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待ち人

作者: さらさら

 二一七二年、冬。人々は、地球放棄作戦を実行に移した。

 今までにない日照り。降り注ぐ太陽光線は、ここ二年の中で数回遮られただけである。地球温暖化が進むに連れ、雲が発生しても、すぐその場で雨と変わってしまうようになった。かつての湿原はただの草原となり、かつての草原は砂漠と化した。疫病が蔓延し、徐々に荒廃の兆しをあらわにし始めた地球を、人々は放棄して遥か宇宙の高みへ希望を預ける事にした。

 今日はその、最後の夜だった。俺は、宇宙での生活をできるだけましな物にしようと、もはや人も数人しか歩かないようになった大通りの、立地の良いデパートを目指して夜道を一人進んでいた。ここ半年ほど続いている星空は、街の日が完全に消えた今日になって、よりその輝きを増したようだった。その光景を美しいと思う事自体、地球を離れたくないという思いの表れだ。だけれども、地球規模の干ばつを、俺に何とかできる筈もなく、結局は諦めて宇宙へ飛び立つ船に乗り込む事になるのだろう。地球はもはや、どうしようもなくなっていた。

 交差点を、右に折れる。一年ほど前に一度来ただけだったが、俺の目指すデパートは当時そのままの形で俺の目の前に現れた。去年には、さすがにもっと人が居たものだが、今日はたった俺一人である。通電を止められたデパートの自動ドアを手で強引に開いて、中へと入った。

「いらっしゃいませ、お客様」

 懐かしい声が、館内の闇に響いた。

「何をお探しでしょうか」

「ワインだ」

 繰り返すが、この場には俺一人しか居ない。今、俺の前でお辞儀をしているのだろう彼女は、人間型の自律ロポットである。八年前に開発され普及し、感情のあるロボット、人間らしいロボットとして一躍名を馳せたシリーズの、比較的新しいタイプの物だ。言語の流れが人間に近く、思考パターンも好感を持たれる内容だった為、二年前にこのデパートが集客目的で購入したのだった。去年は彼女を見にはるばる来たのだが、想像外に少女っぽい見た目を違和感のない動きに、技術の発達の恐ろしさを思い知った記憶がある。まず、初対面なら、彼女がロボットであるとは見抜けないだろう。

「ワインですか、良いですね。ワインでしたら、ここから見える九番の、酒類コーナーに並んでおりますよ」

 店内は、入り口も暗闇なら奥も真っ暗闇で、何も見えはしない。ロボットは、何とか見える顔形と輪郭から想像するに、笑顔を見せているようだ。ジョーク機能は、多分付いていない。

「何も見えないが」

「あの、レジがございます左手の、奥の方になります」

「何も見えないな」

 ロボットには暗闇も関係ないのか、まるで明るい店内を紹介するような手振りで、虚空の黒い空間を指し示した。依然、闇の他は何も見えない。

「では、私がご案内いたします。お手をお持ちして構いませんか?」

「ああ、頼むよ。君と違って俺は、光がないと何にも見えないんでね」

 ロボットの少女は、表情を驚きに変えた。ある時、感情のあるロボットを作り出すのは、禁忌として扱われたクローン技術を用いるのと変わらないのではないか、という疑問が呈された。結局、あくまで感情があるように振舞っているだけだ、という回答で事は済まされたのだったが、そんな現代科学の結晶を、こんなにも暗い中で見るのでは、なるほど人間と変わりがないと俺には思われた。現実、俺は彼女がロボットなのか取り残された人間なのか、分からなくなりつつあった。

