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ただいま

作者: ぱっちー
掲載日:2026/08/21

八月の、金曜の夜でした 。


残業が長引いて、駅を出たのが十一時半過ぎです。


夕立に降られて、傘を差してもシャツが背中に貼りつきました。


いつのことだったか、妻と少し言い合いをしていました。


大したことではありません。


娘の保育園の送りを、どちらがやるかという話です。


私が「今週は無理だ」と言って、妻が黙って、それきりでした。


おたがい何も言わずに家を出て、そのままになっていました。


帰りの電車で、謝ろうと決めていました。


麦茶でも飲みながら、ひと言。


それだけのつもりでした。


エントランスで暗証番号を押しました。


四桁。


指が勝手に動く番号です。


エレベーターは五階で止まっていて、呼ぶと思ったより早く降りてきました。


鍵が回りませんでした。


何度か回して、もう開いているのだと分かりました。


妻がかけ忘れたんでしょう。


そういうところがある人です。


前なら注意していたと思いますが、あの晩は、言わないでおこうと思いました。


「ただいま」


小さく言いました。


返事はありません。


当たり前です。


もう十二時過ぎでした。


部屋は涼しくて、蚊取り線香のような匂いがしました。


妻は蚊取り線香を使わない人です。


ドラッグストアで安かったのかもしれない、と思いました。


キッチンのシンクに、食器が伏せてありました。


麦茶のポットが空になっていました。


私の分は残っていませんでした。


まだ怒っているのかな、と思いました。


それくらいのことで、私はけっこう堪えるほうです。


冷蔵庫に、見覚えのない写真が貼ってありました。


海です。


妻と、息子と、娘が、浮き輪を持って笑っていました。


娘の浮き輪は、この六月に買ってやったものでした。


息子はまだ日に焼けていて、髪も短いままでした。


今年の夏の写真です。


よく撮れていました。


たぶん私が撮ったんでしょう。


ただ、今年の夏、家族で海に行った覚えがありませんでした。


忙しかったので、記憶が飛んでいるんだと思います。


最近、そういうことが増えました。


寝室のドアが十センチほど開いていました。


覗くと、三人が寝ていました。


娘が真ん中で、大の字になっていて、妻が端に追いやられていました。


私の場所は残っていませんでした。


起こすのも悪いので、ソファで寝ることにしました。


シャワーを浴びて着替えようと思いましたが、体を動かすのが億劫でした。


エアコンの風が当たって、そのまま目を閉じました。


眠れませんでした。


四時を過ぎると、この時期はもう空が白くなります。


蝉が一匹鳴き出して、すぐに何十匹にもなりました。


六時に妻が起きてきました。


私の前を通って、キッチンに立ちました。


「おはよう」


言いましたが、返ってきませんでした。


まだ怒っているんだと思いました。


息子が起きてきて、娘が起きてきて、娘は私がいつも座っている椅子に座りました。


妻は何も言いませんでした。


息子も、娘も、私のほうを見ませんでした。


そこまでするか、と少し思いました。


でも、こういうときに向こうから折れたことは一度もないので、私が謝るしかないんです。


今夜、早く帰ってこよう。


麦茶を買って帰って、それで話そう。


そう決めました。


朝食のあと、妻はエプロンで手を拭いて、リビングの棚の前に立ちました。


毎朝そうしているような、慣れた足取りでした。


棚の上に、白い菊が挿してありました。


妻は水を替えて、花の向きを少し直しました。


それから、隣に立ててある写真立てを、両手で、まっすぐに直しました。


額の中で、私が笑っていました。


去年の夏の写真です。


海で、四人で撮ったほうの写真でした。


妻は細い線香を一本立てて、火をつけました。


煙がまっすぐに上がっていきました。


ゆうべと同じ匂いがしました。


両手を合わせて、短く目を閉じました。


それから顔を上げて、私の写真をまっすぐに見ました。


八月の朝の光が入ってきて、蝉の声はもう昼間と同じ大きさになっていました。


そして、いつものように妻は言いました。


「いってらっしゃい」


私は、いってきます、と答えました。


支度をして玄関に立つと、私の靴だけがありませんでした。


妻のサンダルと、息子の運動靴と、娘の小さいスニーカーが並んでいて、そこだけが空いていました。


台所に向かって、俺の靴知らない、と聞きました。


妻は、まだ写真のほうを見ていました。


それから、独り言のように言いました。


「……もう、怒ってないからね」





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