第32話 小人の手形
手形といえば、こんな話もある。
女の子から聞いた話だ。
客先は築古のアパートの二階だった。
部屋の主は三十前後の細身の男で、取り立てて特徴らしい特徴もない。1Kの部屋は男の一人暮らしにしては小綺麗に片付いている。シングルベッドが一つと、箪笥や本棚代わりのカラーボックス。何やらわからない専門書の隙間に好きな漫画の新刊があったので、仕事が終わったら買って帰ろうなどと思う。
ベッドに腰掛けた男に手と口で奉仕すると、あっさりと終わって時間が余ってしまった。隣りに座って漫画の話を振ってみたりするが、あまり話好きではないようでそれほど盛り上がらない。間が持たなくなったのか、男はタバコを吸いにベランダに出た。
手持ち無沙汰になり、窓ガラス越しに男の背中を眺めていると、ちょっとしたことに気がついた。窓ガラスのクレセント錠のあたりに小さな手形がついていたのだ。差し渡し3センチほど。人形のように小さな手形だ。カエデかモミジの葉が張り付いて、こんな跡を残したのかもしれない。
他はきれいにしているのに、見落としているんだな。
なんとなく気になって、ティッシュを一枚抜いてこすってみるが、落ちる様子はない。手形は外側についているらしい。そこまでして掃除をする義理もないのでティッシュを丸めてゴミ箱に捨てる。
タバコを吸い終えた男とほとんど無言の十数分を過ごし、タイマーが鳴って部屋をあとにした。
これはリピートはないな……と思っていたが、あまり余計なことをしゃべらなかったのがかえってよかったのかもしれない。意外なことに男は常連になった。月に2~3度ほど指名される。少しは打ち解けてもよさそうなものだが、相変わらず男との会話は弾まなかった。
そのうち妙なことに気がついた。
窓ガラスの手形が増えていたのだ。クレセント錠の脇に一つだけあったものが、その上に点々と続いている。まるでガラスの上を小人の赤ちゃんが這ったかのように互い違いに並んでいた。
何だろうと不思議に思うが、窓ガラスの汚れを指摘するなんて小姑のようだ。せっかく掴んだ常連客を手放したくはないので、結局何も聞かなかった。
その後も手形は増え続けた。最初は窓枠に沿って垂直に上がっていたのだが、やがて斜めに流れ出した。そしてついに窓ガラスをはみ出し、途中で切れている。
手形の行く先を追ってみると、そこは換気扇だった。
直径三十センチもない、鎧戸のかかった換気扇。
さすがに気味が悪くなって、手形のことを男に伝えた。
男は嫌そうな顔をして、ウェットティッシュの箱を掴んでベランダに出て、乱暴に窓ガラスを拭った。
手形は消えて、それっきり会話はなかった。
そして、ぱったりと予約が途絶えた。
手形を指摘したことで、些細な汚れも見逃さない細かい女だと嫌がられたのだろうか。それとも、あの手形の持ち主が換気扇から侵入し、何かが起きたのか。予約がなくなってしばらくはそんな想像を巡らせていたが、現金なものでそのうちに男のことを思い出すこともなくなってしまった。
半年ほど過ぎた頃だろうか。
その日の客先はタワーマンションで、これはよほどの金持ちだと気合が入る。そして部屋に入って対面して驚いた。指名したのはあのときの男だったのだ。
「ひさしぶりですね、嫌われちゃったのかと思ってました」と挨拶すると、
「いや、ごめんごめん。急に海外出張になって。シリコンバレー。働いてた会社が外資に買収されてさ――」とまるで別人のように、にこやかに話す。
服を脱げば体つきも変わっていて、細身だった体は筋肉をまとって分厚くなっていた。されるがままだったプレイも積極的になっていて、演技ではなく何度もイカされてしまった。
プレイが終わり、荒い息を整えながら、なんとなく窓に目を向ける。
以前のアパートよりもずっと広くなった窓ガラスは曇り一つなく、高層階から見える夜景を映し出していた。もちろん手形なんてどこにもない。
平べったい箱に入った金箔押しの紙巻きタバコをくわえる男にライターを差し出しながら、
「なんだか、すごく変わりましたね」と何の気なしに言った。
すると男は意外そうに目を丸くして、
「あらら、わかるものなんだね。僕もまだまだだなあ」
と白い歯を輝かせて笑った。
今でも指名は続いているが、ひとつ気がついたことがあった。
男のうなじの真ん中、ぼんのくぼの辺りにあの手形にそっくりな痣があったのだ。
アパート住まいの頃にそんな痣があったかは思い出せないという。




