第76話 猫の砦
私の話だ。
ひと目見て、やばいと思った。
その日の客先は住宅街の一軒家だったのだが、まず屋根だ。屋根瓦の代わりとでも言わんばかりに2リットルのペットボトルがびっしりと並んでいる。ラベルは剥がされているが中身には水が入っているようで、西日を反射してぎらぎらと輝いていた。
ブロック塀の前と上にもびっしりとペットボトルが並んでいる。一度は飲み干してから水を入れたのだろうか。そのすべてに開封した形跡があり、内側にコケが生えて緑色に変色している。
門扉脇のチャイムを押しても反応はない。壊れているのだろうか。アルミ格子の門を開けると、玄関までの細い石畳を残してまたしてもびっしりとペットボトルが並んでいる。ペットボトルの縁石に挟まれた回廊を玄関ポーチまで進み、インターフォンを押す。
「恵美さん? いらっしゃい」
玄関のインターフォンは無事に生きていたようで、中年の男がのっそりとドアを開けた。骸骨のようにやせ細った男が出てくるものと勝手に決めつけていたのだが、ややふくよかな普通の男で、広くなった額に前髪をぺたりと貼り付けてごまかしているところまでごくごく平凡だった。
やばい客だったら逃げてNGにしようと心に決めていたのだが、良い意味で肩透かしだった。外の異様な光景とは裏腹に家の中はごくごく普通で、男の一人暮らしとしてはむしろ小綺麗なほどだった。
いつも通りに仕事を済ませると、少し時間が余った。
男がタバコを吸いながら雑談を始める。
「ごめんね、外、驚いたでしょ」
「いえ、まあ……」
驚いたに決まっているが、いきなり答えにくい質問だ。私は曖昧に返事をする。
「猫がねえ、すごいんだよ、ここ」
「猫ですか」
「猫がねえ、本当にすごいの。夜になるとあっちこっちから集まってにゃあにゃあにゃあにゃあ。発情期なのかな。ギャーッ! って叫んだり。あれさあ、女の人の悲鳴とか、赤ちゃんの泣き声とかに聞こえてさ。毎晩毎晩。本当参っちゃうんだよね」
なるほど、それでペットボトルだったのか。
実際には効果がない都市伝説だと聞いたおぼえがあるが、わざわざ口にはしない。それにあれだけびっしりと敷き詰められていたら物理的に侵入を防げるだろう。
「隣の家のおばさんがさ、餌付けしてんだよ、たぶん。毎晩毎晩聞こえるんだよね。『こーいこいこいこいこいこいこい。こーいこいこいこいこいこいこい』って。来いじゃないんだよ。近頃じゃカラスまで集まるようになってさ。ガアガアガアガア、喧嘩してさ、バサバサ猫と。もううるさくてうるさくて。カラスは鳥目とか嘘だよ、鳥なのに。夜も元気だもん。バサバサガアガアニャアニャアギャーギャーこいこいこいこいこい、本当に勘弁してほしくてさ」
よほどストレスが溜まっていたのか、余った時間は男の一方的な愚痴で終わった。聞き流すだけだから楽なものだ。タイマーが鳴って、家を後にする。
家の前は私道で、迎えの車が入って来られない。行動までの短い道を歩こうと砂利道を踏んだときだった。
「ちょっとちょっと、あんたこの家の人?」
中年女性に声をかけられた。エプロンをつけた女性が、隣家の玄関から顔を覗かせている。私が振り返って立ち止まると、つっかけをぱたぱた鳴らしながら小走りにやってきた。
「奥さん? 娘さん? いやなんでもいいんだけど、いい加減にしてよ。■■さん、本当に迷惑なんだから」
「あ、いや、はあ……」
まさか「デリヘル嬢です」とは答えられない。本人に聞かれれば何か適当に嘘をついてごまかすだろうし、それと矛盾すると面倒だ。
この人が例の、猫やカラスに餌付けをしているおばさんだろうか。ペットボトルのことを迷惑に思ってクレームを言いに来たのかもしれない。
「夜中になるとね、毎晩毎晩。ホント迷惑で。あなた知ってるかしら。知ってるでしょ? ギャーとかニャーとか大声で叫んで。びっくりするのよ。怖いし。『こーいこいこいこいこいこいこい。こーいこいこいこいこいこいこい』って、来いじゃないのよ。何が行くのよ。そのうち警察呼ぶわよ。わかったわね?」
女性は一気にまくしたてると、自宅に戻っていった。
私は待機所に戻るなり、店長に言ってあの客をNGにしてもらった。近隣トラブルのある客と関わるのは面倒過ぎるのだ。




