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婚約者の代筆をやめたら、お祖母様が遺言を書き換えました

掲載日:2026/09/24

「お前の取り柄なんて、字がきれいなことくらいだろう」


 ユリアン様はそう言って、長椅子の背にもたれた。

 隣でカミラ様が、扇の陰で笑った。


 ハイデン家の客間だった。

 婚約を解く書類は、父どうしの間でもう整っているという。

 今日わざわざ来たのは、それを告げるためと、隣の人を見せるためらしい。


「承知いたしました」


 わたしが頭を下げると、ユリアン様は少し不満そうな顔をした。

 泣くとでも思っていたのかもしれない。


「ああ、それから。祖母への手紙も、もういい」


 立ち上がりながら、ついでのように言った。


「どうせ目も見えない年寄りだ。返事の束も、捨てておけ」


 七年前、十三の春に、わたしはユリアン様の婚約者になった。


 婚約の日、侯爵家の庭で、ひとりの老婦人に呼び止められた。

 ユリアン様のお祖母様、先代侯爵夫人のヘルミーネ様だった。

 白く濁った目を足もとの紫の群れに向けて、こうおっしゃった。


「菫は、どんな色かしら。わたくしには、もうよく見えないの」


 わたしは見たままを話した。

 紫にもいろいろあって、日の当たるほうは少し青く、影のほうは夜みたいに深いこと。

 花びらの付け根だけが白いこと。

 ヘルミーネ様は黙って聞いて、最後に笑った。


 帰りぎわ、ヘルミーネ様は孫に言った。

 日曜ごとに、手紙をちょうだい、と。


 ユリアン様はその手紙を、わたしに書かせた。


「お前、字がきれいだろう。俺の名前で書いておけ」


 それから七年。

 日曜の朝ごとに、わたしはユリアン様の名前で、見たものを書いた。

 王都の空の色、市場に並ぶ果物、雨の匂い。

 目の見えない人に届くのだから、できるだけ細かく。


 たとえば夏の終わり、市場の木箱に並ぶ早摘みの林檎のこと。

 まだ青く透きとおるような緑で、手のひらにのせるとひんやりと重く、皮に爪を立てると酸っぱい露が小さく弾けること。

 晩秋の冷たい雨の日のことも書いた。

 黄色く色づいた銀杏の葉が濡れた石畳一面に張り付いて、馬車の車輪が通るたびにかすかに湿った音を立てること。

 辻のパン屋から漂う温かい麦の湯気と、鼻の奥をつんと刺す、冬が混ざり始めた冷たい風の匂い。

 ヘルミーネ様が、まるで自分の手のひらの上で季節を受け止められるように。

 色だけでなく、温度や匂い、肌を撫でる風の重さまで、わたしがこの体で感じた世界のすべてを、余さず言葉にして差し出した。


 三百六十四通になった。


 返事も、毎週届いた。

 宛名は「ユリアンへ」。

 末尾には、いつも小さく「代筆 C.」とあった。

 ユリアン様は封も切らずに、わたしに回してきた。


 宛名は他人のものでも、それは、わたしが受け取ったたった一つの手紙だった。


 C.という人の字は、はじめは硬く、年を追うごとに少しずつやわらかくなった。

 どんな人なのかは、知らない。


 次の日曜の朝、わたしはいつものように机に向かった。


 便箋を広げ、ペンにインクをつけた。

 窓の外で、雪解けの雫が落ちていた。

 書くことは、いくらでもあった。


 ペン先から、インクが一滴、便箋に落ちた。


 わたしはペンを置いた。


 三百六十五通目を、わたしは書かなかった。


 代わりに、棚から箱を下ろした。

 三百六十四通の返事が、日付の順に並んでいる。

 いちばん上の一通の「代筆 C.」を、指でなぞった。



    *



 手紙が届いたのは、四日後だった。


 朝の食卓に、父が手紙を放り出すように置いた。


「侯爵家からだ。お前宛てになっている」


 婚約を解かれて以来、父がわたしにかけた言葉は、それだけだった。

 母は視線を伏せたまま、紅茶のカップをソーサーに戻した。

 カチャリと小さな磁器の音だけが、沈黙の落ちた部屋に響いた。

 なぜ今さら破談になった相手の家から手紙など届くのか、父も母も問い質そうとはしなかった。

 慰めも叱責もなく、腫れ物に触れまいとするような冷えた気配だけが、朝の空気に満ちていた。


「……部屋で、拝見します」


 わたしは手紙を胸に抱くようにして、逃げるように自室へ戻った。


 見慣れた字だった。

 やわらかくなった、C.の字。


 けれど、宛名が違った。


 ルイーゼ・ハイデン様。


 七年で、はじめて見る宛名だった。

 封を切る指が、うまく動かなかった。


  日曜の手紙が届きませんでした。七年で、はじめてのことです。

  ユリアンのことは、聞きました。

  ルイーゼ、一度だけ、会いに来てくださらない? 菫が咲くまで、待てそうにないの。

                ヘルミーネ

  追伸 奥様は日曜の朝から、窓辺を離れずにおられました。 C.


