第72話 脳出血
女の子から聞いた話だ。
常連客に人形作家がいた。
日本人形とも西洋人形ともつかない独特な造形と彩色が特徴で、たまにテレビにも紹介されるくらいには人気があった。リアルなのだけれどもどこか幻想的な、春の木漏れ日のような暖かみのある……なんて評価がされていたそうだ。
毎回指名される女の子も、初めのうちは人形になんて興味がなかった。
しかし、お世辞まじりに客の作った人形を褒めていたら、そのうちに本気で興味がわいてきた。自分なりにあれこれと勉強して質問するようになるとますます気に入られ、アトリエで制作中の作品を見せてくれるようにもなった。プレイそっちのけで、人形談義だけで予約時間が終わることもあったそうだ。
ある日、いつものようにアトリエに通されてぎょっとした。
突然作風が変わっていたのだ。
その作家は瑞々しい健康的な肌の塗りが特徴で、「■■の肌色」なんて異名もあったのだが、アトリエにある制作中の作品はみんな肌が不気味な緑色になっており、とても人間の肌の色とは思えなかったのだ。
「どうかな、新作。今回は新しいことに挑戦してみようと思ったんだけど」
「そ、そうですね……」
気味が悪いです、とはさすがに言えない。
これまでとは雰囲気が違うのでびっくりしました、と当たり障りのない感想でお茶を濁した。
気分を害するかと思えば作家はにこにこ顔で、「そうそう、これまでの自分の殻を破りたかったんだよね」とご満悦だった。
作品が完成してSNSで公開されると、既存のファンを中心に「気持ちが悪い」「今までの作品のファンだったのに」「奇を衒い始めたら作家としての終わりの始まり」と非難轟々で、支持する声はほとんどなく、ちょっとした炎上騒ぎとなった。
そんな中でも作家は少しも堪えた様子がないどころか、
「人間は保守的だからね。変化があると必ず最初は反発するんだ。こんなに反発があるってことは、それだけ新しい表現ができたって証拠だよ」
と会心の笑みを浮かべるほどだった。
「で、次の新作も見てほしいんだけどさ」
作家はアトリエの作業台にかぶせていた布を取り去った。
そして姿を表した物に、彼女は「ひっ」と息を呑んだ。
それは作風が変わったなんてものではない。めちゃくちゃだった。
肌は引き続き不自然な緑色。
左右の目は大きさが違い、角度も視線もばらばらだ。
赤みを帯びた昏い瞳は瘡蓋のようだ。
鼻は平坦で二つの穴が開いているだけ。
側頭部にも耳朶がなく、ピンポン玉ほどの穴がぽっかり開いている。
口は片側だけが異常に大きく、耳まで裂けて白い歯が見えている。その歯並びがよいのが不気味さを際立たせているように思えた。
髪だけは濡れたように艷やかな黒で、過去の作品の名残はそこにしか残っていないように思えた。
言葉を失い、震えてさえいる彼女を見て、作家は「うんうん」と満足げに頷くだけだった。
それからしばらくして、作家から指名が入った。
またあんなホラー映画の怪物のようなものを見せられるのかと思うと気が重いが、仕事は仕事だ。人形作家としてはもうファンではないが、金払いのよい客であることに違いはない。
作家の自宅は郊外の一軒家だった。
静かな場所のほうが制作が捗るのだそうだ。
玄関でインターフォンを鳴らす。
しかし、何度鳴らしても反応がない。
作業に夢中だと気が付かないことがあるのだ。
そういうときは勝手に入ってよいと言われているので、ドアノブをひねる。
鍵はかかっておらず、「■■さーん」と声をかけながら家の中を進む。
返事はない。
どうせアトリエだろう。
ドアを開けて、彼女はまたも息を呑んだ。
作家が床に倒れ、頭を抱えて呻いていたのだ。
慌てて救急車を呼び、作家は一命を取り留めた。
医者が言うには、脳出血だったらしい。
慢性的なもので、一年以上かけて症状が進行したのではないかということだった。脳出血には知覚異常を伴うことがあり、色覚や空間把握がおかしくなることがしばしばあるのだそうだ。
作風の変調はこれが原因だったのか……とハッとさせられたという。
手術は成功し、ひと月ほどで作家は退院した。
幸いにして予後は良好で、後遺症は一切残っていないらしい。
「いやあ、あのときはお世話になったね。本当にありがとう。それにしても、脳出血中に作った作品、いま見直すとぞっとするよ。頭がおかしくなってたんだねえ」
作家は病気を公表し、その頃に作った作品はすべて封印したという。
SNSは無事を喜ぶ声や、新作を期待するファンの声で溢れかえっていた。病気で作風が変わってしまった経緯が一般の興味を引き、大きくバズったことで新たなファンも増えているようだった。
「それで、改めての新作なんだけど、見てくれるかな?」
喜んで、と彼女は頷く。
作家は屈託のない笑顔を浮かべて、作品を覆う布を取り払った。
それはねじくれた黒い塊だった。
蛇と枯れ木を無理やり人型に撚り合わせたような。
表面は塗りたてのタールか。
光を吸い取っているかのような濡れた黒。
焦げ臭い不快な匂いが見ているだけで鼻腔に満ちる。
両手は五指ではない。しかし、何指なのかは数えられない。
喘ぐように差し出されたその指はいびつで複雑に絡み合っている。
両脚は逆関節で、恐竜めいた鉤爪の間に水かきが張っていた。
「どう?」と作家は無邪気に笑っていて。
ぷっつりと記憶が途絶えて。
気がつけば送りさんの車に乗って待機所に帰る途中だった。
その日を境に、作家は行方をくらまし音信不通になってしまい、例の新作も発表されることはなかった。
時折、最後に見せられた作品が脳裏に蘇ることがあるのだが、顔の造形だけはどうしても思い出せないという。




