ば呆れた亜理麻だが、それでも言われたとおり機械を繋ぐ。神無が少しそれを弄ると、ガッツ煮刑事のだみ声が飛び出してきた。



「おい、杉村。お前、あの小娘ども、どう思う」

 聞いたのは、ガッツ煮こと、芦田寅雄刑事である。彼は、応接室の三人掛けのソファにふんぞり返って、一人で占領している。聞かれたのは浅黒い、如何にも体育会系、といった絵面の、背の高い若い刑事、杉村だ。

 杉村は考えるふりをしながら答えた。

「え、そうですね。眼鏡のほうは結構好みのタイプかな」

「馬鹿かてめえは。そうじゃねえ。シロかクロか、って事よ」

「冗談ですよ。うーん、関係ないんじゃないですか?さっきももう一人が言ってたけど、動機がないですからねえ。証言もホテル側と一致するし」

「ふん。だな。『所長との待ち合わせ』うんぬんてのは、どうも嘘臭ェが。ひょっとすると家出娘かも知れんな。まあ、そういうのは管轄外だし、どうでも良いや。一応洗わせたが、代木との接点は無えみたいだ」



「家出娘だってさ」

「亜理麻さんに関しては、ある意味当たってるじゃないですか。もう随分ご自宅に帰ってないでしょ?」

「ふんだ。ここに来たのは家出じゃなくて旅行だもん」

「はいはい、判りました。それよりも続き続き」



「そもそも、これって殺人なんでしょうか?現場は二階でしょう?一般家屋よりは高いったって、人を突き落として殺すには、低すぎますよ。自殺・・・も無理臭いし、事故じゃないですか、きっと。僕らの仕事じゃあないのでは?」

「しかし、事故にしてもなあ。何だって、二人して落ちたんだ?」

 芦田刑事は、身を乗り出した。声が一段低くなる。

「これはわしの推理だがな、やっぱり多村が臭いと思うんだ。いいか、あの猫の死骸からみて、身内がどう言おうと、多村は代木藍華に恨みがあった、これは間違いねえ。恐らく、言い寄って手酷く振られたか何かしたんだろう。一方の代木泉も藍華は継母の娘だからな、良く思ってなくても不思議じゃねえ。つまり猫殺しの共犯者、って訳だ。で、あの晩多村は泉の部屋に行った。藍華への復讐に付いての話があったんだろう。猫の死骸を持ち込んでるからな。ところが、ここで二人の間に諍いが起きた。理由は・・・よく判らんが、どっちかが手を切りたがったんじゃないか」

「あ、そういえば女のポケットに、白い錠剤が入ってましたよね。ハンカチに包んであったやつ」

「うむ。或いは女が心中を迫ったとかな。男のツラ見る限りじゃ、ありそうにないが、女ってのは判らんからなぁ。兎に角だ、その諍いの挙げ句、多村は泉を突き落としてしまった。でだ、下の風呂場に目撃者が居るとは知らない多村は、廊下から出るより安全と考えて、テメエも窓から飛び降りた。高々二階だ、手摺にぶら下がって飛び降りりゃ、悪くても捻挫くらいだろうからな。ところがどっこい、野郎は焦りすぎた。手摺に足が引っかかって、哀れ頭っからズドン、と・・・こういう筋書きはどうでぇ?」