 ルイーゼ、と書いてあった。


 知っていたのだ。


 いつから。


 わたしは箱をひっくり返すようにして、古い返事を読み返した。

 三年前の春の一通に、こうあった。


『あなたの見る菫の色が、わたくしは好きよ』


 ユリアン様は、菫の色など一度も見たことがない。

 わたしはこの一文を何度も読んで、そのたびに、祖母が孫を甘やかす言葉なのだと思っていた。


 ほかにもあった。


『あなたの目は、いつもよく見ているのね』。


『寒くないようにね。あなたは冬に手が冷える子でしょう』。


 冬に手が冷えるのは、ユリアン様ではない。

 わたしだ。

 二年前の手紙に、一度だけそう書いた。


 顔が熱くなった。

 七年、わたしは誰を騙していたつもりだったのだろう。


 行くべきではない、と思った。

 婚約を解かれた身で、相手の家の領地を訪ねるなど、はしたないことだ。

 何をしに来たのかと思われる。


 手紙をもう一度開いた。


 菫が咲くまで、待てそうにないの。


 その一行を、三度読んだ。


 その夜、わたしは旅の支度をした。

 詫びに行くのだ。


 返事の箱も、荷物に入れた。

 これはユリアン様に宛てた手紙だ。

 わたしが持っていていいものではない。

 お返ししよう、と思った。



    *



 侯爵家の領地の館に着いたのは、翌日の夕刻だった。


 丘の斜面に、菫の葉が広がっていた。

 花はまだない。

 つぼみが、固く閉じている。


 玄関で迎えてくれたのは、黒い上着の若い男の人だった。


「奥様の侍医です。お待ちしておりました」


 口数の少ない人だった。

 階段をのぼるあいだ、一度もこちらを振り返らなかった。

 けれど、わたしが段につまずきかけたとき、手すりのほうへ、すっと道をあけてくれた。


 寝室は、窓の多い部屋だった。


 寝台の上で、ヘルミーネ様は枕に背を預けていた。

 七年前より、ずっと小さくなっていた。

 濁った目が、わたしの足音のほうを向いた。


「ルイーゼ・ハイデンでございます」


「ルイーゼね」


 ヘルミーネ様は、ゆっくり笑った。


「手紙と同じ話し方をするのね」


 わたしは寝台のそばに膝をついた。


「七年間、あなたを騙していました。申し訳ございません」


「騙していた?」


 ヘルミーネ様は、声を立てて笑った。

 細い肩が揺れた。


「騙されていたのは、わたくしじゃないわ。一通目で分かったもの」


「一通目で……」


「お庭の菫は、もう咲きましたか。そう書いてあったわ。ユリアンは、わたくしの庭に何が咲くかなんて知らないもの」


 枕元の小さな卓に、木の箱があった。

 ヘルミーネ様が手を伸ばして、蓋を撫でた。


「全部、ここにあるわ。三百六十四通」


 日付の順に、きちんと並んでいた。

 はじめのほうの手紙は、紙がやわらかくなって、角が丸い。

 何度も、何度も開かれたのだ。


「クレメンス。一通目を読んでちょうだい」


 侍医の人が、箱のいちばん奥から一通を抜いた。

 封筒の字が見えた。

 十三のわたしの、丸い字だった。


 止める間もなかった。


「お祖母様。お庭の菫は、もう咲きましたか。王都では、まだ咲いていません。咲いたら、何色だったか、お手紙に書きます。ぼくは元気です。ユリアン」


 低い、落ち着いた声だった。

 十三のわたしがユリアン様のふりをして一生懸命書いた「ぼく」を、その声は少しも笑わずに読んだ。


 頬が熱くて、顔を上げられなかった。


「わたくしはね、ルイーゼ」


