第98話 踏まないでね
女の子から聞いた話だ。
その日の客先は築古の物件をリノベーションした、いわゆるヴィンテージマンションだった。外装も内装も綺麗に直され、外観からは古さを感じさせない。部屋の中も同様で、シックな雰囲気に調えられている。30センチ四方くらいのカーペットタイルが敷き詰められた、モノクロのモザイク模様の床が特徴的だった。
「あ、そこ踏まないでね」
客に注意され、リビングに入ったところで足を止めた。
カーペットタイルが一枚だけ赤色になっていて、そこを踏んではいけないという。
張り替えたばかりとか、そういうことだろうか。
素直に言う通りにし、赤いタイルを避けて通った。
それからいつも通りに仕事を済ませる。
寝室もバスルームも広く、仕事のしやすい部屋だった。
プレイ後に時間が余ったので、軽く雑談をする。
ペットの文鳥の動画を見せると、「へえ、可愛いね」と食いついた。
ぴょうぴょう、ぴょうぴょうと変わった声で啼く自慢の子だった。
「僕もペットを飼ってみたいんだけど、不注意なタチだからどうもね」
「そうは見えないですけど」
男は清潔感があり、部屋もきちんと掃除が行き届いている。
ズボラなタイプにはとても見えなかった。
「いや、本当にうっかりが多いんだよ。部屋を片付けてるのも、そうしないとミスっちゃうからでさ」
「あー、忘れ物や失くし物の防止には整理整頓がいいって言いますよね」
「そうそう、そういう感じで」
雑談も程よく盛り上がり、よい雰囲気のまま部屋を後にした。
首尾よくリピート客になり、月に1回ほど指名されるようになった。
初めのうちはリビングに入るたびに、「そこ踏まないでね」と赤いタイルの注意をされたのだが、そのうちにいちいち言われなくなった。彼女の方もすっかり習慣になっていて、言われなくても無意識に赤いタイルを避けるようになっていた。
しかし、あるときふと気がついた。
張り替えで接着剤が乾くのを待っていたのだとしても、もう何ヶ月も経っている。言わなくなったのは、単純にもう踏んでも問題ないからではないだろうか。
そう思うと、これまで律儀に避けていたのが馬鹿らしくなった。
帰り際、ちょっとした悪戯気分で赤いタイルにそっと足を下ろしてみる。
ぐちっ ぼぎっ
「ひっ」
足裏から奇妙な感触がして、思わず足を引っ込めた。
柔らかくて小さいものを踏み潰したような、そんな感触。
慌てて足を引いて確かめるが、カーペットの上にも足の裏にも何もない。
気のせいだったのだろうか。
「あーあ、踏んじゃったんだ」
目を眇めた男がベッドルームから顔を出していた。
「ご、ごめんなさい」
見られていたとは気がつかず、咄嗟に謝る。
やはりまだ踏んではいけなかったのだろうか。
「いや、謝ることはないよ。踏まれたからって、別に僕が困るわけじゃないから」
ではどういうことなんだろう。言いたいことがわからない。
しかし、次の予約時間が迫っている。
気になったが、そのまま部屋を後にした。
仕事を終えて自宅に帰って、すぐに違和感に気がつく。
やけに静かなのだ。
普段なら帰宅するなり「ぴょうぴょう」と例の声で迎えてくれるのだが。
ひょっとして体調を崩しているのだろうか。
驚かせないよう部屋の電灯は消したまま、鳥かごの様子を見ようとリビングにそっと足を踏み入れた。
ぐちっ ぼぎっ
足の下で、潰れた文鳥が死んでいた。




