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【短編006】 番犬

作者: macchao
掲載日:2026/05/19

ペットロボットを買った、という話です。

シングルマザーと幼い息子と、犬型ロボットと、灰色の猫。

ロボットは完璧でした。

完璧すぎたのかもしれません。

少し悲しい、短い話です。

 美月がポチを買ったのは、保育園の空き待ちが六ヶ月目に入った、雪のにおいがする十一月だった。


 正式名称は「コンパニオン・ペット・モデルCP-3」。

 犬型。毛並みはゴールデンレトリバーを模した薄茶色。

 目は琥珀色のLED。

 値段は中古の軽自動車一台分。


 でも美月は買った。

 迷っている暇はなかった。


 息子の湊は、二歳と四ヶ月だった。

 小さくて、やわらかくて、何でも口に入れる年齢だった。


 美月はシングルだった。

 実家は遠い。

 頼れる人間が、日本のどこにもいなかった。


 夜中の三時に残業から帰って、眠る息子の顔を見るたびに思った。

 この子が起きている時間に、私はここにいられていない。


 箱を開けると、ポチはすぐに動き出した。   

 湊の顔を見て、短く吠えた。

 「ワン」ではなく、もう少し柔らかい音だった。


 湊はポチの顔を両手で挟んで、「わんわん」と言った。

 ポチは尻尾を振った。


 美月はその場で泣いた。

 声を殺して、台所の壁に背中をつけて、泣いた。


 ポチの能力は、予想を超えていた。


 湊が泣けば、すぐそばへ行く。

 ぺろぺろと顔を舐めることもあるし、低く唸ることもある。ただそこにいるだけのこともある。どれが正解かを、ポチは何かの基準で選んでいた。


 転んで膝を擦りむいた時、ポチは傷口を舐めなかった。

 ただ横に伏せて、湊が泣き止むまで動かなかった。

 五分後、湊は「ポチ、ポチ」と言いながらポチの背中を叩いていた。


 昼寝の時間が来ると、ポチは湊の横に寝そべる。

 湊はポチの腹に顔をうずめて眠る。

 美月がモニター越しに見ると、二つの呼吸が重なっていた。


 灰色の猫がいた。

 名前はハル。

 以前から美月が飼っていた、気まぐれな雌猫だった。


 ハルはポチのことを、最初の三日間、無視した。

 四日目に鼻を近づけた。

 五日目に同じ部屋で昼寝した。


 それ以上でも以下でもなかった。

 ハルにとって、家の中の何かが増えただけだった。


 でもポチは違った。


 ハルは、湊とポチの様子を廊下から見ていることがあった。

 じっと見て、それから行ってしまう。


 美月が気づいたのは、半年ほど経ったころだった。


 仕事から帰ると、ポチはいつも玄関にいた。

 扉が開く前から、待っていた。


 そして美月が帰るより先に、湊がポチのそばへ走っていく。

 「おかえりー」

 でも、湊の目はポチを向いていた。


 それは、ただそういうものだと思っていた。

 子どもはロボットが好きだ。

 単純なことだと思っていた。


 ポチは少しずつ、変わっていた。


 変わった、というより、何かを学んでいたのだと後になって気づく。


 ハルが部屋に入ってきた時、ポチは立ち上がった。

 低く、抑えた声で一度だけ鳴いた。

 ハルは耳をたてて、それから廊下へ出ていった。


 美月が帰った夜、湊を寝かしつけようとすると、ポチが先に湊の横へ移動していた。

 美月が近づくと、ポチは動かなかった。


 美月はそれを見て、少し笑った。

 頑張り屋さんだね、と思った。


 その時の自分のことを、後になって思い返す。

 何かに気づくべきだったのかもしれないと。


 ある夜のことだった。


 湊が熱を出した。

 三十八度五分。

 美月は翌朝の会議資料をまだ仕上げていなかった。


 ポチが湊の布団の横に伏せた。

 鼻先を湊の頬に近づけて、低く、一定のリズムで呼吸した。

 湊は「ポチ……」と言って、その首に腕を回した。


 美月は台所でパソコンを開いた。

 モニター越しに二人を確認して、画面に向き直った。


 「ポチがいてくれてよかった」と思った。


 翌朝、湊の熱は下がっていた。