 一しきり推理を披露した芦田刑事は、得意そうに腕を組んだ。

「そうですね。辻褄は合いますね。あれ?でも目撃者の話では、先に男の方が落ちてきたと・・・」

「・・・それは、アレだよ、その・・・あの娘、眼鏡掛けてたろ。眼ェ良くないんだから、きっと見間違いだ。暗かったしな」

「はあ。あ、そういえば、何で男の方だけ靴を履いてたんでしょうね。ここ、ホテルと言いつつ、土足禁止なのに」

「それは・・・袋か何かに入れて持ってったんだろ」

「でも、それだと計画的犯行、って事ですよね。話するのに靴は要らないし」

「あー、・・・・・・そうなるかな」

「しかし、そうなると、窓から突き落とすっていう殺害方法は杜撰すぎですしねぇ。うーん」

「・・・・・・てめぇ、わしに喧嘩売ってんのか?」

「え?い、いえ、そういう訳では・・・・・・」



「そういやさ、あの若い方の刑事って結構イケメンだったね」

「え?亜理麻さん、ああいうタイプが好みなんですか?」

「そーじゃなくてさ。多分あの人今回限りのゲストなのに無駄にイケメンだなって思って。無駄イケメン」

「どっちかというとその称号は長瀬刑事に似合いそうですけどね」

「あー、確かに。むしろルックスだけならアイツのほうが好みかな。あ・く・ま・で・ルックスだけだけど」

「ん?微妙なガールズトークしてる場合じゃありませんよ。進展があったようです」



 その時、ノックの音が、絶体絶命の杉村刑事を救った。若い刑事が、返事を待たずに入ってくる。

「芦田さん、鑑識の方、終わりましたよ。これ、報告書です」

 芦田は無言で受け取った書類に眼を走らせた。が、

「ああ、くそ、こりゃあ、駄目だ」

「???どうしたんです?」

 無言で差し出された書類に、今度は杉村が眼を通す。

「・・・・・・え?これは・・・・・・どういう事です?」

「どうもこうも、書いてある通りだろ。遺体の頭部には二つとも、大型の鈍器で殴られたと思しき損傷があった。しかも死因はこれによる頭蓋骨陥没。つまり、二人は二階から落下して死んだんじゃあ、ない。落ちてきた時には、既に死んでいた、って事だ。生活反応から考えて、二人は殺された直後に落とされたらしい、だそうだ」

「じゃ、じゃあやはり現場には別に犯人が居たって事ですか」

 会心の推理が空振りに終わった芦田警部は、更に煮詰まった顔で、渋々頷いた。

「残念ながらそうなるな。兎に角、先を読んで見ろ。何か手掛かりがあるかも知れん」

「え、はあ、それでは。まず、遺留品の、例の白い錠剤の成分分析ですが。ブドウ糖、コーンスターチ、水飴、その他酸味料、乳化剤、香料など」

「はあ?何じゃ、そりゃ」

「ええ、まあ、いわゆる・・・ラムネ菓子・・・だそうです」

「ラムネぇ?何だよ人騒がせな。そんな物どうして後生大事に持ってたんだ?」

「さあ?好きだったのでは?」

「やれやれ。いいから次、つぎ」



「あれって、神無さんの?」

「はい、私が彼女に渡したものですね。泉さんが良い夢を見る助けになればと思ったんですけど・・・無駄になってしまいましたね」



「現場と思われる代木泉の部屋ですが、彼女以外の指紋は出ていません。ベッドルームにあった部屋の鍵に付いていたのも、彼女の指紋だけです。その他、犯人の遺留物と思われる物は一切出てません。後、窓の手摺りにもやはり彼女の指紋が出てますね。手摺りは壊れかけていたようですが。小さな手摺りですので、犯人が被害者を落とした時に壊れたんでしょう」

「むう。三階は?一応調べたろ」

「残念ながら、これといって・・・指紋もホテルの使用人のが少し出ただけで、犯人、被害者とも入った痕跡はないですね。ああ、そうそう、あの猫袋に付いた足跡、多村の物と一致したそうです」

「ああ、くそ」

 芦田警部はソファに大の字になって天を仰いだ。

「こりゃ一体全体どうなっとるんだ?犯人の行方も解らなけりゃ、凶器の行方も解らん。おまけに一番解らんのがガイ者だ。携帯電話は兎も角、何で多村は針の無い釣り竿なんか持ってたんだ?おまけにこいつだけ靴を履いて死んでた。犯人が履かせたのか?何のために?」

「あとは、猫の死骸ですか」

「うむ。ありゃ犯人じゃなく多村がやったんだろうが、やはり何でそんな物を持ち込んだのか、解らんなあ」

「その辺は、さっき警部がいってた、ガイ者二人の共謀説が正解では?」

「んん。しかしなあ」

 芦田警部は先程とは対照的に弱気になっている。

「解らんと言えば、そもそも殺人の動機がサッパリ解らんのだ。殺された二人は、そりゃ荻居アイカみたいな、万人に好かれとる、っちゅう人間じゃあないが、といって、殺すほど憎んでいる奴がいるとは思えんのだ、調べた限りでは。特に代木泉の方は身体が弱くて、人付き合い自体、殆どしてない。ホテルの宿泊者も洗ってみたが、怪しいのはあのガキどもぐれぇのモンだ。かといって、行きずりの通り魔的犯行てぇのも相当無理がある。正直、多村がやったんじゃないなら、お手上げだ」

「・・・・・・あっ、警部。強引に解釈すれば、一人だけいますよ。動機が有り得る人物が」

 芦田警部は驚いて、どこから見ても凡人にしか見えない部下の顔を凝視した。

「誰だ?そいつは」

「おぎ・・・いえ、代木藍華です」

「はあ?何言ってんだ、お前」

「だって、代木泉は藍華の義理の姉でしょう?死ねば遺産が増えるじゃないですか。義理の姉妹って、外から見えない確執がありそうですし。あと多村城也は、愛猫の仇、って事で」