「も、申し訳ありません。現在、視界機能に障害が発生しておりまして……。皆様の感覚に慣らして言えば、失明なのでしょうか。お客様、もしかしますと停電なのですか?」

 少女がそう言って深々と頭を下げるのが、ようやく闇に慣れてきた俺の目でも捉えられた。

「ああ、そうさ。何だい、知らなかったのかい」

 俺は、彼女に手を差し出しながら、そう言った。たとえ盲目であっても、この暗闇では俺よりずっと頼りになる。

「なんせ、何も見えませんので……そうですか、電気まで止まっちゃったんですね」

 しかし少女は、一向に俺の手を掴もうとはしなかった。何故だろうか、と考えると、答えは思いの外近くにあった。

「手、掴むぞ」

 俺は、少女が前に組んでいる内、上に重ねられた右手の方を掴んだ。その瞬間、もはや人間だとしか思いようのない温もりが、俺の左手に伝った。

「あ、ああっ、申し訳ありません、お手間をお掛けしました」

 器用に右手をひねらず頭を下げて見せる少女に、俺は笑った。彼女には、何も見えてはいない。彼女の記憶にあるのは、店内地図情報だけであった。




 暗い店内を、少女は何の戸惑いもなく歩いていく。ロボットだから当然ではあるのだが、全く光の届かない前方を見つつ、時に俺を気遣いもしながら歩いていく輪郭は、俺が感じさせられていた彼女の人間らしさには、全く符合していなかった。

「こうして歩きますと、二年前の事を思い出してしまいます」

 少女はしかし、そんな違和感を上回るほど流暢に、そう話し掛けてきた。

「あの頃は私も新人でして、売り場の品物を、ちょうど今のように手を繋いで頂いて、紹介して貰ったんです。皆さんも、私の事を可愛らしいと褒めて下さって……。そう言えば、お客様にとって私は、いかがでしょうか?」

 やけに饒舌な機械少女は、どうやら情報管理能力に致命的な欠陥を抱えているようだ。

「暗すぎて、よく見えないな」

「……そ、そうでしたね。申し訳ありません、大変な粗相をしてしまいました」

「いや、そんな程でもない」

 ただ、自分の足さえ見えない暗中では、少女の声はほんのりと道を照らす誘導灯のように思えた。

「ワイン売り場は、こちらになります。暗い中ですが、どうぞごゆっくりお探し下さい」

 少女が立ち止まって指し示したらしいそこは、やはりただの暗闇だった。これでは、探すも何もない。俺は、とりあえず手を伸ばした。

「ショーガラスがございますので、お気をつけ下さいね」

 俺がショーガラスに指を激突させてから、少女は場に合わず明るい声でそう言った。

「取っ手は右にございます」

「……ああ、どうも」

 本来の俺の性ならまず怒る所だったが、ロボットに怒っても詮無い事である。

 手探りでショーガラスを開けてみたが、もちろん中にワインが並んでいるかどうかすら分からない。俺はとにもかくにもと思って、適当に三つほどのボトルを外に出してみた。

「これは、どうして買えばいい?」

「現在は、停電状態にあります。従って、レジは使用できないと予想されますので、私に付属しているレジスタ機能をお使い下さい。私の全部分が読み取り機能を備えております」

「ほう。それは高機能だな」

「ありがとうございます。えへへ、ちょっと自慢なんです」

 目の前で少女がはにかんだ。ように俺には思えた。少なくとも、こんなにも嬉しげな声は、近頃では初めて聞いた。

「2162年物の、スティルワインと思われます」

 バーコードの位置が分からず、手間取りながらやっと読み取らせたワインのかなり大まかな情報が伝えられた。

「ブランドは?」

「サーバーが応答しませんので……。ローカル情報のみでは、これが限界です。申し訳ありません。価格は、900mlで五千五十円です」

 さっき褒めたのを取り消したくなった。ただ、ちょうど探している価格帯のワインだったので、手元に残しておく。

「スティルワインがお好みですか?」

「ああ。まあ、ワインと言ったら、普通はこっちだろう?」

 二本目のボトルは一本目と同じものだった。これも購入ストックに入れ、三本目のバーコードチェックに移ろうとする俺に、少女は話し掛けてきた。

「お客様は、ワインがとてもお好きなんですね。最近はシャンパンばかり売れて、寂しいと店長が言っておりました。店長さんは、無類のワイン好きでしたから」

「ロボットは、酒は飲まないんだよな」

「いえ、飲む事は可能です。ですが、味は分かりませんので、お客様がお考えの通り、どちらが良い、どちらが悪い、というのは、銘柄の過去の実績からしか判断できません。ですから、正直な思いを申し上げますと、少し羨ましかったりします」

