彼女のエンゲージリング
オシャレな雰囲気が漂う喫茶店のテーブル席で、二人の女性がコーヒーを飲んでいた。
一人は赤いスーツに身を包んだ美しい女、楓。
もう一人は地味な服装をした目立たない女性、美智子である。
彼女らは学生時代からの友人で、互いに都合がつく日はこうして、お茶をしたり食事をしたりする。その時に提供される話題のほとんどは、近況報告か学生時代の思い出である。
だが楓も美智子も、その時間を退屈だと思ったことは一度もない。ただのんびりと、友人と他愛もない話ができる時間を、二人は何よりも大切にしていた。
しかし今日の二人の話題は、いつもより華々(はなばな)しいものだった。
ちびちびとコーヒーを飲み続ける美智子をよそに、楓はとあるものに夢中になっていた。
「良一君がくれた婚約指輪……。大事にしなきゃ」
「……そうね」
指輪がハメられた左手の薬指をみつめたまま、楓がうっとりとした表情で言う。それを半分以上、聞き流すように美智子がうなずいて答える。
彼女らがこの会話を交わすのは、本日三度目のことであった。
良一君とは、楓と美智子にとって共通の知り合いである。
三人が知り合ったのは、一昨年の秋ごろ。当時、楓と美智子が行きつけにしていた居酒屋でのことだ。
楓がすっかり泥酔していたところを良一が、美智子とともに介抱してくれたのだ。
それから三人はすっかり意気投合し、あっという間に酒飲み友達になった。
時には飲む酒や店を変え、数軒の居酒屋をはしごすることもあった。その度に楓は酔いで倒れ、美智子と良一は苦労したものだ。
親しみやすく朗らかな性格の良一に、楓はいつしか恋心を抱くようになった。
そして今年の春先、良一たちはとうとう婚約を誓い合ったわけである。
現在は五月の中旬、挙式は六月――憧れのジューンブライド――にあげる予定になっている。
「……ねえ、美智子。聞いてる? 元気ないわねえ」
ぼんやりとした美智子をとがめるように、楓が声を高くした。
そうしたら美智子は「ああ」とだけ、気のない返事をする。
「ごめん、なんか妙に眠くって……。で、何の話だっけ?」
さっきからずっとこの調子だ。そんな美智子の様子を、楓は微笑ましそうに眺めた。
「美智子、五月病じゃない? でも五月病なら結婚式までには治るわね、良かった良かった」
楓は改めて、細く白い指を彩っている指輪を鑑賞した。シンプルな型だけれどその輝きは上品で、良一のセンスが光っている。
あっけらかんとした楓に、美智子は少しだけ顔を歪ませた。
「いいよね楓は能天気で。少しはこっちの身にもなってほしいよ」
美智子は吐き捨てるように言って、空になったコーヒーカップを机に置いた。
「楓のしあわせ夢見気分を、ぶち壊すようで悪いけど。……結婚って、そんなにいいものかな? 籍入れて苗字が変わって、ただそれだけのことじゃん。それなら普通の恋人同士のままでも、別にいいんじゃない? あたしが言うのもなんだけどさ」
普段の、温厚な人柄の美智子からは考えられないような発言が飛び出す。その瞳にはどこか疲れの色が見え隠れし、心なしか顔も青白い。
楓は夢が覚めたように、表情を曇らせた。
「ごめん……。あたし、美智子の気持ちを考えてなかった。そうだよね、美智子は五月病なんかじゃなくって。
マリッジブルーなんだよね。良一君との結婚が迫ってるから」
楓がそう呟いたのと、美智子が意識を失ったのは同時だった。
周りの席からみれば、美智子は机に顔を伏せて眠っているように見える。だが、彼女の口と鼻からは息遣いひとつ感じられない。
楓はそんな美智子に動じることなく、さっきと変わらぬ口ぶりで話し続ける。
「ねえ美智子。私が良一君のこと好きだったなんて、知らなかったでしょ? そりゃそうよね。あたしは酒を飲むと、いつもすぐにダウンしちゃう。だから良一君に負ぶってもらうことができる。――でも同時に、美智子と良一君が二人っきりで話す機会もできてしまう」
美智子の唇を軽く撫でながら、楓は愛おしそうに微笑んだ。
「私を家に送り届けたあと、あなたたちは夜の街に消えていたのかしら? そのやせ細った身体で、良一君と一夜を過ごしたのかしら? 舌の感覚がなくなるほど、二人はキスをしたのかしら? ――毒を入れたコーヒーの味が、分からないほどに……」
楓は最後に、自嘲的な笑みを浮かべた。そして迷うことなく、美智子の左手の薬指にはめられた指輪を、もぎ取った。
楓は美しい指輪を、そっと自分の指にはめてみた。
さきほどまでずっと、手の届かないところにあった指輪。
美智子の細く白い指にはめられた姿を、ただただ見つめることしかできなかった指輪。
良一が美智子に送った、愛の指輪。
左手の薬指に指輪をした楓は、静かにその場を後にした。
――そして二度と、三人が笑いあって酒を飲む日は戻らなかった。
『指輪がはめられた左手の薬指をみつめたまま、楓がうっとりとした表情で言う』
……つまり楓は、美智子の指にはめられていた指輪を見つめていただけでした。
分かりづらかったら、申し訳ありません。