「遺産ってなあ、お前。代木宗一はまだ五十代だぞ。そんなのまだ先の話だろ。大体藍華は・・・アリバイ、裏取れたんだろ?」

「はい。何でも犯行推定時刻は、丁度『茶渋の気持ち』の収録中でして・・・・・・」

「何だ、そりゃあ?」

「今度始まる、荻居アイカ主演のドラマです。途中休息も入りますし、四六時中姿を見せてる訳じゃないですが、ロケ地が渋谷ですから、犯行現場に現れるのは、百パーセント不可能でしょう」

「だったら・・・」

「いえ、警部、僕だって代木藍華が殺したなんて思ってませんよ。そうじゃなくて、犯人は代木藍華の為に殺しをしたのでは、って事です。つまり犯人は・・・」

「藍華の実の母親、代木冬子か。だが、冬子は犯行時刻、代木宗一と一緒にいたんだぞ。もし彼女が犯人なら、こいつもグルって事になる。実の娘の殺害に協力するかぁ?それに、冬子が犯人でも、密室状態は変わらんぞ」

「はあ。それはそうですが」

「しかしまあ、あの夫婦、もうちっと調べ直す必要はありそうだな。あとはホテル関係者もな。密室なんて、何のことはない、誰かがスペアキーを持ち出しただけかも知れん」

 そう呟くと、芦田警部は、よっこいしょ、と立ち上がった。

「あの探偵さんに、知恵を貸して貰ったらどうです?最近は高校生だからって、侮れませんよ」

「駄目だ!」

 警部にぎろりと睨まれ、杉村刑事は後ずさった。

「ここを何処だと思ってんだ。伊豆だぞ。温泉地だぞ。温泉地の事件はなぁ、渋ーい中年刑事が、足と人情で解決するもんと決まってんだ」

「或いは、素人のおばちゃんか女子大生ですかね」

「やかましい!どっちにしてもだな、何考えてるか判らねえ、嬢ちゃん探偵なんぞの出番は無えんだ、舐めんなぁ!」



 亜理麻はけらけら笑いながらスイッチを切った。

「無茶苦茶言うオッサンだなー。今回限りのゲストにしとくのは惜しいかも。ねえ、神無さん・・・って何してんの?」

 振り向いた亜理麻が不審そうな声を上げたのも無理は無い。いつの間にか神無は、テーブルの上に沢山の白と黒のブロックを広げ、せっせと何か組んでいた。

「・・・神無さん、何作ってんの?」

「うなぎ」

「・・・・・・ブロックでそんなもの作って楽しい?」

「実を言うとあんまり」

「もう。今の話、ちゃんと聞いてた?」

「聞いてましたよ。耳はちゃあんとそっちに使ってましたから大丈夫」

「ホントに?じゃあ、今の話で何か解った?」

「そうですねえ。犯人と、殺害方法、それに、何故犯人は部屋から消えていたか、位ですか」

 流石の亜理麻もこれには驚きの声を上げる。

「じゃあ、全部解ってるじゃん!今の話に何かヒントあったっけ?」

「面白い事件ですよ、これは。犯人を表彰したい位。でもね、やっぱり彼女を殺されたのは・・・気に食わないんですよね」

 神無は誰に言うとなく呟いた。だがその声は小さすぎ、亜理麻には聞き取れなかった。

「え?何?何か言った?」

 亜理麻が聞き返したときには、神無はいつもの調子に戻っていた。

「あなたもちっとは自分で考えなさい、って言ったんですよ。知性は、使わなきゃ退化しちゃいますよ?」

「えー。んなコト言ったって、判んないよ」

「ですから。一言で言うと、つまりこの事件は『インクレディブルマシーン』なんです」

「いんくれでぃぶる?『信用できない、機械』?何それ」

「解りません?じゃあ、亜理麻さんの為に少し『ヒント』探しに行きましょうか」




 神無が亜理麻を連れてきたのは、例の裏庭だった。大木と館に挟まれたここは、昼間でも薄暗く、実際のところ、夏場以外はあまり散歩道には向いていない。警察の捜査はとうに済んでおり、地面にお馴染みの白い人型がうっすらと残るだけだ。だが、神無はそれには目もくれず歩いていく。

 彼女が立ったのは、あの大杉の前だった。亜理麻の方を振り向き、にっこり微笑んだ。 

 亜理麻は何故だか、嫌な予感がして顔をしかめた。

「亜理麻さん、あなた確か、運動神経には自信ありましたよね?」

 思わずじりじり後ずさる亜理麻。

「えー。どっちかというと亜理麻は箸より重い物持ったことないっていうかー」

「そんなに身構える程の事じゃあありません。ちょっと、この上に上って、そこにある物を取ってきてくれればいいんです」

 そういって神無が指差したのは、やはりというか、杉の巨木であった。


「もう!何さこの展開!わたしの活躍ってココだけ?もっとアクションシーンとか無いワケ?」

 無い。

  亜理麻は文句をたらたら吹き出しながらも、驚くべき速度で大木をひょいひょい登っていく。

「唯一の見せ場が木登りって!どーいう構成だよ!腹立つ〜!」

 亜理麻がそんな風に、正に切れかけたその時、ようやく「それ」が見えた。神無が言ったとおり、それは円形をしていた。色は白、大きさはここからではよく判らない。すぐ上にある枝に引っかかっているようだが、枝が細すぎてこれ以上登るのは不可能だ。