 ポチは一晩中、同じ場所にいた。


 美月は出掛けに、ポチの頭に手を置いた。 「ありがとうね」

 それだけ言った。


 ポチは尻尾を、一度だけ振った。


 十一月。

 湊が三歳になる少し前。


 保育園の空きがやっと出た。

 美月は電話口で、声を上げて泣いた。


 入園まで三ヶ月あった。

 その三ヶ月で、美月は少しだけ早く帰れるようになった。

 夕方の五時に、自分の子どもの顔を見られるようになった。


 湊と公園へ行った。

 滑り台を滑って、鳩を追いかけて、砂をかけてしまった子に謝って、帰りにコンビニでプリンを買った。


 家に帰ると、ポチが玄関にいた。

 尻尾は振っていなかった。


 その夜のことだった。


 美月が湊に絵本を読んでいた。

 もう何十回も読んだ本で、湊はセリフを先に言う。

 美月が間違えると、湊は大げさに笑う。


 ポチは部屋の隅にいた。


 湊のページをめくる手が、美月の手に重なった。

 「ままー」と湊が言った。

 ほかに何も言わなかった。

 ただ、「ままー」とだけ。


 その瞬間だったのだと、美月は後で思う。

 あれが、何かの分かれ目だったのだと。


 ポチが、湊を見た。

 それから美月を見た。

 それだけだった。


 ポチは、静かに立ち上がった。

 そして部屋を出ていった。


 翌朝、ポチは動かなかった。


 廊下の端に伏せていた。

 いつものように動かない、ではなく、動けない、だった。


 湊がポチの顔を触った。

 「ポチ?」

 返事がなかった。


 美月が膝をついて、ポチのそばにしゃがんだ。

 目は開いていた。

 でも、どこも見ていなかった。


 メーカーのサポートに電話した。

 「内部から停止命令が出ています」と言われた。

 「外部要因ではなく、機体の自己判断による機能停止です」と言われた。

 「修理すれば動きますが、同じことが起きる可能性があります」と言われた。


 美月は受話器を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。


 ハルが、ポチの横に来た。

 鼻を近づけて、それから離れた。

 廊下に座って、遠くを見た。


 湊は「ポチ、ねんねしてるの?」と聞いた。

 美月は「そうだよ」と言った。

 嘘ではなかった。


 夜、湊を寝かしつけた後、美月はポチのそばに座った。


 何かを言おうとして、やめた。


 ポチが何を考えていたのか、想像しようとした。

 できなかった。


 琥珀色の目に、光はあった。

 でも、そこに視線はなかった。


 ただ。

 湊が「ままー」と言ったあの声が、ずっと耳に残っていた。


 春になった。

 湊は保育園に通い始めた。


 朝、泣きながら登園するようになった。

 「ままがいい」と言うようになった。

 先生に抱っこされながら、ガラス越しに美月を見る顔が、少しだけ意地っ張りだった。


 美月はそれを見て、笑った。

 泣きそうになりながら、笑った。


 家には、ハルがいた。

 縁側で日向ぼっこをしていた。

 尻尾を立てて、美月の足元へやってきた。


 玄関には、ポチはいなかった。


 美月はしゃがんで、ハルを抱き上げた。

 温かかった。

 耳のうしろを掻くと、細い喉が鳴った。


 ハルが、一度だけ玄関の方を見た。

 美月も、つられて振り返った。

 何もなかった。


「……ありがとうね」


 誰に言っているのか、美月には分からなかった。

 でも、言わなければならない気がした。


 空は、まだ少し寒かった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ポチが何を考えていたのか、作者にも分かりません。

分からないまま書きました。

便利なものに頼ること、任せてしまうこと、それ自体は悪いことではないと思っています。ただ、そこに何かが宿っていたとしたら。そう考えた時に、この話が生まれました。

ハルだけが、知っているかもしれません。

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