 三本目のバーコードは、ちょうど少女がそう言い切ったと同時に読み取られた。

「2163年産の……ああ、これは分かります。当デパートの誇りをもってお薦め致します、フランスのシャトーマルゴー、当たり年と呼ばれた2163年産でも群を抜いて香りが良いワインです」

「……それは、中々だな」

 俺はそう言いながらも、マルゴーのボトルをそっと元の陳列棚に戻した。シャトーマルゴーの当たり年ともなると、価格は十万円を軽く超えかねない。

「戻してしまわれるのですか?」

 何も見えていないはずの少女は、残念がると言うより不思議がるような声色でそう尋ねてきた。

「シャトーマルゴーは味も良く、店長さんもたくさん褒めておりました。店内の商品は、実は従業員の皆さんがほとんど持っていってしまったんですが、この2163年のシャトーマルゴーだけは、店長さんが、ワイン好きの誰かが来店するかも知れない、と置いていった商品なんです」

「だが、価格がな。俺には、そんな持ち合わせはない」

 俺は、ショーガラスを閉じた。どこかが錆びているのか、閉めるのには開けるのより、四倍ほどの力を要した。

「……お客様。では、私のお願いを聞いて頂けますか?」

「藪から棒だな」

 立ち上がろうとする俺を、少女は実に少女らしい非力で押さえ止めた。どうしても、俺にマルゴーを買わせたいらしい。

「デパートの六階は展望フロアになっておりまして、この時間ですと豊かで美しい夜景をご覧頂けます。ぜひ、足をお運び下さい。そうしましたら私は、私の中にある三十万円の電子キャッシュをお貸し致します」

 俺は、言葉を失った。展望フロアに上がる事と電子マネーの貸与との関連性もよく分からなかったが、何より彼女に、今だ街の灯が消えてしまったとの認識がない事が、驚きだった。また俺は、あえてそれを少女にもう一度伝える残酷性を持ち合わせていなかった。

「それなら、一度見てみるかな」

 告白すれば、俺は確かにマルゴーにも心惹かれていた。しかしそれ以上に、ただのロボットである少女の明るい声が沈んで絞れるのが怖かったというのも、紛れのない事実であった。

「ありがとうございます! 百万ユーロの夜景と喩えられた景色を、存分にお楽しみ下さい」

 そして予想通り、少女の笑顔の花は綺麗に咲いた。俺は、分かった、と頷いた。

「また、私の右手をお掴み頂けますか?」

 俺は、ほとんど視界情報が無い中で、恐らくそこに差し出されているだろうと思った空間へ左手を伸ばした。指と指は、思わず簡単に触れあった。

「では、行きましょう。未会計の商品は、そのままここに置いていって下さいね」

 少女の言葉と共に、俺の左手がそっと引かれ始めた。




 通るのは二度目の店内通路でも、暗闇に慣れる事はなく、俺はただ少女の声のする方に引かれながら、歩いた。少女はここでも、六階の展望フロアについて自慢話とも取れる紹介を続けた。

「展望フロアは、連続で三週間の来場千名を達成した事もございまして、当デパートの目玉となっております。私は残念ながら一階担当であまり行く事はないのですが、何度か店長さんに連れて頂いた時には、地上を彩る無数の光に感動したという記憶がございます」