 亜理麻はやむを得ず、枝を掴んで揺すってみた。上手くすればここに落ちてくるかも知れない。

やがて、さしたる粘りも見せず、物体は枝から転がり落ちた。だが。

「!」

 しまったと思った時には、もう遅かった。物体は彼女が伸ばした腕の十センチ先を、真っ逆様に墜落していった。 亜理麻は深い溜息を吐くと、今度はだらだらと大木を降り始めた。


 亜理麻が両手を擦り傷だらけにして、漸く地面に到着したのは、数分の後だ。

 神無はしゃがみ込んで何やら見ている。恐らく例の物体だろう。亜理麻も神無の肩越しに覗き込んだ。

「これって・・・ひょっとして、これが例のUFO?」

 落下のショックで砕けてはいたが、白色をしたそれは明らかにUFOの模型だった。上端には金属のフックがあり、釣り糸が結びつけてある。

「アダムスキー型円盤の夜光モデルですね。ちょっと勿体なかったですねえ」

「ってことは、やっぱし泉さんが見たUFOは代木藍華のイタズラだったんだ。けど、事件との結び付きがよく解らない・・・と言うか、あるの?」

「そう、それじゃもう一度高い所に上がりましょうか」

 神無は立ち上がりながら、先程と同じ笑みを亜理麻に向けた。

「えー!?」

「今度は階段で上がるんですけどね」

 そう言って、神無は今度は無邪気にクスクス笑った。




「え、屋根に上がれる所ですか。ええ、屋根裏部屋が一つありますよ。でも、もう十年以上使ってませんけど。昔は倉庫として使ってたんですがね、場所的に便が悪いから、自然と使わなくなっちゃってね。最近は不景気で、部屋が余っちゃってるしねえ」

 二人は今、ホテルのフロントで、一番年かさの従業員の話を聞いている所である。ホテルの従業員というより、釣堀の親父が似合いそうな初老の男は、二人の質問に、気さくに答えてくれた。

「鍵が無くなっていたりしません?」

「鍵?鍵ならここに仕舞ってある筈ですがね・・・・・・あれ、本当に無いぞ。おかしいな?あんな物誰が持ち出したんだ?」

 神無はそれには答えず、

「その屋根裏部屋、案内して貰えませんでしょうか?」

と、尋ね返した。


 屋根裏部屋へ上がる階段は、館の北東の隅にあった。事件が起こった部屋からは、東に三部屋程ずれた位置になる。階段を上がったそこにもう、屋根裏部屋の扉があった。この階は他に部屋は無い。

 神無が目配せすると、亜理麻はハンカチ越しに握ったノブをそっと回した。

「あ・・・・・・」

 ノブは何の支障もなくすんなり回った。扉がゆっくりと開かれる。

「ありゃ、何でこんなトコに?」

 一緒に付いてきた老従業員が間の抜けた声を上げた。視線の先には、床に無造作に転がった鍵がある。拾おうと、部屋に入りかけた従業員を、神無は手で制した。

「部屋に入るなら注意して下さい。証拠物件を消したら、怒られますよ、きっと」

 言われて彼は初めて気が付いたようだった。がらんとした室内の、うずたかく積もった埃の上に、沢山の靴跡が残っている。亜理麻は既に、床にうずくまって調べている。

「男物の・・・全部同じ靴跡みたい。やっぱり、多村城也のものかな。窓の所に向かってるのが二筋、戻ってきてるのが一筋。一往復半してる。それに、この鍵・・・これも多村が?」

 鍵は、窓へのルートから、やや外れた場所に落ちている。三人は、足跡と鍵を避けて、大回りして窓に近付いた。窓にも鍵は掛かっていない。先程と同じように、亜理麻がそっと開ける。ここの窓は元来、屋根の上への出入り口として使えるよう作られたものらしく、手摺りやベランダは付いていない。そして屋根の上には果たして、多村の物と思しき靴跡が続いていた。昨日中途半端に降った雨のお陰で、事件当時、屋根の上には、流れきれない泥が、うっすらと溜まっていたのだ。

「あれ?屋根の上には、一筋しかないよ?」

 亜理麻が不審そうな声を上げる。確かに、屋根の上にあるのは、窓を出て左、西方に向かっている足跡のみである。窓から身を乗り出してみると、足跡は一本杉の正面、例の泉の部屋の真上辺りで終わり、代わりにそこには、何かを擦ったような跡があった。