 ヘルミーネ様が言った。


「この七年、あなたの目で世界を見ていたのよ。王都の空も、市場の林檎も、雨の匂いも」


 白い指が、わたしの手を探した。

 わたしはその手を取った。

 冷たかった。


「夫がね、若いころ遠征に出ていて、日曜ごとに手紙をくれたの。あの人が亡くなってから、日曜はずっと静かだった。あなたが、また音をくれたのよ」


 それから、いたずらをする子どものように言った。


「お祖母様と呼んでちょうだい。七年、そう書いてくれたでしょう」


「……お祖母様」


「ええ」


 侍医の人は、窓辺の机で、夕方の薬の記録をつけていた。


 何気なく、その手もとを見た。


 知っている字だった。

 七年、毎週見てきた字。

 はじめは硬く、年を追ってやわらかくなった字。


「……代筆の、C.さん」


 その人が、顔を上げた。


「クレメンスです」


 部屋を出たあと、廊下で、わたしは訊いた。


「どうして今度だけ、追伸を書いてくださったのですか」


 クレメンスさんは、少し考えてから答えた。


「七年ではじめて、奥様の言葉だけでは、足りないと思ったので」


 そう言って頭を下げ、行きかけた。


「足りない、とは……」


 思わず問い返すと、クレメンスさんは立ち止まり、静かにわたしを見つめた。


「奥様のお命は、もう長くありません。けれど、あの短い文面だけでは、あなたが遠慮して来られないのではないかと思ったのです。……あなたが、そういう方だと知っていましたから」


「わたしのことを、ですか」


「ええ。毎週、手紙を声に出して読んでいましたから。七年分、あなたの言葉に触れていました。あなたがどれほど誠実に世界を見つめておられたか、奥様の次に知っていたのは、おそらくわたしです」


 淡々とした、けれど低く澄んだ声だった。

 七年間、名前も知らなかった人が、わたしの言葉をずっと受け止めていてくれた。

 そう思うと、うまく返事ができなかった。



    *



 その夜、馬車の音がした。


 ユリアン様と、カミラ様と、侯爵様だった。

 明日の朝、公証人が来て、お祖母様の遺言を読み上げるのだという。


 寝室の戸口で、ユリアン様はわたしを見て、顔をしかめた。


「何でお前がここにいる」


「お祖母様に、呼ばれて」


「お祖母様?」


 ユリアン様は鼻で笑った。


「図々しいな。遺産目当てか」


「違います」


「あの手紙は、俺の名前で出した、俺の手紙だ。お前は字を書いただけだろう」


 カミラ様が、ユリアン様の腕に手をかけた。

 侯爵様が、疲れた声で言った。


「ハイデン嬢。あなたはもう、この家の者ではない。出ていきなさい」


「お黙りなさい」


 寝台から、お祖母様の声がした。

 細いのに、よく通った。


 けれど、その声はすぐに咳に変わった。

 咳は止まらず、お祖母様の体が折れるように前へ傾いだ。


 クレメンスさんが駆け寄った。

 わたしも寝台に行こうとして、侯爵様の腕に止められた。


「出ていきなさい」


 扉が、目の前で閉まった。


 客間の窓から、丘が見えた。

 暗くて、菫のつぼみはもう見えなかった。


 遺産目当て。


 そう見えるのだろう。

 婚約を解かれた女が、遺言の前の晩に、のこのこ現れたのだから。


 わたしは荷物を開け、返事の箱を出した。


 いちばん奥の一通を抜いた。

 七年前、はじめて届いた返事だ。


  ユリアンへ。菫はまだです。咲いたら、あなたが見た色を教えてちょうだい。

                代筆 C.


