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薄っぺらな恋愛

薄っぺらだった恋

『薄っぺらな愛』の続編です


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 国を捨てて、家を捨てて、私は全く別人になった。


 十五年を数えた恋は儚く消え、逃げ出すようにいなくなる。それを卑怯とは思わないが、それでも少しだけ残念に思えた。


 ロベルタ・アマギウス改め、アリアナ・ローバーテイク。それが、これから私が一生を共にする名前である。


「アリアナ、よく来たね。長旅で疲れたろう」


「いいえ、お義父さま。元はと言えば(わたくし)のわがままですもの」


「僕はそんな風に思っていない。今日はゆっくり休みなさい」


 これから義父となるローバーテイク侯爵は、亡き母の兄である。

 非常に厳格で生真面目な性格ではあるが、私に対してはいつも優しかった。今回の婚約破棄騒動を話した時も、力になれる事はなんでもすると言って私を受け入れてくれた。

 ただ、それが単なる親切心ではない事も理解している。


 ローバーテイク侯爵家は、国内において夫婦仲がすこぶる良い事で有名だった。なんでも、お義父さまが惚れ込んでの大変な大恋愛の末に結ばれたのだとか。

 聞いている私が恥ずかしくなるような話ではあるが、しかしそれでも家族として完璧というわけではない。

 優秀で厳格で義と忠に厚く伝統を重んじ王からの信頼もある貴族の鑑ではあるものの、ただ一つ跡取りがいなかったのだ。


 聞けば、そういった事は少なくないのだという。健康状態に何ら問題のない男女ではあるが、子供だけができない。そんな事例が。

 貴族として跡取りがないというのは非常にまずいため、養子を取ろうと思っていたところに私の話があったのだ。


 決して、打算のみで受け入れられたわけではない。侯爵の性格を考えれば、私を想っての事であると信じている。

 しかし、この恩に報いない事などできるだろうか。少なくとも私は、そんな不義理をなすほど恥知らずではないつもりだ。


 つまり、私の仕事は——


「早く結婚しないと……」


 婿を取り、跡取りを産む事。

 十五年もの間意味のない恋にうつつを抜かしていた代わりとしては、むしろ幸福な方だろう。

 なにせ、それは貴族としてごく当たり前の使命だ。


 結婚相手の世話は、侯爵がしてくれた。家柄も性格も年齢も申し分ない相手をいく人が紹介されて、いい人はいるかと優しく問いかけられた。


「選んでよろしいのですか?」


「もちろんだ。君が納得しない結婚などする必要はない」


 それは、身に余る優しさだ。これ以上にないというほどの厚意であり、養子という立場にあっては考えられないほどの厚遇である。

 しかし、それだけに私は困ってしまった。

 思えば、私は今まで何かを選んだ事がなかったのだ。婚約は親が決めた事だし、初恋すら相手からの告白によって始まった。いざ目の前に自由があると分かった途端に、自らの意志を見失ったのだ。


 果たして、私はどうしたいのだろう。

 そんな私の気持ちを察してか、侯爵は急かしたりしなかった。


 誓って、私は答えを先延ばしにはしなかった。悩み、考え、常に頭の中にはこの問題がある。それでも決められなかったのだ。向き合ってなお、立ち向かってなお、私は私が何を好きかすら分からないでいる。


「はぁ……」


 知らなかった。自分がこんなにも不甲斐ないなんて。あと少しくらい意思がはっきりとしていて、もう少しくらい決断力があると思っていた。


 自室の窓から、庭を見下ろす。季節の花と飾り垣根で彩られた、庭師自慢の光景である。中央の通路を挟んで左右の飾りには明確な違いがつけられており、見る角度によって異なる印象を演出している。

 私は庭飾りに詳しくはないが、これは相当に腕のいい庭師の仕事であると思った。


 思えば、かつて私はよく庭で遊ぶ子供だったはずだ。


 思い出せば、久方ぶりに庭の散歩をしたくなる。歩きながらの考え事は行儀が悪いと怒られた事があるため気を付けていたが、散歩という形ならば問題にはなるまい。私は存分に悩みつつ、ローバーテイク侯爵家自慢の表庭を歩いてみる事にした。


 思えば、気を休める暇もない人生だったような気がする。

 初恋から十五年。彼に愛されないと思ってなお愛していたために、せめて相応しい女になろうと努力した。滅私奉公とはよく言ったもので、あるいはその努力によって私の中の私は失われてしまったのかもしれない。

 思い出されるのは、あの日の出来事。私の十五年が砕かれたあの時。その後に残ったものなど、果たしてあるのだろうか?