「これは・・・多村は泉さんの部屋ではなく、ここから落とされたってこと?いや、けどそれじゃ犯人は二人という事に・・・それは不自然だし・・・それに、凶器もまだ・・・」

 不意に亜理麻の顔に奇妙な表情が浮かんだ。それは、驚愕、当惑、理解、不可解。それらが入り交じったかのような表情だった。

「まさか・・・まさか神無さん、この事件は・・・単なる、不幸な偶然だったとか?」

「・・・・・・そうですね。物理的には、あなたの推理は正解だと思います」

「物理的って?」

「でも、その推理は、誰にも言わないで下さい。今はしっかりあなたの記憶の中にだけ留めておいて下さい。それで充分です」

 亜理麻は、反論しようとして言葉を詰まらせた。神無の左眼に、奇妙な輝きが浮かんでいた。それは憂いとも歓喜とも、全く違う何かとも取れる輝きであった。

 その後の神無は、まるで事件への興味を全く失ったかのように見えた。破羽所長は来そうにないからと、警察からの許可が下りると、直ぐさま荷物を纏めて帰路に就いてしまったのだ。二人が発見した新たな手掛かりは結局、捜査陣の混乱を助長しただけに終わった。


   4


 路地裏を一人の女が急ぎ足で歩いている。

 時は真夜中、場所は新宿歌舞伎町。若い女性が一人で歩く場所ではない。彼女もそれを承知しているからこそ、自然と歩みが速くなるのだろう。

 コートの襟を立て、色の入った眼鏡を掛けているため、女の顔はよく見えない。やがて彼女が足を止めたのは、古びたとある安ホテルの前だった。ちら、と上を見る。電飾の看板は、殆どが壊れていて、「ホ ル竹  」しか読めない。それを確認すると、女はホテルの脇に廻った。

 どこかで猫が鳴いた。

 彼女はぴく、と足を止めた。知らず顔が強張り、白い息が漏れる。耳を澄ましても、聞こえるのは、カラオケスナックから漏れる、酔っ払いのがなり声だけだ。気のせいだったらしい。「あれ」が耳にこびり付いているのだ。・・・猫は嫌いだ。

 彼女が向かったのは、脇の路地に面して、申し訳程度に付いている非常階段だった。しばらく躊躇った後、錆び付いた門を押す。扉はギシィ、と嫌な音を立てて開いた。階段を上っていく彼女の横顔を、ちらつくネオンの明かりが一瞬捕らえる。もしここに、女性週刊誌の記者でも居たなら、狂喜したに違いない。それは、荻居アイカこと、代木藍華の横顔だった。


「ホテル竹姫澱」三〇二号室、ここが藍華の目的地だった。慎重にドアを開ける。その顔には警戒と不審が色濃く現れている。部屋の中は明かりが点いて尚、かなり薄暗い。

その薄暗闇から何者かが声を掛けた。

「隠しカメラも盗聴器もありませんから。そんなに警戒しないで下さい」

 声の主は誰あろう、逆姫神無その人である。神無は正面のオンボロ椅子にぽつん、と腰掛けている。黒いセーラー服の上に白衣を羽織っている。胸には金の鍵のペンダントを下げ、指はそのペンダントを弄くっている。藍華は眉をしかめて言った。

「あなたが逆姫さん?・・・確か、黒狸亭で泉さんと何か話していた方ね」

「良く憶えてますねー。流石です」

「何が流石なのか判らないけど・・・それより何故あの事件を解明するのに、こんないかがわしい場所に来なければならないの?マスコミに見つかったら、格好の餌食だわ」

「しかし、あなたは来ました」

「・・・・・・それは、当然よ。何せ、姉と従兄弟が殺されているんですからね」

「コリンちゃんを忘れてますよ」

「ああ、そう、飼い猫も。兎に角、身内が犠牲になっているんだから、知りたいと思うのは当然でしょう?それにしても、他に誰もいないのかしら?普通こういう謎解きは、関係者全員集めてするんじゃないの?名探偵、皆を集めて、さてと言い、ってね」

