第70話 異世界へ
「恵美さんは『消えたい』って思ったことはありますか?」
待機所のソファで文庫本を読んでいた私に、まるでお人形さんみたいに綺麗な女の子が話しかけてきた。まりあだ。
まりあは自殺をした美大志望の女の子と入れ替わるように入店してきて、それ以来なぜか私に懐いている。別に特別に親切にしたおぼえもなく、申し訳ないが距離感がバグっていて少し気味が悪い。
「人間なら誰でも、生きていれば一度くらいはそんなことを思うんじゃないの」
とはいえ、無視をするほど嫌っているわけでもない。
とりあえず一般論でお茶を濁しておく。
「人間なら誰でも、ですか」
まりあは唇に人差し指を当てて小首を傾げた。
他の子がやればあざといが、まりあがやるとさまになる。
「やはり、必要としてくれる人がいなくなっても、愛する人が愛した姿のまま静かに消え去りたいと思うのでしょうか?」
「はい?」
思わず聞き返してしまった。
まりあは不思議ちゃんだ。結構な割合で何を言っているかわからない。正直、これで顔が可愛くなかったら誰かに殴られているんじゃないかと思う。
「なになにー? 何の話ししてるのー?」
そこに別の子がやってきた。
茶髪でギャルメイクの派手な子で、まりあとは正反対のタイプの美人だ。
「人間なら誰でも、消えたいと思うことがあるというお話です」
「深ーい! 深いじゃん! でもわかるよぉ~。お姉さんもねえ、消えたいと思うこと毎日あるもん」
とてもそうとは思えない、明るい口調で彼女は言う。
「本当ですか?」
「ほんとほんと、大マジのマジ。だからねー、こんなおまじないを試してるんだ」
「おまじない?」
「こういうやつ!」
彼女は化粧ポーチを漁ってリップスティックを取り出した。ドラッグストアのレジ横に陳列されているような安物だ。
キャップを取ってぐりぐりひねり、根本まで出したリップを私たちの目の前にかざした。
リップの側面に何か模様が刻み込んである。かすれて見えづらかったが、どうやら彼女の名前らしい。
「このリップの横に自分の名前を書いて、最後まで使い切るの。そうするとこの世界から消えて、違う世界に行けるんだって」
「異世界転生的な?」
「そうそう、それで婚約破棄とかされちゃうの」
「婚約破棄をされるのがうれしいのですか?」
最近話題のアニメをなぞった冗談に、まりあは真顔で反応する。
思わず笑ってしまう。こういうところがどうも憎めない。
「わたくしもやってみたいです」
「いいよー。じゃあこれあげる!」
彼女はポーチから新しいリップスティックを取り出した。
特売でまとめ売りしていたらしい。異世界に旅立てるというのに、なんとも安いおまじないだ。
「あ、だけどね。名前は銀の針で書かないとダメなんだって」
安いと思ったら今度は高くなった。銀の針なんてどこで買うんだろう。用意のいいことに、彼女は銀の針もまりあに貸してあげた。
「あんたもやる?」と水を向けられたので、頷いておく。断っては場がしらけてしまうだろう。
そんなお遊びから二ヶ月ほどが過ぎた頃だろうか。
ギャルの彼女はいつの間にか店をやめ、音信不通となった。まりあによると、電話やメッセージも通じず、SNSもぷっつりと更新が止まっているらしい。
「違う世界に行かれたのでしょうか?」
「さあ、今頃スパダリに溺愛されてるかもね」
「すぱだり?」
まりあは小首を傾げる。それから桜色の小さな唇をまた動かす。
「わたくしもリップを使い切ったのですけれど……」
「向き不向きがあるのかもね」
じつは私も使い切ったが、これといって変わったことは起きていない。
所詮は子ども騙しのおまじないにすぎなかったということだろう。