 今の私は空っぽで、例えばまるで凹凸のない球体のよう。

 それは表情がなく、感情がなく、人間らしさの悉くが何もないただの物体なのだろう。


 そんな私でも、役に立てるだろうか。せめて、それくらいはできなければ、辛くて辛くて生きてはいけなさそうだ。


「おい、アンタ」


「ぅ!?」


 不意に、声をかけられた。

 いや、言い方が悪いか。厳密には、うつらうつらと船を漕いでいる私の肩を叩いて起こしてくれたのだ。庭のベンチに座り一休みしようと思ったのだが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 目の前にいるのは、若い男だった。背は高いが、年齢はアリアナとそう変わらないように見える。


「驚かせて悪かったな。俺はアントン」


「ろ……アリアナ・ローバーテイクですわ」


「ああ! やっぱり新しいお嬢様だ! 遠くからしか見てねえもんで分からなかった!」


「えっと……あなたは?」


「俺は……いや、お嬢様にこの口調はまずいか……わ、私は庭師を……えっと、庭師を、庭師のアントンです!」


「ふふ」


 アントンは慣れない言葉で自己紹介する。どうにも居心地が悪そうだった。

 その様子が随分と愛らしくて、ついつい笑いが漏れてしまう。いつぶりか分からない、心からの笑みだ。


「ごめんなさい。侮辱するつもりはないのよ」


「やぁ、構わねえでくだせぇ。お嬢様の笑ったところを見れてラッキーってなもんでさぁ」


 歯を見せて笑うアントンは、多少土で汚れてはいても好感が持てた。彼の屈託のない笑みは、私のそれとは全く異なる魅力を持っているのだ。

 どうやら貴族の生まれではなさそうだが、故郷に帰れば結婚相手には事欠かないだろう。

 私とは正反対だ。何もかもが。


「それで、何だってこんなところで居眠りを? 風邪ひいちまうぜ」


「ああ、考え事を少し……それで休もうかと思ったら、ついうとうとと……」


「はあ、お疲れなんですね」


 使用人にすら心配されると、とうとう自分が情けなくなる。貴族としてわずかに残ったなけなしのプライドも傷ついてしまったとなれば、私はこれから何に縋って生きればいいだろう。

 そんな気持ちを顔に出さないように微笑んでいると、アントンが、「ちょいと失礼しますよ」と隣りに座る。使用人が貴族と同席するなど考えられない不敬だが、不思議と悪い気はしなかった。


「庭に置いてあるベンチってのは、そこから庭を見るためにあるもんでさぁ。居眠りなんざもったいねえですよ」


 そう言い、アントンは指をさす。


「あそこに見えるまんまるの垣根が分かりますかい? あれは全然違う大きさの飾りなんですが、ここから見る時だけ同じ大きさに見えるようになっとるんです。どうです? 面白いでしょう?」