 その声は、弾んでいた。決して冷たいロボットが事務的に紹介するような物ではなく、ごく人間らしく自分の好きな物を知って貰おうとするような、そんな色をなした声である。そしてそんな声に誘われて、俺の心も久しぶりに弾んでいた。

「残念だな。目、見えなくなって」

「はい。ですが、記憶にはちゃんと残っておりますので、大丈夫です。店内の地図の情報もありますし、ぶつかったりは致しません」

「そっちは心配してないが」

「ありがとうございます。……ここから階段になります。お足下、暗いですから、十分にご注意下さいね」

 エレベータは無論の事動かない。それは理解しているようで、少女は自分が先に一段上がって階段がある事を知らせてから、そう俺に注意を促した。

「六階までは、どのぐらいあるんだ?」

「全部で二百七十段ございます」

 一段一段上っていく。闇の中で歩く階段は、想像するよりもっと怖い物だ。だからこそ、尚の事、全く何のためらいも無く進んでいく少女の存在は、やはり異質に思えた。俺と少女との境界線は、ただその一点のみのようだったが、その一点が途方もなく高い。手の温もりも、明るい声も、その線を掻き消してはくれない。弾んだ心は、一斉に沈んだ。

「この階段も、何度も上りました。店長さんは時々、この階段の八階の踊り場で一夜を過ごす事がありまして、その時には店長さんを起こしに階段を上るのが、私の一日で最初のお仕事でした」

「八階に、何かあるのか?」

「何もございません。ですが、従業員の皆さんと店長さんが、よく八階の踊り場でお酒を飲んでおりました。私も、時々には参加しておりました」

 暗い四角の螺旋階段は、俺の位置感覚を麻痺させるのには十分だった。俺は、今自分がどんな高さに居るのか分からないままに、少女の話を聞いていた。

「六階に着きました。左へ曲がりますので、お気を付け下さい」

 二百七十段は、ほんの三分ほどで終わった。少女に引かれるがままに左へ曲がると、たくさんの椅子が並べられた展望スペースが目の前に現れた。椅子を、フロア全体を照らす月光の薄明は、さっきまで殆ど見えていなかった少女の姿を、暗闇に浮かび上がらせた。

「心行くまで、ご堪能下さい」

 少女は、やはり少女だった。俺は、薄汚れてはいる物の、少女にしか見えない彼女の姿を、まじまじと見つめた。

「百万ユーロの夜景。皆様にそう呼ばれます理由は、光がどこまでも遠くに続いて、遥か彼方ヨーロッパまで届きそうに思えるからでございます」

 もちろん、街に灯はない。暗闇に浮かぶのは、月と、たくさんの星だけである。

 だが、少女は、俺に背を向けながら、続けた。

「どうか、じっと見つめて下さい。そこには、光があります。輝ける、灯りがあります。私は、目が見えません。ですが見つめれば、確かに、そこに光はあるのです」

 少女は、自らの記憶を辿っているようだった。真っ暗な街並みを見下ろしながらも、俺は小さく溜め息をついた。盲目であるだけでなく、ロボットである故に、俺が取り残されているのに、彼女は気付いていなかった。

「……どうですか、お客様。当デパートの展望フロアからの眺め、お気に召したでしょうか?」

「ああ」

 俺は、少女の問い掛けに、生返事をするよりなかった。

「そろそろ、閉店時間三十分前になります。私のわがままに付き合って下さったお客様に感謝を申し上げると共に、三十万円分の電子キャッシュをお貸し致します。一階に、戻りましょう」

 差し出された右手を、俺は左手で掴んで握った。




 下りの階段は、上りにも増して恐ろしい物だったが、先を行くロボットの確かな足取りに支えられ、少しずつながら下りていった。

「お客様。大丈夫ですか?」

「あ、ああ。もうちょっとゆっくりにして貰えると助かる」

「はい、かしこまりました」

 くすくす、と笑いながら言うロボットは、やはり確かに少女のようだった。少女のようなロボット、それで良いではないか、と俺は考えつつあった。彼女は確かにロボットだが、同様に人らしいのも確かなのだった。