「はあ。私はああいうのはあんまり。必要ならやりますけれども。でも、こういう形の方が、お互い都合が良いと思ったんです」

「・・・兎に角、早く始めてくれない?私、そんなに暇じゃないから」

 藍華はコートを脱ぐと、神無の正面に腰を下ろした。神無は考え考え、ゆっくり話し出した。

「さて・・・どこから始めるべきでしょうか・・・まず、一つ確認しておきたいのですが・・・泉さんが見たUFO、あれは、貴女と多村城也君が仕組んだ事ですよね」

 藍華は探るように神無を見つめ、そして言った。

「・・・・・・ええ、隠しても始まらないわね。そうよ。あの子があんまり宇宙人だのUFOだの五月蠅いから、ちょっと悪戯しただけ」

「ふむふむ。成る程。それでは、あの日あなたたちがしようとした事をトレースしてみますから、間違ってたら訂正して下さい。遠慮なさらずに」

 そううそぶくと、返事を待たずに神無は話し始めた。

「えーとですね。まず、あなたたちの悪戯から。えへん。去年までのあなた方の計画は、あなたが泉さんを誘導し、屋根に上がった城也君が釣り竿で吊したUFOの模型を見せる、という単純極まるモノでした。疑うと言う事を知らない泉さんは、その程度でもころころ騙されていました。ところが今年は、少々あなたの方で事情が変わりました。あなたが芸能界デビューなんて事をしたために、計画を若干変更しなければならなかったのです。

「まず、あなたがしたのは、撮影の合間の休息時間を利用して、城也君に合図を送ること。これには当然、携帯電話が使われました。次に、彼が屋根裏部屋から屋根に上がるまでのタイムラグを利用して、今度は泉さんに電話を掛ける。そして、また宇宙人のメッセージが来たとか告げれば、彼女は疑いもなく窓の外を見るでしょう。そしてそれでも見えなければ・・・窓から身を乗り出してでも探すでしょう。彼女はそれくらいあなたを信じ切っていたんです」

 藍華は些か戸惑っていた。逆姫神無とかいう、この少女の意図がどこにあるのか解らない。呼び出しのメール―――あの事件の真相が解りましたから、興味があったらおいで下さい、という―――など、無視した方が良かっただろうか。いや、それは出来ない。出来る筈がない。

「さて、実はこの時点で、既に一つ不可解な事象があります。何故、城也君は、明かりとなる物を持っていかなかったのか、という事です。あの晩は月が出ていたといっても、屋根の上には明かりはないですから、足下は殆ど見えない、かなり危険な状態だったでしょう。にも係わらず、現場からは懐中電灯等は見つからなかった。これについて、納得できそうな答えが一つあります。いや、一つしかない、ですか」

 一区切りして神無は藍華を見つめた。藍華は奇妙な不安に襲われた。どう見ても人畜無害にしか見えないのに、彼女の笑みは、何故か人を不安にさせる。

「それはですね、貴女がそう指示した、というものです。つまり、明かりが見えたらバレる、とか、そういう理由を付ければ、彼は諾々と従ったでしょう?指示したのが貴女なら」

「・・・・・・知らないわ。彼が勝手にそう判断したんじゃないかしら」

「はあ。えーと。私、水掛論は苦手ですので。そう言う事にしときます。兎も角、彼は暗がりの中を、泉さんの部屋の真上までやってきた。恐らく、屋根の端から漏れる泉さんの部屋の明かりを目標にしたのでしょう。ところがそこには、思いも掛けない『先客』がいたのです」

「・・・・・・・・・・・・」

「コリンちゃんですよ。貴女の愛猫が、麻袋に入れられて、灯油を掛けられて、彼の足の下に待っていたんです。コリンちゃんは、この時点では、まだ、生きていた。断末魔の叫びを私が聞いていますから、間違いありません」

 断末魔、と聞いた途端、それまで微笑を浮かべていた、藍華の顔が、ぴく、とひきつった。すっ、と顔を伏せる。

「どうしました?藍華さん」

「いえ・・・・・・何でも・・・いえ、あの、猫のことを思い出して・・・・・・」

「そうですねえ。可哀想ですね。コリンちゃんを巻き込む必要なんて、ホントは無いのに。それでですね、この時コリンちゃんは、睡眠薬を飲まされていたのだと、私は考えてます。警察が司法解剖してくれればハッキリしたんですけどね。他の二人は解剖したのに、コリンちゃんだけしないってのは、明らかな猫差別です。因みに犯人が袋を置いたのは、まだ雨が降っている昼間の内です。犯人の靴跡―――ご丁寧に城也君の靴と同じ物です―――が、屋根裏部屋にのみ残っていましたから。これはつまり、屋根の足跡は、雨で流されたという事実を現しています。そう言えば、あの時の城也君の靴、あなたがプレゼントした物だそうですね?」

「・・・・・そうだったかしら。忘れたわ」

「それは残念です。そして、城也君は、彼が居るべき場所に『何故か』置いてあった麻袋を踏んづけました。コリンちゃんが断末魔の絶叫を上げる。城也君は、驚き、避けようとしてバランスを崩し――袋には灯油が掛かっていました―――転落しました。そして・・・・・・そしてその真下には、窓から身を乗り出した、泉さんがいたのです」

