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空を見上げて

作者: 香月 深青
掲載日:2026/05/30

 久しぶりの休日だった。


 いつもなら、家でゴロゴロして終わる一日。


 動画を見たり、少し昼寝をしたり。


 気づけば夕方になっていることが多い。


 でも今日は、窓から差し込む初夏の日差しが気持ちよくて、なんとなく外へ出たくなった。


 薄いカーディガンを羽織って、近所の公園まで歩く。


 風が心地いい。


 木々の緑が、陽の光を受けてきらきら揺れていた。


 社会人五年目。


 いつの間にか、教えてもらう側から教える側になっていた。


 後輩に説明しながら、自分の言葉がちゃんと届いているのか不安になることがある。


 頼れる先輩になれているのか。


 これで正解なのか。


 大人になるって、もっとちゃんとしているものだと思っていた。


 でも実際は、迷いながら毎日を繰り返しているだけだった。


 公園のベンチに腰を下ろす。


 空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。


 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。


 近くの中学校では、野球部が練習をしていた。


「オーライ! オーライ!」


 グラウンドに響く大きな声。


 金属バットの乾いた音。


 白いユニフォームが、眩しい日差しの中を走っていく。


 その光景を見た瞬間、胸の奥がふわっと熱くなった。


 懐かしい。


 中学生の頃、好きだった野球部の先輩を思い出した。


 放課後になると、友だちとグラウンドを見に行っていた。


 フェンス越しに練習を眺めながら、くだらないことで騒いで。


「今、絶対こっち見たよね!?」


「違うし! 私見てたし!」


 本気で言い争っていた。


 今思えば、ちゃんと目が合っていたかも怪しい。


 でも、遠くから見ているだけで幸せだった。


 先輩が笑っただけで嬉しくて。


 グラウンドを走る姿を見るだけで、一日が特別になる。


 ただ“好き”って気持ちだけで、胸がいっぱいになっていた。


 試合の日は、朝から落ち着かなくて。


 先輩がヒットを打っただけで、自分のことみたいに嬉しかった。


 あの頃の恋は、世界の全部だった気がする。


 卒業式の日。


 勇気を出して、ボタンをもらいに行った。


 でも先輩は人気者で、制服のボタンは全部なくなっていた。


「あ……ごめん……」


 困ったように笑う先輩。


「卒業おめでとうございます」


 私は笑ってそう言った。


「ありがとう」


 その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。


 振り返った途端、涙が溢れてきた。


 帰り道、友だちに慰められながら歩く。


「そんなに好きだったんだね」


 うん。


 本当に好きだった。


 笑った顔も。


 困った顔も。


 試合に負けて悔しそうにしていた顔も。


 大きな声で仲間を呼ぶ姿も。


 試合に勝って、子どもみたいに喜んでいた顔も。


 全部、大好きだった。


 ちゃんと話したことなんて、ほとんどなかったのに。


 でも、あの頃の私は確かに恋をしていた。


 青空を見ると、時々思い出す。


 夢ばかり見ていた、あの頃。


 好きな人がいるだけで毎日が楽しくて。


 廊下ですれ違っただけで、一日幸せになれて。


 たぶん、一番無邪気で、一番キラキラしていた時間。


 その時、バッグの中でスマホが震えた。


 画面には、彼の名前。


「もしもし?」


『今どこ?』


「公園で日向ぼっこしてる」


 少し笑いながら答える。


『いいな、それ』


 電話の向こうで、彼も笑った。


『ご飯食べに行こう』


「いいよ」


『迎え行くね』


「うん。待ってる」


 電話を切る。


 昔みたいに、すれ違うだけで胸が苦しくなる恋じゃない。


 社内恋愛。


 一緒にいる時間が長い分、ドキドキより安心の方が大きくなった。


 そばにいると落ち着いて。


 隣にいると、あたたかい。


 頑張りすぎなくても、自然に笑っていられる。


 それはきっと、あの頃とは違う“好き”。


 でも、この穏やかな時間も嫌いじゃなかった。


 風がふわりと髪を揺らした。


 もう戻れない。


 でも、戻りたいわけでもなかった。


 あの頃、先輩の姿を探していたグラウンド。


 目が合った気がするだけで、一日嬉しくて。


 胸が苦しくなるくらい、誰かを好きだった。


 今思い出しても、少し笑ってしまう。


 でもきっと、あんなふうに真っ直ぐ恋をしていた時間は、一生消えない。


 空は、あの頃と変わらないくらい青かった。


 私は小さく息を吐いて、空を見上げる。


 その青さが、少しだけ眩しかった。

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