第31話 浴室の手形
私の話だ。
その日の客先は住宅街の一角にある一軒家だった。
家の前に車を停めないでくれ、とのことだったので少し離れたところで降りる。
時間は昼過ぎ。灰色の雲がのしかかるように空を埋め尽くしている。
仕事道具を詰めたスポーツバッグを抱えて、黒ずんだブロック塀に挟まれた道を歩いていると、あちこちから興奮した犬に吠えかかられる。格子の門扉に体当たりをしてがしゃがしゃ揺らす犬もある。ほとんどの家に猛犬注意のステッカーが貼られているが、そんなものがなくとも誰でも気がつく。
人の姿は見えないが、じっとりと監視されているような視線を感じる。そういう街だった。なるほど、これは車で来るなと言われるわけだ。人間が歩いてこれなのだから、見慣れない自動車が通りなどすればもっと大騒ぎになるのだろう。
客の家もブロック塀で囲まれていたが、猛犬注意のステッカーはなかった。
胸ほどの高さの門扉は開けっ放しで、脇のインターフォンを押しても何も反応がない。恐る恐るアプローチに足を踏み入れるが、犬はいなかった。別に犬が苦手なわけではないが、吠えかかられれば当然怖い。
玄関のインターフォンは普通に反応してくれた。
ドアを開けて現れたのは恰幅の良い中年男性で、洋画に出てくる肉屋を真っ先に連想した。エプロンと肉切り包丁を持たせればそのままだ。
築古の家の中は相応の年月を感じさせたが、磨きたてのように清潔だった。大掃除でもしたのだろうか。洗剤や消毒薬の匂いがほんのり漂っている。一人暮らしのようで、他の家人の気配はない。何の仕事をしているのかはわからないが、稼ぎはよいようだ。
寝室を案内され、それからバスルーム。
折り戸ががらりと引かれると、今度は目に刺さるほどの強烈な刺激臭が溢れてきた。
「ごめんごめん、掃除したばっかりでさ。大仕事だったんだよ」
涙がこぼれそうなのを我慢しながら首を横に振る。汚いよりはよっぽどマシだ。それにしてもここまで念入りに掃除をするとは潔癖症なのだろうか。しかし、タワシみたいな剛毛に覆われた男に、そんな気配は少しも感じ取れなかった。
熱いシャワーの湯気が浴室を満たすと、目も鼻もぐっと楽になる。きれいに掃除をしたと言っていたが、鏡までは行き届いていなかったようだ。別の嬢を呼んだときのものか、曇った鏡に明らかに男のものではない手形が浮き上がっていた。
「おっと、こりゃ失敬」
男は洗剤を大量にスプレーし、スポンジでごしごしと擦る。もこもこと沸き立つ泡とともに刺激臭が広がる。しかし、擦っても擦っても、洗い流すたびに手形が浮かび上がった。
「しつこいな、もう」
ごしごし、ごしごし、ごしごしごしごし
私そっちのけで男は掃除を続ける。
手つきがどんどん乱暴になり、大汗をかきながら肥満体を揺らす。結局手形は消えず、掃除を眺めている間にタイマーが「ぴぴぴ」と時間を告げた。
「このことは誰にも言わないでね」
帰り際、真剣を通り越してドスのきいた目つきでそんなことを言われた。しかし、一体何を秘密にしろというのかわからない。そもそも客の話など外で吹聴するものではないのだ。まあ、待機所の雑談ネタぐらいにはするが。
とりあえず「もちろんです」と頷いて、男の家をあとにする。
どういうわけか、帰り道は来るときよりもいっそう犬に吠えられた。あの様子でリピートはないだろうが、できればこの街にはもう来たくないな、と思った。
後日、待機所のテレビでニュースを眺めていて驚いた。
あの肉屋のような男の顔写真が大写しになっていたからだ。それからブルーシートで覆われた男の家に、大勢の警察官が出入りしている様子が映し出された。テレビ越しにも犬の吠え声がうるさいほどに聞こえてくる。
それに負けじと叫ぶリポーターによると、連続バラバラ殺人の容疑者が逮捕されたそうだ。容疑者はもちろん、あの男。
あの浴室で一体何をしていたんだろう。
洗剤と消毒薬の匂いが、鼻の奥にツンと蘇った気がした。




