第56話 鼻提灯
私の話だ。
仕事柄、客が泥酔していることも多い。ひどい場合は指定のホテルを尋ねたのに、中で眠り込んでしまって鍵を開けてもらえないことがある。こうなるとたまったものじゃない。おまんまの食い上げだ。
反対に、客が泥酔しているおかげで楽ができることもある。なんとか会計まで済ませていざプレイ……という段になってから眠ってしまう客も珍しいとは言えない程度には存在するのだ。
その日の仕事先はビジネスホテルで、客はおそらく出張のサラリーマン。ホテルに着くなりデリヘルを呼んだのだろう。着替えてすらおらず、よれよれのグレーのスーツを身につけたままだ。
おぼつかない手から料金を受け取ると、男は「ちょっと休憩」と呟いて、ベッドにどさっと仰向けに倒れ、目をつむってすぴーすぴーと寝息を立て始めた。
これはありがたい。
私はそうっとスイッチに手を伸ばし、部屋の電灯を消す。疲れているならゆっくり眠らせてあげようなどという仏心ではもちろんない。このまま時間まで眠っていてくれれば何もせずに料金がもらえるという算段だ。
私はスツールに腰を掛け、フットライトのわずかな明かりを頼りに文庫本を読み始めた。
んごっずびっずびび
数分か、あるいは十数分か。
しばらく経つと男の寝息が変化し始めた。
いびきだろう、と最初はとくに気にしなかったのだが、
んごっ ずびっずびびっ ごがっ
さすがに耳に障る。
男の方を見てみると、鼻からぷっくり鼻提灯が膨らんでいた。
風船のように膨らんではしぼみ、膨らんではしぼみ、見事なものだ。
こんなものは漫画やアニメでしか見たことがないと感心して見入ってしまう。
がっごっ ずびっ ぜえぜえ ごびっ だっずびび
鼻提灯は膨張と収縮を繰り返しながら、だんだんと大きくなる。
最初は親指くらいの大きさだったものが、両手で丸を作ったくらいの大きさにまで膨らんできた。
んがごっ ぜえ だっがっ ぜえぜえ だぜっだぜっだぜっ
ところが、そこまで来るとどうも様子がおかしい。
鼻提灯が滑らかな曲面ではなく、でこぼこと蠢くのだ。
ぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっ
まるで小さな生き物が中に閉じ込められて、暴れているみたいに。
だぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっだぜっ
ぱちん、と鼻提灯が爆ぜて、
でたぁぁぁああああぁああぁあああああああぁああああああああ!!!!
凄まじい絶叫が響いて、思わず文庫本を放りだして耳を塞ぐ。
男がガバッと起き上がり、焦点の合わない目でこちらを見た。
「んん……俺、寝てた?」
私はうんうんと頷くことしかできなかった。
そのタイミングで「ぴぴぴぴ」とスマホのタイマーが時間を告げた。
「す、すみません、時間なんで」
「ああ、そう……」
男は再びベッドに倒れ込む。
すぴーすぴーという寝息を背中に聞きながら、私は慌てて部屋をあとにした。