 あなたが見た色。


 お祖母様は、はじめから、わたしの目を頼んでいたのだ。


 それでも、宛名はユリアン様だった。


 わたしは手紙を箱に戻し、蓋の上に、札を一枚のせた。


 ユリアン様へ。


 これはユリアン様に宛てた手紙だ。

 わたしは、ユリアン様の代わりに書いただけの者だ。

 はじめから、代筆にすぎなかった。


 それでいい。


 夜が明けたら、ここを出よう。


 わたしは箱を抱えて広間へ下り、卓の上に置いた。


「こんな夜更けに、何をされているのですか」


 背後から静かな声がして、肩が跳ねた。

 振り返ると、薬草の湯気を立てた硝子瓶を持つクレメンスさんが立っていた。


「クレメンスさん……。お祖母様は」


「薬が効いて、今は眠っておられます」


 クレメンスさんの視線が、卓の上の箱へ、そして札へと移った。


「それを、置いていかれるのですか」


「はい。これはユリアン様宛ての手紙です。わたしが持っていていいものではありませんから」


 クレメンスさんはわずかに眉を寄せ、痛ましそうに目を伏せた。


「あなたはご自分の心まで、誰かに譲ってしまうのですね」


「え……」


 それ以上は何も言わずに、クレメンスさんは一礼して去っていった。

 暗い広間に残されたわたしは、札の上の自分の字を、長いあいだ見ていた。


 お祖母様の部屋の灯りは、遅くまで消えなかった。



    *



 夜明けの空気は、冷たかった。


 門まであと少しのところで、後ろから足音がした。


「ハイデン嬢」


 振り返ると、クレメンスさんが走ってきた。

 胸に、あの箱を抱えていた。

 息が上がっていた。


「宛名が違います」


「……え」


「これは、あなた宛ての手紙です」


 クレメンスさんは、箱をわたしの腕に返した。


「奥様は、夜を越えられました。公証人を呼ばれました。あなたを待っておられます」


 重厚な扉の前に立つと、膝が少し震えた。

 扉の向こうには、わたしを追い出そうとした侯爵様も、遺産目当てと嘲笑ったユリアン様もいる。

 婚約を破棄された身で、その部屋へ入っていくのだ。

 箱を抱える腕に、知らず力がこもった。


「大丈夫です。わたしもおります」


 隣に立ったクレメンスさんが、誰にも聞こえないような低い声で言った。

 抱えた箱の重みを確かめ、わたしは小さく息を吸って、開かれた扉の先へと足を踏み出した。


 寝室には、もう皆がそろっていた。


 枕を重ねて座ったお祖母様。

 黒い服の公証人。

 ユリアン様、カミラ様、侯爵様。


 枕元の卓に、わたしは箱を置いた。

 お祖母様の箱の隣に。


 三百六十四通と、三百六十四通。

 七年分の日曜が、並んでいた。


「ユリアン」


 お祖母様が言った。


「一通目の手紙で、あなたはわたくしに、何を訊いたかしら」


「……は?」


「一通目よ。あなたが書いてくれた、最初の手紙」


 ユリアン様の目が泳いだ。


「お、お加減はいかがですか、とか……」


「菫は咲いたか、と訊いたのよ」


 お祖母様は、わたしのほうへ顔を向けた。


「そうよね、ルイーゼ」


「……はい」


 カミラ様が、ユリアン様の腕から、そっと手を離した。


 公証人が、書類を広げた。


「爵位、ならびに侯爵家に属する土地は、法の定めにより、嫡男ユリアン殿が継がれます」


 ユリアン様の肩から、力が抜けた。


「次に、先代侯爵夫人が御実家よりお持ちになった財産について。これは夫人個人のものであり、夫人の遺言によります」


 公証人は、眼鏡を押し上げた。


「以前の遺言では、『孫ユリアンと、その妻に』とありました。五日前に、書き換えられております」


 ユリアン様が、顔を上げた。


「『七年間、日曜ごとにわたくしに手紙をくれた、ルイーゼ・ハイデンに』。なお、館の使用人には、別に年金を遺すとあります」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