「なるほど、遠近法ね」


「えんきん……? 違いますよ、ガーデニングでさぁ」


「それは……ええ、そうね。ふふ、あなたの言う通りだわ」


 アントンの話は面白かった。貴族の令嬢が草花にうつつを抜かすのは褒められた事ではないのかもしれないが、私にとってはこれ以上にないほどに楽しかった。


 それから、私は暇を見つけて庭に出るようになった。


 私は教養として幾らかの知識を持ってはいたが、当然ながらアントンのそれとは比べるべくもなかった。

 なにより、野菜に関する知識は目を見張るものがある。そもそも育てているので当たり前ではあるものの、いつだって彼は私の驚くような事を教えてくれるのだ。


 調理されていない野菜を初めて見た。なによりとれたての野菜を初めて食べた。野菜以外にも食べられる植物があるなんて知らなかった。いろんな花の花言葉を聞いた。


 知らなかった。自分がこんなに花が好きだなんて。

 よく考えてみれば、初恋の時も花がきっかけだったのだ。


 楽しかった。忘れてしまった遥か彼方の過去ぶりに、心の底から。

 誰かと話をするのが息苦しくないなんて。辛くないなんて。重くないなんて。

 きっと私は今までで一番、間違いなく幸せな時を過ごしているのだ。


 そして——


「アリアナ。私の執務室に来なさい」


「……はい、お義父さま」


 ある日、侯爵は私を部屋に呼びつけた。いつも厳格でありながら優しい侯爵の、いつになくさらに厳格な声色で。


 怖くはなかった。ある意味で、予想された事だからだ。


 侯爵について部屋に入ると、そこには夫人も控えていた。侯爵は使用人に人払を言いつけ、部屋の中には私たちだけになる。

 後から入った侯爵と私。そして、初めからそこにいた夫人と()()()()のみに。


「なぜ呼ばれたのかわかるかい?」


「……はい」


 インクと紙の臭いは嫌いではなかったが、今日ばかりはどうにも息苦しい。意識しなければ目を伏せてしまいそうだ。

 しかし、そんな事が許されるわけがない。それだけの不誠実である。それだけの不義理である。


 普段は私とあまり話さない夫人も、この時ばかりは饒舌だ。


「アリアナさん。貴女は我が家の長女である自覚がおありかしら?」


「もちろんでございます、お義母さま」


「なら、なぜせっかくのよいお話を棚上げにして使用人と遊んでいるのかしら?」


「……返す言葉もございません」


 私は、未婚の女性である。その上、いくつかよい話が来て返事を保留にしている立場だ。貴族ではない異性と度々会っているなど許されるはずがない。


 分かっていた。分かっていながら、会わずにいられなかったのだ。


「あ、あの……俺のせいでお嬢様を怒んのはやめてくだせぇ」


「お黙りなさい! 言葉もまともに話せないのならその口を閉じていなさい!」


 夫人の怒りももっともだ。

 全ての責任は、私にある。だからどうにか、アントンだけでも許してもらわなくては。


「お義父さま、お義母さま。どうか、(わたくし)に罰をお与えください。彼は貴族の習いを知らなかったのです。(わたくし)が気をつけるべきところだったのです」


「お、お嬢様! それは……!」


「アントン君」


 侯爵の、優しくとも厳格な声がかけられる。私とアントンは、思わず肩を跳ねさせた。


「君は、孤児だったね。庭師のトムさんが屋敷裏で倒れている君を助け、今ではその跡を継いでいる」


「は、はい! 間違いねえです」


「つまり私は君に大変な貸しがある事になるね。君の一生では返せないほどの」


「そうです……間違いねえです。で、でももし辞めろって言うなら今すぐ辞めます! 出てけって言うなら今すぐ出てきます! だからお嬢様は許してやってはくんねぇですか!?」


「まあ! 何と図々しい! 貴方の解雇程度で収まりがつくもんですか!」


 夫人の怒りようといえば烈火のようで、普段は上品に笑う口元から牙が見えるかと思うほどだ。あとほんの少しでも怒らせたら、本当に体から火が噴き出すだろう。

 私では(そしてもちろんアントンも)この場を収める事などできない。そんな事ができる人物など、たった一人しかいないのだから。


「アントン君。最後に聞くが、君はアリアナに全くその気がなかったのかな?」


「え……」


「君は、本当に全く、うちの娘にやましい気を起こした事はなかったのかな?」


「いや、えっと……」


 アントンが私を見る。


 なんだろう。何を言っているのだろう。何をそんなに悩んでいるのだろう。

 そんな疑問を浮かべた瞬間に、その答えが他でもないアントン自身からもたらされた。


「あ、あります……お嬢様は俺が見た中で一番綺麗なお人でさぁ……」


「っ!?」


「なんと図々しい!」


 多分、火を噴いた。私は顔を伏せてしまったが、夫人の背中からはこの屋敷を焼き尽くさんばかりの炎が噴き出している。なにせ、こんなにも暑いのだから。耳から指先まで、余す所なく汗をかきそうなのだから。


