第50話 まりあ
どうも私は妙な子に懐かれやすいらしい。
その日も待機所で突然話しかけられた。
「こんにちは。まりあがね、ご挨拶をしたいんだって」
「まりあ?」
文庫本から顔を上げたが、目の前には一人しかいなかった。チェック柄のワンピースにベレー帽。子どもみたいな服装に、子どもみたいな顔をした女の子だった。たしか美大志望で、学費を貯めるために働いているとか聞いた気がする。
「まりあ、ほら、ご挨拶して。『お初にお目にかかります。どうぞよろしくお願いします』って」
彼女は誰もいない空間に話しかけ、一呼吸置いて、
「よくできました。挨拶は社会人の基本だからね。一人でもちゃんとできるようになるんだよ」と微笑んだ。
何が何だかわからない。
芸術家志望には変わり者が多いらしいが、彼女もそういう奇人の類なのだろうか。それにしても「お初にお目にかかります」なんて挨拶は、時代劇でしか聞いた記憶がない。
「恵美さんは、まだ見えない?」
反応に困っていると、彼女がそう続ける。
まだも何も、存在しない何かが見え始めてしまったら病院案件だろう。
「困ったわね。もうご挨拶できると思ったのだけれど。うん、そうよね。焦っても仕方がないわ。いずれはちゃんとするのだろうし。ええ、わかるわ。うんうん、これから説明するね」
その彼女は何もない空間と会話をしている。
ひょっとして、イマジナリーフレンドというやつだろうか。どうやら本格的に病院案件のようだ。
「いいえ、イマジナリーフレンドじゃないの」
私の思考を読み取ったように、彼女が言った。
「タルパ、ご存知? タルパっていうのよ」
「タルパ?」
思わず聞き返してから、後悔する。
絶対にスピった長話が始まるだろう。
「長いお話にはならないわ。短くまとめるもの。チベット神智学の……って始めると長いわね。要するに人造人間、ホムンクルスの一種なの。意図的に作り出したイマジナリーフレンド。でもそれは独立した心と魂を持って、やがて創造主から自立するの。まりあはそこまで来ているのよ。ね、まりあ?」
彼女は何もない空間に笑いかける。
ああ、いよいよヤバいやつだ。まりあという名前も聖母マリアからの借用だろう。安易だ。そういうのは中学二年生で卒業して欲しい。
「それでね、私もそろそろトリヴァルガを卒業してヴィモークシャを迎えられそうなの。これは喜ばしいことなんだけど、困ったことがあってね」
困っているのはこっちだ。何を話しているのかさっぱりわからない。
「まりあが一人ぼっちになっちゃうの。だから、私がいなくなった後のことをお願いしたいな、と思って。恵美さんならきっと安心できるから。ねえ、いいでしょ、恵美さん」
彼女の目は爛々と輝いて、ここではないどこかを見ている感じがした。
私は怖さ半分、面倒くささ半分で、適当に頷いた。
「ありがとう。これで安心したわ。それじゃ、まりあ、行きましょう。もう不安になることなんてないのよ」
それを肯定と解釈したのか、彼女は満足げに笑って待機所から出ていった。どうやら退勤ついでに話しかけられたようだ。余計なことをせず、黙ってさっさと帰ってくれればよかったのに、と思った。
彼女が飛んだのはその数日後だ。
仕事をバックレたという意味でもあり、文字通り物理的に飛んだという意味でもある。自宅マンションのベランダ、十三階から飛び降りたそうだ。当然即死である。
ひょっとして数日前の会話は彼女なりのSOSだったのだろうか。それにしてはいくらなんでも解読の難易度が高すぎる。勘弁してほしい。あのとき私が気がついていれば……なんて後悔もわいてこないほどだ。
入れ替わりに、新しい女の子が入店した。
源氏名はまりあ。
私のところへ小さな歩幅でとことこと歩いてくると、
「恵美さん、お初にお目にかかります。どうぞよろしくお願いします」
と、聖母みたいにおっとりと微笑んだ。
私が彼女に名乗っていたかは、よくおぼえていない。




