ただいま
八月の、金曜の夜でした 。
残業が長引いて、駅を出たのが十一時半過ぎです。
夕立に降られて、傘を差してもシャツが背中に貼りつきました。
いつのことだったか、妻と少し言い合いをしていました。
大したことではありません。
娘の保育園の送りを、どちらがやるかという話です。
私が「今週は無理だ」と言って、妻が黙って、それきりでした。
おたがい何も言わずに家を出て、そのままになっていました。
帰りの電車で、謝ろうと決めていました。
麦茶でも飲みながら、ひと言。
それだけのつもりでした。
エントランスで暗証番号を押しました。
四桁。
指が勝手に動く番号です。
エレベーターは五階で止まっていて、呼ぶと思ったより早く降りてきました。
鍵が回りませんでした。
何度か回して、もう開いているのだと分かりました。
妻がかけ忘れたんでしょう。
そういうところがある人です。
前なら注意していたと思いますが、あの晩は、言わないでおこうと思いました。
「ただいま」
小さく言いました。
返事はありません。
当たり前です。
もう十二時過ぎでした。
部屋は涼しくて、蚊取り線香のような匂いがしました。
妻は蚊取り線香を使わない人です。
ドラッグストアで安かったのかもしれない、と思いました。
キッチンのシンクに、食器が伏せてありました。
麦茶のポットが空になっていました。
私の分は残っていませんでした。
まだ怒っているのかな、と思いました。
それくらいのことで、私はけっこう堪えるほうです。
冷蔵庫に、見覚えのない写真が貼ってありました。
海です。
妻と、息子と、娘が、浮き輪を持って笑っていました。
娘の浮き輪は、この六月に買ってやったものでした。
息子はまだ日に焼けていて、髪も短いままでした。
今年の夏の写真です。
よく撮れていました。
たぶん私が撮ったんでしょう。
ただ、今年の夏、家族で海に行った覚えがありませんでした。
忙しかったので、記憶が飛んでいるんだと思います。
最近、そういうことが増えました。
寝室のドアが十センチほど開いていました。
覗くと、三人が寝ていました。
娘が真ん中で、大の字になっていて、妻が端に追いやられていました。
私の場所は残っていませんでした。
起こすのも悪いので、ソファで寝ることにしました。
シャワーを浴びて着替えようと思いましたが、体を動かすのが億劫でした。
エアコンの風が当たって、そのまま目を閉じました。
眠れませんでした。
四時を過ぎると、この時期はもう空が白くなります。
蝉が一匹鳴き出して、すぐに何十匹にもなりました。
六時に妻が起きてきました。
私の前を通って、キッチンに立ちました。
「おはよう」
言いましたが、返ってきませんでした。
まだ怒っているんだと思いました。
息子が起きてきて、娘が起きてきて、娘は私がいつも座っている椅子に座りました。
妻は何も言いませんでした。
息子も、娘も、私のほうを見ませんでした。
そこまでするか、と少し思いました。
でも、こういうときに向こうから折れたことは一度もないので、私が謝るしかないんです。
今夜、早く帰ってこよう。
麦茶を買って帰って、それで話そう。
そう決めました。
朝食のあと、妻はエプロンで手を拭いて、リビングの棚の前に立ちました。
毎朝そうしているような、慣れた足取りでした。
棚の上に、白い菊が挿してありました。
妻は水を替えて、花の向きを少し直しました。
それから、隣に立ててある写真立てを、両手で、まっすぐに直しました。
額の中で、私が笑っていました。
去年の夏の写真です。
海で、四人で撮ったほうの写真でした。
妻は細い線香を一本立てて、火をつけました。
煙がまっすぐに上がっていきました。
ゆうべと同じ匂いがしました。
両手を合わせて、短く目を閉じました。
それから顔を上げて、私の写真をまっすぐに見ました。
八月の朝の光が入ってきて、蝉の声はもう昼間と同じ大きさになっていました。
そして、いつものように妻は言いました。
「いってらっしゃい」
私は、いってきます、と答えました。
支度をして玄関に立つと、私の靴だけがありませんでした。
妻のサンダルと、息子の運動靴と、娘の小さいスニーカーが並んでいて、そこだけが空いていました。
台所に向かって、俺の靴知らない、と聞きました。
妻は、まだ写真のほうを見ていました。
それから、独り言のように言いました。
「……もう、怒ってないからね」