「ふざけるな」


 ユリアン様の声が裏返った。


「あの手紙は、俺の名前で出したものだ。名義は俺だ!」


「ええ」


 お祖母様は、静かに言った。


「だから七年、あなたの名前に宛てて、返事を書いたわ」


 濁った目が、ユリアン様のほうを向いた。


「一通でも、読んだ?」


 ユリアン様は、口を開けて、閉じた。


 卓の上の返事は、三百六十四通とも封が切られていた。

 切ったのは、わたしだ。


「奥様の返事は、すべてわたしが代筆しました」


 クレメンスさんが言った。


「宛名は、ユリアン様です。けれど奥様は、毎週、口述を始める前に、必ずこうおっしゃいました」


 クレメンスさんは、少しだけ間をおいた。


「『ルイーゼに』」


 息が、うまく吸えなかった。


「三百六十四回、わたしは、その名前を聞きました」


 公証人が、書類とペンを、わたしの前に置いた。

 受け取りの署名をする欄があった。


 わたしは、書類を押し戻した。


「いただけません」


 声が震えた。


「わたしは、ユリアン様のお名前で書いただけです。見返りがほしくて書いたのでは——」


「では」


 お祖母様が言った。


「わたくしの七年は、誰に宛てた返事だったの?」


 部屋が、静かになった。


「あなたが受け取らないなら、わたくしの三百六十四通は、宛先のない手紙になるわ」


 わたしは、卓の上の二つの箱を見た。


 わたしが消えれば、この人の七年も消える。

 毎週「ルイーゼに」と言ってから話しはじめた、この人の日曜も。


 窓の外で、鳥が鳴いた。


 わたしはペンを取った。


 ルイーゼ・ハイデン。


 自分の名前を書くのに、こんなに手が震えたのは、はじめてだった。


 お祖母様が手を伸ばした。

 公証人が書類をその手の下に滑らせると、細い指が、乾ききらないインクの上をそっとなぞった。

 見えないはずなのに、指は迷わなかった。


「……あなたの名前ね」


 カミラ様が、立ち上がった。


「財産のない侯爵家に嫁ぐなんて、聞いていませんわ」


 衣擦れの音がして、扉が閉まった。


 侯爵様が、ユリアン様を見た。


「婚約者に、七年も代筆させていたのか」


 ユリアン様は、答えなかった。


 わたしも、何も言わなかった。

 言うことは、もう手紙に全部書いてあった。



    *



 その夜、お祖母様が言った。


「最後に一通、書いてちょうだい。今度は、あなたの名前で」


 わたしは窓辺の机を借りた。

 昼に見た丘のことを書いた。


  お祖母様。丘の菫は、まだ咲いていません。

 けれど、いちばん日当たりのいい斜面のつぼみが一つだけ、先を紫に染めはじめています。

 日の当たるほうは少し青くて、影のほうは夜みたいに深い色です。

 七年前、お庭で見たのと同じ色です。

  明日か、明後日には、きっと開きます。

  咲いたら、何色だったか、またお伝えします。

                ルイーゼ


 クレメンスさんが、それを読み上げた。

 お祖母様は目を閉じて聞いていた。

 読み終わると、しばらく黙って、それから小さく笑った。


「……やっと、宛名と差出人がそろったわね」


 お祖母様は、顔を少しだけクレメンスさんのほうへ向けた。


「クレメンス。あなたも、そろそろ自分の名前で書きなさい」


 クレメンスさんは答えなかった。

 手紙を畳む指が、一度だけ止まった。


 三日後、丘で最初の菫が咲いた。

 その朝、お祖母様は眠るように息を引き取った。


 窓は、開けてあった。


 葬儀の日、クレメンスさんとは、短い挨拶しか交わさなかった。

 黒い上着の背中が、参列の人の向こうに見えなくなるまで、わたしはそこに立っていた。


 王都の屋敷に戻ってからの日々は、驚くほど静かだった。

 先代侯爵夫人から多額の財産を遺されたと知った父や母の態度は、手のひらを返したように軟化したが、その丁重さが、かえってわたしの心をひどく冷え込ませた。

 何より寂しかったのは、日曜の朝だった。

 机に向かっても、もうインク壺の蓋を開ける理由がない。

 七年間、わたしの生活の真ん中にあった日曜の手紙は、お祖母様の死とともに役目を終えてしまったのだ。

 窓の外を見つめながら、わたしは何度も、あの丘の館を思い出していた。

 濁った目で世界を愛してくれたお祖母様。

 そして、わたしの手紙を七年読み続けてくれた、クレメンスさん。

 あなたも、そろそろ自分の名前で書きなさい。

 あの夜、お祖母様がクレメンスさんに残した言葉が、耳の奥で何度もよみがえった。

 けれど、彼は医者だ。

 代筆の役目が終わった今、わたしに手紙を寄せる理由などどこにもない。

 期待しては打ち消し、郵便配達の足音がするたびに耳を澄ましては落胆する。

 そんな落ち着かない祈りのような日々のうちに、ひと月が過ぎていった。


 春の日曜、ハイデン家に手紙が届いた。


 見慣れた字だった。

 宛名は、ルイーゼ・ハイデン様。


 末尾の署名が、違っていた。


  七年、あなたの見た世界を、声に出して読んできました。

  菫の色も、雨の匂いも、わたしの声で読みました。

  字より先に、言葉を好きになりました。

  今度は、わたしが見たものを書いてもいいでしょうか。

  代筆ではなく。

                クレメンス


 わたしは机に向かった。

 便箋を広げ、ペンにインクをつけた。


 書くことは、いくらでもあった。


 書き出しは、七年前と同じにした。


『王都でも、菫が咲きました』


 それから、今朝見た色のことを書いた。

 窓の外の、雪解けの終わった庭のこと。

 市場に並びはじめた苺のこと。

 読んでくれる人の声を思い浮かべながら、一つずつ。


 最後に、差出人の欄に、自分の名前を書いた。


 それだけのことに、七年かかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


あの七年を、お祖母様はどんな気持ちで聞いていたのか。

次は、お祖母様の側から見た同じ七年を、お届けします。


『孫の手紙が、七年前から女の子の字です』

https://ncode.syosetu.com/n4435mu/


お祖母様の視点から見たら、この話も見方も変わると思います。

ぜひお祖母様の視点の物語もお楽しみください。

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― 新着の感想 ―
おばあ様は良い人だが息子の教育も孫の教育も間違えたなぁ。孫は直接の責任ないけど。
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