「アリアナ。君はどうだい? 何度も密会までして、全く気がなかったのだろうか?」


「…………」


 何も見れない。何も見えない。

 今自分が目を開けているのか閉じているのかすら、ほとんどあやふやになってしまった。

 だが、たった一つだけわかる事がある。こんな極度の緊張の中にあっても、決して見失わない自らの気持ち。

 それはつまり……


「好きです。彼の事が、誰よりも」


「アリアナさん!」


 私は、結構惚れっぽいのかもしれない。しかし、それでもこの気持ちに偽りなどあるものか。

 この状況にあって偽らざる事実を、ただ口にしたに過ぎないのだから。


「アントン君。君は今限りで解雇処分とする」


「……はい」


「当然ね! それから二度と……」


「これからはアリアナの事をよろしく頼むよ」


「……は?」


 時が止まった。ほんの数秒。優しくとも厳格であり、厳格であっても優しい侯爵の言葉に。

 最も早く動き出したのは、この中で最も激しく怒っている夫人である。


「あなた! 何を考えていますの!?」


「彼を解雇し、婿養子とする。ガーデナーは新しく雇うが、それまでは臨時でトムさんに来てもらおう」


「そんな心配はしておりませんわ! 我が家の跡取りをどうなさいますの!? あなたの跡をこの孤児に任せるおつもりですの!?」


「彼に当主は荷が重いだろう。ある程度学をつけてもらうが、私の跡はアリアナが適任だろうな」


 貴族にとって、重要なのは血である。

 誰と血がつながっているのか。誰と血がつながっていないのか。

 跡取り問題はその最もわかりやすい例の一つである。つまり、一族に連なる者でなければ当主とはなれない。


 だから、私が早く婿を取って子を生す必要があったのだ。その子を当主として育て、もしまだ幼いうちに侯爵に不幸があれば当主代行として婿がその仕事を担うという手筈で。

 しかし、もしも私が当主業務を行うのであれば、極論して結婚相手は誰でも構わない。私の母が現当主の妹である以上、私にも当主となる資格があるのだから。


「女性当主は、歴史的に見て例がないわけではない。国によっては国王すら女性が担う場所もあるのだ。我が家はそうであってはならないとする正当な理由はあるまい」


「し、しかしそれでも……」


「それに心配しなくとも、私にすぐ死ぬ予定はないさ。孫が立派になるところを見届けてから悠々自適に隠居すれば、何も心配事などなくなるだろう」


「で、でも……」


「それだけじゃない。一番重要な理由がある。愛する者と結ばれるほど幸せな事なんて、この世に二つとない。私たちは、その事をよく知っているだろう?」


「っ!! し、知りません!!」


 夫人は、途端に顔を真っ赤にする。そして……


「勝手になさい!」


 そう言って部屋を出ていってしまった。


「ははは。妻から勝手にしていいと言われたので、勝手にさせてもらおうか」


「は、はぁ……」


「おや、乗り気でない? この話、なかった事にしようか?」


「め、滅相もねえです! 受けさせてくだせえ!」


 その言葉を聞いて、侯爵はいたずらっぽく微笑んだ。


「違うよ、アントン君。君が貴族の倣いに疎いのはまだ仕方がないけれど、この場で言うべき事くらいは分かってもらわないと。ほら、ちゃんと私でなく、アリアナに対して言うんだよ」


「え? ……あ」


「…………」


 意味が分かった。アントンも、私も。

 目を泳がせて顔を真っ赤にしたアントンが私を見る。いつもは土で汚れた顔と手は、当主の部屋に呼ばれたからか綺麗に洗われている。初めて見た彼の完全な素顔を、どうしても直視する事ができなかった。


 そして消えそうな声で、それでいてハッキリと。


「お、俺と結婚してくだ、さい」


「……はい」


 私は、ただそう言うだけで精一杯だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] どこかのゴタゴタで危機から救出された子供を 「倒れたところを発見してということにしよう」 という話がついている、というのがありそうなところでしょうか。 ほんとうに身元の知れない孤児なんて、セ…
[一言] 先々のことを考えると。実はアントンがどこかの貴族のご落胤でした、なんて展開。安直過ぎますかね。 養子とはいえ、当主の妹の娘に間違いはなく、その娘が産んだ子ならそれも血が繋がっているわけで。…
[良い点] 面白かったです! [気になる点] >ジュディア・ローゼンウッド。貴族の生まれではないが、国王にも覚えめでたいローゼンウッド商会の長女である。 真ヒーローの親が実は高位貴族でお家騒動のため……
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