 もう藍華は顔を伏せていなかった。神無の瞳を正面から見据えている。

「凶器がどこからも見つからないのも当然です。凶器は、被害者たちの、お互いの頭蓋骨だったのですから。逆さまに落下した城也君の頭部が、泉さんのそれに激突したのです。犯人も、恐らくここまでは計算していなかった筈ですから、これは偶然でしょう。しかし、仮に頭同士がぶつからなかったとしても、泉さんの方は、必ず頭部に打撃を受ける訳です。身体の弱い彼女は、まず耐えられないでしょうね。そして、まず、城也君が地面に落ち、次いで手摺りに引っかかっていた泉さんが、自重で落ちてきた。それを、私たちが目撃した、というわけです」

 僅かな沈黙が在った。今度は藍華が口を開く。

「・・・・・・随分とユニークな推理だけど、残念ながら大分無理があるようね。そうね、例えば、城也さんを滑らせて落とすなら、単に油でも撒いておけば良いんじゃない?わざわざ手間を掛けて猫を殺す意味がないわ」

 神無は、大袈裟にばたばた手を振った。

「とんでもありません。コリンちゃんこそが、この事件の鍵なのです。犯人には、ちゃんと猫を使うメリットがあったのです、それも三つも。

「まず第一に、灯油の使用目的を誤魔化す、という点があります。もし、貴女が言うように、灯油をそのまま撒いてあったら、それは滑らせるために撒いたのが歴然でしょう。そこで、猫を入れた袋を配する事で、あたかも、猫の死体を焼くために灯油を撒いたように錯覚させた訳です。これが一つ目のメリット。

「次に、愛猫が死ぬ事によって、自分を被害者の側に置ける、というメリットがあります。恐らく犯人のシナリオでは、城也君が泉さん殺害の犯人で、彼自身は事故死、という運びだったのでしょう。結局、あまりに上手く行きすぎて、城也君も他殺、という事になってしまい、殆ど意味がなくなったんですが。そうそう。他に、万が一城也君が生きていた場合に、第三者の犯行にしてしまえる、というメリットもありますね」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「そして、もう一つ。私が思うに、犯人にとって、最も重要だったのはこの理由だったのではないでしょうか。それは即ち、『死の連鎖』です。コリンちゃんは城也君に踏み殺され、城也君もまた、コリンちゃんを踏んだ事で死への落下をする。更に落ちてきた城也君の身体が泉さんを殺し、それにより城也君も死に至る。言わばこの事件は、死を使った、『信じられない機械インクレディブル・マシーン』だった訳です。アメリカのカートゥーンとかにあるでしょう?スイッチを押すとボールが転がり、それがシーソーを押し上げ、シーソーに連動していたドアが開き、中からネズミがチーズ目掛けて走り出す。そのネズミには紐が付いていて・・・そういう日用品の組み合わせで動く、ナンセンスな装置の事ですよ。藍華さんには説明するまでもないですか」

 神無は長い話を終えた。藍華は未だ、仮面を外してはいない。無論、神無も。

再び藍華が沈黙を破った。

「馬鹿げてるわね。そんな仕掛け、上手く行くかどうか、全然判らないじゃない。猫の入った袋を城也君が踏むとは限らないし、踏んだとしても必ず滑り落ちるとは限らない。落ちたとしても、必ず泉さんにぶつかる訳じゃないし、ぶつかったって、必ず死ぬって訳でもない。そんな不確実な方法で人を殺そうとする人がいるかしら?」

「確実に相手を殺したいなら、選択しないでしょうねえ、こんな方法は」

「だったら・・・・・・」

「これはつまり、犯人にとって、被害者たちの生死はさして重要ではなかった、という事です。犯人にとってこの犯行は・・・単なる、ゲームか、運試しか・・・そんな程度の物だったのです。ですから、幾ら警察が、必死になって二人に恨みを持つ人間を探しても、そんなものは見つかる筈がないのです。泉さんにも、城也君にも、コリンちゃんにも、犯人は何の恨みもなかったのですから。・・・・・・さて、そうなると犯人は誰でしょうか。第一に犯人は、被害者たちが生きてても死んでも、どちらでも良い人物。第二に、被害者たちに完全に信頼されている人物。第三に、事件当時、完全なアリバイがある人物。この条件に当てはまるのは、藍華さん、貴女しか居ないみたいなんです」

 藍華は、す、と立ち上がった。神無を見下ろすその顔には、まだ微笑が張り付けられている。

「あなたのお話、思ったより面白かったわ。でも、もう行くわね。ほら、私忙しい身だから。それって、証拠は何もないんでしょう?」

「そうですねぇ。貴女は何も証拠を残しませんでした。それが、貴女の唯一の失策です」

「仰る意味がよく判らないけど。それじゃあ、さよならね。もう会うことはないわね、多分」

そう言って、藍華は自分のコートを掴み上げ、背を向けた。神無は黙ったままである。

 扉に手を掛けた所で、藍華の動きがふと止まった。背を向けたまま、話し始める。

「探偵さん、あなた、スタアになるための一番重要な素質、ってご存じ?」

「・・・・・・う〜ん。妥協でしょうか」

「はあ?良く判んないけど、違うわね。それは、『天運』よ。全ての出来事が自分の望む方へ動く、何か計画すれば、思った以上に上手く行く、そういう天運の持ち主こそ、スタアに相応しいの。そうでしょ?」