 また、上りと同じ様に現在地点が分からなくなった頃、少女は話を始めた。

「でも、嬉しかったです。今日は、朝にもお客様がお一方いらしましたが、展望フロアは夜景専用でお見せできませんでしたので……。明るいこの町を象徴するようなあの夜景を、どなたかに見て頂きたかったんです」

「よほど、好きなんだな」

「はい、それはもう。私は、ほとんどこのデパートから出ませんので、街の灯は憧れでした」

 少女は、あの展望スペースの事に話が及ぶと、途端に声を明るくした。無邪気な子供のように、担当でもないのに展望スペースの自慢を並べていく。

「憧れ、か。外に出れば良かったんじゃないか?」

「そうは参りません。私は、当デパート唯一のロボットですから。……一階に着きました。右に曲がりますので、お気を付け下さい」

 俺は、少女の手に引かれて、右へと進路を変えた。

 三度目に通る店内通路を少女に連れられ進むと、一言も発さぬままにさっきのワイン棚に戻ってきていた。少女は、手を離した。

「では、お会計を致します。スティルワインが二本で一万飛んで百円、シャトーマルゴーが一本で二十八万円です。合計して、お支払い金額は二十九万飛んで百円となります。全て、電子キャッシュでお支払いされますか?」

「ああ。そうしてくれ」

「かしこまりました。……あの、一つ、良いですか?」

 少女は、これまでにない砕けた口調と語調で、俺の両手を掴んだ。温かく、柔らかい。俺は、暗くて見えない少女に、向き合った。

「何だ?」

「私のバッテリはあと四時間でエンプティ、空になります。充電はできません」

 少女の声は、許可を求めた声と違い、平坦だった。そして俺は、早くも掛ける言葉を失った。

「本当は起きたまま、皆様のお帰りをお待ちしたいんです。でも、私は、先に眠ってしまいます。申し訳ありません。皆様を待つ誰かが、必要だと分かっているのに、私は、待てないんです」

 突然始まった少女の独白は、至って平静な語気で行われた。それを最初は機械的だと感じたが、じきにそれが、少女の抑えた声と同じだと感じられるようになった。

「申し訳ありません」

 尚の事、俺は言葉を失った。少女はしかし、そんな俺の様子を気にも留めない風で、同じ内容を繰り返した。

 何故、彼女は謝るのか。応える言葉が俺にないのは、俺が少女に免罪を与える立場にないからではないのか。俺は、暗闇に少女の涙を見出そうと、じっと目を凝らした。だけれど、暗闇ゆえではなく、涙は見えなかった。少女は泣いてはいなかった。

 電気が止まったのも、人々が宇宙へ飛び立つのも、飛び立たざるを得なくなったのも、果ては彼女がここに居るのも、全て人の都合であった。更に言えば、帰還予定など人々にはない。

「……もう、閉店時間が近いです。ご購入された商品を袋にお入れしますので、サービスカウンタまでお越し頂けますか?」

「いや……。袋は要らないよ。両手を使えば何とか持てる」

 マルゴーを少女の左手に預けて、俺は右手にボトルを二本掴んだ。

「了解致しました。では、お出口までご案内致します。お手数をお掛けしますが、私の右手をお掴み下さい」

 少女は、また俺の左手を引いて、闇の奥へと足を伸ばし始めた。




「では、またのご来店をお待ちしております」

 少女は、月に照らされた手を前に組んで、自動ドアの向こうから俺にお辞儀をして見せた。俺はそれに手を振って応えながら、もう誰も居なくなってしまった大通りへ、独り左折した。

