第11話 ジキルさん
一人称と言えば、こんなお客さんがいた。
ジキルさん、というあだ名の週3~4回は利用する超常連だ。
呼んだ嬢によって俺、僕、私、わたくし、自分、わし、わい、小生、それがし、朕、余……など、バリエーション豊かに一人称が変わり、それぞれで立ち居振る舞いも変わる。
まるで多重人格、ということで『ジキル博士とハイド氏』にちなんだあだ名がついた。
これだけ聞くとかなりアブない人物だが、自宅はタワマンの屋上に建つペントハウス。おそらく数億円の物件。どうやらマンション丸ごと彼の持ち物らしい。大地主の息子であるとか、大物政治家の隠し子であるだとか、株で一発当てた億り人だとか色々噂されていた。
金払いがよく、チップもくれる。ジキルさんから指名を受けた嬢は羨ましがられることしきりだった。玉の輿を狙って色恋営業を仕掛ける嬢もいたが、そういう素振りを見せると指名がぱたりと止むという。ジキルさんに色恋は厳禁、店ごと嫌われてしまっては売上に大きく響くので、店長直々に注意がされるほどだった。
そのジキルさんから、ついに私にも指名が来た。
見上げると首が痛くなりそうなタワマンのエントランスでパネルを操作する。
インターフォン越しに名乗ると、無言のまま自動ドアが開いた。
ガラス張りのエレベーターが夜空に上っていく。
街並みがぐんぐんと遠ざかり、ジオラマのような景色に変わっていく。
私に対してはどんな一人称になるのだろう。
俺様、わて、あっし、おら、おいら、おいどん、拙者、やつがれ、みども、手前。いや、男の一人称には限らないのか。あたし、あーし、うち、わらわ……。
乘っている時間が長いので、益体もないことを考えてしまう。
浮遊感。
ちん、とエレベーターが停まる。
ドアが開くと、すぐにまたドア。ドアフォンを押すと、ガチャリとドアのロックが外れた。
「お邪魔しまーす」
遠慮がちに声をかけながら、ドアノブを回してドアを開ける。そろそろドアがゲシュタルト崩壊しそうだ。
十人以上が脱ぎ散らかしても余裕がありそうな三和土でブーツを脱ぎ、用意されていた革張りのスリッパを履く。正面は大きな窓で、ウッドデッキの向こうに夜景が広がっている。通路は左右に伸びており、どちらに行けばいいのかわからない。
「すみませーん」
声をかけると、右手から何か物音がした。
無闇に幅広な廊下を物音の方に向かって進む。
突き当りのドアにはすりガラスの入ったスリットがあり、何か動くものが見えた。
ノックをする。
「こちらですか?」
ごろごろと物音がする。
何か重たいものを転がすような音。
ノックを繰り返すが、そのたびに同じ物音が返ってくる。
入ってよい、ということだろうか。
「失礼します」と声をかけてそっとドアを開ける。
裸の男が、膝を抱えて床を転げ回っていた。
思わず、固まってしまう。
ごろごろ、ごろごろごろ、ごろごろごろごろ。
足元に来て、ぴたりと止まる。
ちょうど土下座しているような格好で、うなじまできっちり整ったツーブロックの後頭部と、ムダ毛ひとつないつるりとした背中がこちらに向かって丸まっていた。
「あのう、恵美ですけど、どうしたらいいですか?」
「…………」
返事はない。
息遣いすら聞こえないが、ちゃんと生きてはいるとは思う。
「あの、料金は」
ごろり。
半回転する。
その先にはバースペースがあり、カウンターにピン札で料金が置かれ、隣には百ドル紙幣が一枚添えられている。そういえば、チップはなぜかドル札でくれると聞いた。
「これ、チップですか?」
ごろり。
半回転。
イエスなのかノーなのか、わからない。
さすがに手を付けないことにする。
「どうしたらいいですか?」
「…………」
無言。
ぴくりとも動かない。
要求がなければどうしようもない。
しばらく立ち尽くし、「椅子借りますね」と声をかけ、ソファに腰を下ろした。返事はなかったが、これくらいで怒られることはないだろう。
座ったところで、何も変わらない。
数字の書かれていないウォールクロックの銀色の針が時間を刻む音だけがやけにうるさく響いた。
五分、十分経つうちに、きっとこういうプレイなのだと納得してくる。
今日の彼はきっと物言わぬ無機物なのだろう。
そういう扱いを望んでいるに違いない。
バッグから読みさしの文庫本を取り出して、続きを開く。
だいぶ昔のSF小説で、しゃべる石ころが登場する。
石ころですらしゃべるのに、彼は一言も発さない。
部屋を勝手にうろうろするわけにもいかないので、そのまま本の世界に没入する。ぴぴぴ、とタイマーが鳴って、予約の2時間が過ぎたことに気がついた。
「帰りますね。あの、ありがとうございました」
一応、最低限の礼儀としてローテーブルに名刺を置き、玄関に向かう。
ブーツに足を差し入れ、ジッパーを引き上げる。
ごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろ
背後からものすごい音が迫ってきた。
思わず「ひっ」と悲鳴がこぼれる。
振り返ると、足下にツーブロックの後頭部、つるりとした背中。
そして肩甲骨の間に貼りついた百ドル紙幣。
ベンジャミン・フランクリンのビーグル犬みたいな瞳と目が合う。
「チップ、ですか?」
無言。
半歩下がる。
ごろ。
同じだけ転がろうとして、起き上がりこぼしみたいに戻る。
止まるには半端な距離だったらしい。
百ドル紙幣を剥がすと、私が離れても動かなくなった。
「えっと、このたびはありがとうございました。またのご指名をお待ちしてますね」
嬢としては妙にかしこまった挨拶をして、部屋を後にした。
それから何度か指名されたが、毎回この調子で、結局彼が何になりきっているのかは判明しなかった。