「・・・・・・では藍華さん、あなたは探偵と名探偵の定義の違いを知っていますか?」

「さあ?何なの?」

「探偵とは、プライバシーという名の扉を開けるのが仕事です。対して名探偵とは、物語という名の扉を閉める事が仕事なのです。全部受け売りですけど」

 藍華は振り返った。その顔には、嘲笑と言っていい笑みが浮かんでいる。いつもテレビに映される、荻居アイカの笑いとは明らかに別種の、それは醜いと言ってもいい笑みだった。

「そうなの。でもそれじゃ、貴女は名探偵とは言えないんじゃない?だって証拠がなくて、犯人は捕まりませんでした、じゃあ、物語は終われないものね。じゃあ、今度こそ本当に行くわね。次の仕事が入ってるの。あ、そうそう、一つ言っておくけど、私、親戚に警察のお偉いさんもいるのよね。証拠もなしに警察に出鱈目言ったりしないでね。それじゃ、ご機嫌よう」


 藍華は上機嫌だった。初めあのメールを見たときは、何かミスをしたのかとぞっとしたが、やはり杞憂だったようだ。当然だ。私の前には、常に輝く道しかないのだ。

 彼女は来たときと同じように、非常口から非常階段に出た。室内の薄明かりに慣れた目には、闇が更に深まったように見える。思ったより長居してしまった。早く帰らないと、マネージャーが五月蠅い。いっそ、あのマネージャーも殺しちゃおうかしら。藍華は、階段に足を踏み出した。その時、


 猫が、絶叫した。


 藍華には、何が起こったのか、判らなかった。

 足の下に何かいる。

 足下から発せられたその声は、確かにあの夜、彼女が携帯電話ごしに聞いてしまった、あの声だ。

 コリンの断末魔。

 間の抜けた城也の悲鳴。

 そして二つの頭蓋骨がぶつかる鈍い音。

 何も考えられなかった。藍華は踏みそうになった「それ」を避けようとした。身体が宙に浮く感覚。


 私が殺したんじゃない。私は、餌に睡眠薬を混ぜ、袋に入れて灯油を掛けただけ。直接殺したのは、城也の奴だ。猫なんか嫌いだった。あの日のために飼っていただけだ。懐いてはいたが、本当に可愛がっている訳では・・・なかった。


 彼女が、自分が階段を転がり落ちていると気付いた時には、目前に踊り場の床が迫っていた。


 

 非常階段の上に、神無が現れた。階下で最早動かない、藍華を見下ろしている。

 と、階段の手すりをひょい、と乗り越えて、小柄な影が現れた。

 亜理麻だ。

 黒い、身体のラインがくっきり出るようなスーツを着て、頭には何故か、猫耳カチューシャを付けている。神無が上から声をかける。

「亜理麻さん、大丈夫ですか?しんどかったでしょ?」

 亜理麻は首をふる。

「別に。裏っかわにブラ下がってただけだし。神無さんの役に立てたなら良いよ」

 視線を、階段の下に移す。

「死んだの?これって、私たちが殺したことになるのかなぁ?」

「まさか。これは事故でしょう。藍華さんは勝手に何かに驚いて転落しただけです。それに、藍華さんの言葉を借りれば、こんな方法で人を殺そうとする者がいるわけありません」

「ふーん」

「それにね、私たちが何もしなかったとしても、恐らく同じことですよ」

  亜理麻は、きょとんとして、真っ赤な、丸い眼で神無を見返した。

「へ?それってどういう事?」

「犯人は・・・藍華さんは何も証拠を残さなかった。そう、確かにその点で彼女は完全だった。けれどそれ故に、この物語は犯人の自滅を持ってしか終わらなくなってしまった。それが・・・それが、藍華さんが犯したたった一つの失策です」

 階下の藍華は何も語らない。それを見下ろす神無の瞳は、どこか悲しげで、どこか怯えていて、そしてどこか冷たい光を帯びていた。


 亜理麻が、くしゅん、と小さなくしゃみを放つ。

「あー。すっかり身体冷えちゃったかも」

「そうですね。では、どこかでラーメンでも食べてから帰りましょうか」

「うんうん!それ良い!」

 跳ねんばかりに喜ぶ亜理麻を見て、神無の顔に微笑みが戻る。


 そして二つの影は舞台から姿を消す。


 後に残るのは、もの言わぬ躯のみ。


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