 少女は、少女ではなかった。人とは違う。人は、暗闇をああも躊躇いなくは歩けない。人は、待っては居られない。人は、何も見えない街並みに、光を見出さない。

 夜空の星は、心なしか輝きを失ったようだった。他に見る物もない俺は、ただ夜空を見上げて歩いていた。これからはあの星が、ずっと近くなる。だが、この景色からは、ずっと遠くなる。遠いのは、距離だけの問題ではない。もう帰ってはこないのだという強い決心が、この景色からの永遠の別離を意味しているのだ。

 俺は、立ち止まった。空を裂く轟音に、気が付いたのであった。音は、どんどんと近付き、ある時俺の視界から夜空を掻き消した。小型戦闘機のような飛行物体が、赤々と炎を上げながら、急速にその高度を下げてきていた。その眩しさに目を閉じた俺の後ろで、恐ろしい爆発音が鳴った。

 振り返り開かれた俺の目に映ったのは、デパートの根元の方から照らされ見える、デパートの四階ほどを立ち上っていく煙の色だった。

 無我夢中に、俺は走り出した。大通りを右に曲がると、さっき出てきたばかりのデパート一階に戦闘機がその機体を突っ込ませているのが見えた。デパートはそして、燃えていた。全て割れてしまった自動ドアをくぐり抜け、俺は少女の、ロボットの姿を探した。

「お……きゃ、客様……」

 そしてその姿は、戦闘機に下半身を押し潰された状態で見つかった。

「ど、動力が、あんて、安定致しま……致しません」

「……どうすれば、どうすれば良いんだ」

 飾る言葉も無く、俺は心に浮かんだ言葉を口にした。

「待つ……事も出来ず、壊れ、てしまい、ました。申し、申し訳ありませ……ん」

 ロボットは、中の導線が剥き出しになった右手を何とか起き上がらせようと試みながら、拙くなった言葉でそう言った。

 その様子を見て俺は、マルゴーのボトルを、彼女の左手に持たせた。

「預ける。必ず、戻ってくる。戻ってきて、あんたを治して、それからマルゴーを受け取る」

 俺はついに、“人間”を捨てた冷静さで、火花を上げる少女の左手にボトルを置いた。

「了解致しま……致しました。……ひと、一つだけ、良いですか?」

 もう、少女の声は少女の音をなしていなかった。合成音声とすぐに分かるような、不安定な声。だが俺はその声に、少女性以外の何も感じはしなかった。

「お客様にと……とって、私は、いかがだったでしょ……でしょうか?」

「……ああ、可愛かった。とても」

「そうですか……。ありがとうござ……ございま……ご……」

 ロボットは、動作を停止した。




 大通りは、何事も無かったかのように静かだった。

 ロボットの少女を、人間らしいと評価するのは間違っていた。彼女はロボットであった。だがそれは、彼女が劣っているという意味ではない。

 人が、ロボットを見て人間らしいなどと言うのは、単におこがましいだけである。少なくとも、今生きている人は、理想の姿ではない。そしてあのロボットの少女は、俺達が理想としてきた人間像を、精密にかたどっていた。

 ロボットに人のような感情はない。だが、感情を超えた慈しみがある。ロボットは決して利己的ではなく、献身的である。そして、人々がかつて見えていた闇の中の灯りを、今でも見る事が出来る唯一の存在なのだ。

 人は、必ず戻るべきである。闇の中の灯りを捨て、献身性を捨て、慈しみを捨て、今地球を捨てようとしている人類はこれから、地球を拾い上げ、慈しみを育て、献身性を持ち、闇の中の灯りにもう一度目を向けねばならない。その道筋を見せてくれる誘導灯は、ついさっき、気狂いして帰る場所を失くそうとする戦闘機に破壊され、闇へと消えた。

 だが、俺にはほんのりと、まだその誘導灯の灯りが見えていた。

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[気になる点] >「ありがとうございます! 百万ユーロの夜景を喩えられた景色を、存分にお楽しみ下さい」 >「はい、かしこまりました。では、また私の右手をお掴み頂けますか?」 間に男の科白が無いと続け…
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