第26話 白い手すり
女の子から聞いた話。
その日の客先はかつてニュータウンと呼ばれた一角の五階建てマンションだった。夜中でも一目でわかるほどに古く、老朽化が進んでいる。街灯に弱々しく照らされたくすんだベージュの壁面には、黒い筋が汗のように垂れており、最近塗り替えたのか、ベランダの手すりだけが不自然に白く浮かび上がっている。駐輪場には錆びついたママチャリがまばらに並んでいた。
客の部屋は五階。エレベーターはなく、苦労して階段を登る。
折からの猛暑もあり、汗で溶けてしまいそうだ。下水が逆流でもしているのか、饐えたアンモニア臭がこもっており、たまらず鼻をつまむ。やっとの思いで五階にたどりつき、息を整え、化粧崩れをチェックしてインターフォンを押した。
ドアの隙間からのっそりと顔を出したのは陰気そうな顔の男だった。二十代後半だろうか。目の下には濃い隈、げっそりと頬がこけ、その若さにしては寂しい頭髪がべったりと頭蓋骨の形をしている。
「■■さん? 入って」
声もぼそぼそと陰鬱で、嫌な予感がした。ちょっとやばい客に当たってしまったのではないか。
部屋はごく普通の男の一人暮らしといった様子だった。
食器や調理器具の少ないキッチン。背の低い本棚には少年漫画と申し訳程度のビジネス書。その上には何かのおまけでついていたのだろう安っぽいフィギュアが無造作に並んでいる。
床には薄っぺらい布団が一組。しけってたら嫌だな……と思って、さり気なく触れてみると、意外にもしっかり乾いていた。カーテンの影に置かれた掃除機に似たものは、どうやら布団乾燥機のようだ。
意外と言えば、壁際には室内用の大きな物干し台が折りたたんで立て掛けられていた。どうせ男の部屋だろうという先入観で気がつくのが遅れたが、アロマディフューザーもそこかしこに置かれている。地雷客かと思ったが、反対に潔癖症のたぐいかもしれないと思った。
ばさっ
ベランダ側から何かが聞こえた。分厚い遮光カーテンに隔たれて、外は確認できない。ベランダに置いた荷物が崩れたのだろうか。部屋の中はきれいだが、ベランダは片付いてないのかもしれない。
風呂場もきれいなもので、目立つカビやぬるつきはない。古い建物だけにさすがにあちこち黒ずんでいるが、かなりきれいにしている方だろう。男の背中を流しながら、そんなことを考える。
いざプレイが始まっても、とくに変わったことはなかった。強いて言うなら、外から「ばさ」「ばさ」とかすかな物音が聞こえるくらいだ。ゴミ袋が風で揺れているとか、そんなところだろうと思った。
手で大きくして、避妊具を被せ、口で奉仕し、それから要望に合わせて色々する。正常位の素股がお好みのようで、最後はそれでフィニッシュした。
汗ばんだ身体がのしかかる。肋骨が浮くほどに痩せた男なのにやけに重い。まあ、これはこの男に限ったことではなく、事後の男はみんな素の体重より重くなる。
ばさばさばさばさばさばさばさばさ
外の物音が突然大きくなった。
身体に感じていた重みがふっとなくなる。
男が突然立ち上がったのだ。
そしてカーテンをちぎれんばかりに乱暴に引いて、怒鳴った。
「いい加減にしろよこの野郎!!」
ベランダの外には、赤い点が無数に光っていた。
目を凝らすと、鳩、鳩、鳩。
数え切れない鳩の群れが手すりにびっしり並んでいる。
男が窓を開け、布団たたきを振り回すと、鳩はばさばさとうるさいほどの羽音を残して夜空に散っていった。
生ぬるい風が吹き込み、目の奥にしみるような強烈なアンモニア臭が押し寄せた。たまらず咳き込み、嗚咽する。
男は「ああ! 畜生!」と毒づいて窓を閉め、消臭スプレーをでたらめに吹きまくった。
男はぜぇはぁと荒く息をつき、こちらを見て言った。
「ごめんね、お風呂場ならまだマシだから……」
換気扇を回した風呂場で時間いっぱいまで無言で過ごし、それから急いで着替えて部屋をあとにした。
後日、日中にマンションの前を通ってわかったことがある。
新しく塗り直されたようなベランダの手すりは、鳩の糞の汚れで真っ白に染まっていたのだった。
この女の子は肺を悪くして今も病院通いを続けている。




