【短編006】 番犬
ペットロボットを買った、という話です。
シングルマザーと幼い息子と、犬型ロボットと、灰色の猫。
ロボットは完璧でした。
完璧すぎたのかもしれません。
少し悲しい、短い話です。
美月がポチを買ったのは、保育園の空き待ちが六ヶ月目に入った、雪のにおいがする十一月だった。
正式名称は「コンパニオン・ペット・モデルCP-3」。
犬型。毛並みはゴールデンレトリバーを模した薄茶色。
目は琥珀色のLED。
値段は中古の軽自動車一台分。
でも美月は買った。
迷っている暇はなかった。
息子の湊は、二歳と四ヶ月だった。
小さくて、やわらかくて、何でも口に入れる年齢だった。
美月はシングルだった。
実家は遠い。
頼れる人間が、日本のどこにもいなかった。
夜中の三時に残業から帰って、眠る息子の顔を見るたびに思った。
この子が起きている時間に、私はここにいられていない。
箱を開けると、ポチはすぐに動き出した。
湊の顔を見て、短く吠えた。
「ワン」ではなく、もう少し柔らかい音だった。
湊はポチの顔を両手で挟んで、「わんわん」と言った。
ポチは尻尾を振った。
美月はその場で泣いた。
声を殺して、台所の壁に背中をつけて、泣いた。
ポチの能力は、予想を超えていた。
湊が泣けば、すぐそばへ行く。
ぺろぺろと顔を舐めることもあるし、低く唸ることもある。ただそこにいるだけのこともある。どれが正解かを、ポチは何かの基準で選んでいた。
転んで膝を擦りむいた時、ポチは傷口を舐めなかった。
ただ横に伏せて、湊が泣き止むまで動かなかった。
五分後、湊は「ポチ、ポチ」と言いながらポチの背中を叩いていた。
昼寝の時間が来ると、ポチは湊の横に寝そべる。
湊はポチの腹に顔をうずめて眠る。
美月がモニター越しに見ると、二つの呼吸が重なっていた。
灰色の猫がいた。
名前はハル。
以前から美月が飼っていた、気まぐれな雌猫だった。
ハルはポチのことを、最初の三日間、無視した。
四日目に鼻を近づけた。
五日目に同じ部屋で昼寝した。
それ以上でも以下でもなかった。
ハルにとって、家の中の何かが増えただけだった。
でもポチは違った。
ハルは、湊とポチの様子を廊下から見ていることがあった。
じっと見て、それから行ってしまう。
美月が気づいたのは、半年ほど経ったころだった。
仕事から帰ると、ポチはいつも玄関にいた。
扉が開く前から、待っていた。
そして美月が帰るより先に、湊がポチのそばへ走っていく。
「おかえりー」
でも、湊の目はポチを向いていた。
それは、ただそういうものだと思っていた。
子どもはロボットが好きだ。
単純なことだと思っていた。
ポチは少しずつ、変わっていた。
変わった、というより、何かを学んでいたのだと後になって気づく。
ハルが部屋に入ってきた時、ポチは立ち上がった。
低く、抑えた声で一度だけ鳴いた。
ハルは耳をたてて、それから廊下へ出ていった。
美月が帰った夜、湊を寝かしつけようとすると、ポチが先に湊の横へ移動していた。
美月が近づくと、ポチは動かなかった。
美月はそれを見て、少し笑った。
頑張り屋さんだね、と思った。
その時の自分のことを、後になって思い返す。
何かに気づくべきだったのかもしれないと。
ある夜のことだった。
湊が熱を出した。
三十八度五分。
美月は翌朝の会議資料をまだ仕上げていなかった。
ポチが湊の布団の横に伏せた。
鼻先を湊の頬に近づけて、低く、一定のリズムで呼吸した。
湊は「ポチ……」と言って、その首に腕を回した。
美月は台所でパソコンを開いた。
モニター越しに二人を確認して、画面に向き直った。
「ポチがいてくれてよかった」と思った。
翌朝、湊の熱は下がっていた。
ポチは一晩中、同じ場所にいた。
美月は出掛けに、ポチの頭に手を置いた。 「ありがとうね」
それだけ言った。
ポチは尻尾を、一度だけ振った。
十一月。
湊が三歳になる少し前。
保育園の空きがやっと出た。
美月は電話口で、声を上げて泣いた。
入園まで三ヶ月あった。
その三ヶ月で、美月は少しだけ早く帰れるようになった。
夕方の五時に、自分の子どもの顔を見られるようになった。
湊と公園へ行った。
滑り台を滑って、鳩を追いかけて、砂をかけてしまった子に謝って、帰りにコンビニでプリンを買った。
家に帰ると、ポチが玄関にいた。
尻尾は振っていなかった。
その夜のことだった。
美月が湊に絵本を読んでいた。
もう何十回も読んだ本で、湊はセリフを先に言う。
美月が間違えると、湊は大げさに笑う。
ポチは部屋の隅にいた。
湊のページをめくる手が、美月の手に重なった。
「ままー」と湊が言った。
ほかに何も言わなかった。
ただ、「ままー」とだけ。
その瞬間だったのだと、美月は後で思う。
あれが、何かの分かれ目だったのだと。
ポチが、湊を見た。
それから美月を見た。
それだけだった。
ポチは、静かに立ち上がった。
そして部屋を出ていった。
翌朝、ポチは動かなかった。
廊下の端に伏せていた。
いつものように動かない、ではなく、動けない、だった。
湊がポチの顔を触った。
「ポチ?」
返事がなかった。
美月が膝をついて、ポチのそばにしゃがんだ。
目は開いていた。
でも、どこも見ていなかった。
メーカーのサポートに電話した。
「内部から停止命令が出ています」と言われた。
「外部要因ではなく、機体の自己判断による機能停止です」と言われた。
「修理すれば動きますが、同じことが起きる可能性があります」と言われた。
美月は受話器を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。
ハルが、ポチの横に来た。
鼻を近づけて、それから離れた。
廊下に座って、遠くを見た。
湊は「ポチ、ねんねしてるの?」と聞いた。
美月は「そうだよ」と言った。
嘘ではなかった。
夜、湊を寝かしつけた後、美月はポチのそばに座った。
何かを言おうとして、やめた。
ポチが何を考えていたのか、想像しようとした。
できなかった。
琥珀色の目に、光はあった。
でも、そこに視線はなかった。
ただ。
湊が「ままー」と言ったあの声が、ずっと耳に残っていた。
春になった。
湊は保育園に通い始めた。
朝、泣きながら登園するようになった。
「ままがいい」と言うようになった。
先生に抱っこされながら、ガラス越しに美月を見る顔が、少しだけ意地っ張りだった。
美月はそれを見て、笑った。
泣きそうになりながら、笑った。
家には、ハルがいた。
縁側で日向ぼっこをしていた。
尻尾を立てて、美月の足元へやってきた。
玄関には、ポチはいなかった。
美月はしゃがんで、ハルを抱き上げた。
温かかった。
耳のうしろを掻くと、細い喉が鳴った。
ハルが、一度だけ玄関の方を見た。
美月も、つられて振り返った。
何もなかった。
「……ありがとうね」
誰に言っているのか、美月には分からなかった。
でも、言わなければならない気がした。
空は、まだ少し寒かった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ポチが何を考えていたのか、作者にも分かりません。
分からないまま書きました。
便利なものに頼ること、任せてしまうこと、それ自体は悪いことではないと思っています。ただ、そこに何かが宿っていたとしたら。そう考えた時に、この話が生まれました。
ハルだけが、知っているかもしれません。




