32◇落ちていく
「よかった! 無事だったのね……って――やっぱり」
モネのところに辿りついたところで、巨狼が水に戻って消えた。
「やっぱり助けに行くと思ってたわよ」
「俺じゃない。子うさぎが勝手に飛び出したんだ」
「はいはい。とにかく行くわよ」
ネズミ耳の少年はサハギンが背負い、彼が『蜘蛛の垂れ糸』に触れることで姿を消す。
今頃地上に戻っている筈だ。
フィールがそれに続き、アレテーの番になって、それは起きた。
「え」
彼女の足元に黒が広がっていた。
それは底が見えないほど深く、狙いすましたように彼女の真下に出現した。
どこへ落ちるともしれない、突発的な転移ゲート――『落とし穴』だった。
「レティ……!!」
モネが手を伸ばすが、アレテーを掴むことは出来ず空を切る。
「先生……」
――子うさぎは助からない。
どの層に落ちるかは不明だが、今のアレテーは第一階層の安定空間が精々の能力しかない。
ダンジョンは各層ごとにまったくの別物と化すこともあり、今の彼女で対応できるとはとても思えない。
アレテーは死ぬ。死体はきっと見つからない。仮免許だけが、いつか誰かに拾われるかもしれない。
これが、彼女を見る最後の瞬間だ。
そこまで、頭が回っていたのに。
ディルは気づけば、『落とし穴』に飛び込んでいた。
「ディル!!」
落下しながら、モネに言伝を頼む。
「リギルを呼べ」
次の瞬間、視界が黒に染まった。
◇
なんだか、顔が温かい。
温かい雨が降っているみたいだ。
目を覚ますと、涙をボロボロ流すアレテーが視界いっぱいに広がった。
「ぜんぜぇ……!」
どうやら、アレテーに膝枕されているようだった。
ディルはすぐさま起き上がり、周囲を確認。
薄暗いが、視界はなんとか確保できている。
洞穴か何かのようで、高さは人が立てるほど、奥行きはそうない。見える位置に行き止まりが見える程度だ。触ってみる。岩のような質感。
「先生っ、ごめんなさいっ、わ、わたしの所為で!」
「うるさい泣くな。それよりお前、怪我は?」
「ありまぜぇん……!」
「俺もだ。落ちてどれくらい経った」
「わ、わたしは、先生が起きる十分くらい前に、目を覚ましました」
「外を見たか?」
彼女は首を横に振った。
涙の粒がぱらぱらと散る。
「見てくるからここで待ってろ」
洞穴を出ると、そこは――地獄だった。
いや、違う。
第四階層・憤怒領域。
表現世界は火山。
眼下をマグマの河が流れ、頭上高くは赤茶色のごつごつとした火成岩で覆われている。
赤く照らされた地下空間は、ここが安全でこれが観光なら、感動を覚えるほどに幻想的で、美しい。
しかしここは危険地帯で、これはダンジョン探索だ。今となってはダンジョン遭難と言っていい。
ディルは洞穴の中に戻る。
アレテーは不安からか、震えていた。
「実は、俺は気休めを言うのが苦手なんだが」
「は、はい……」
「俺たちが生きて戻れる可能性は、かなり低い」
じわり、と彼女の瞳が水気を帯びる。
「ごめんなさい、先生。ごめんなさい……」
「おい、低いと言ったんだ。ゼロじゃない」
ぱちくり、と彼女が瞬きをする。
「まず、第四階層の安定空間を目指す。分かるか、安定空間」
「だ、ダンジョンは、たまに、地形が変わります。でも、何度変化が起きても、ずっと変わらないエリアがあって、それを安定空間と、言います」
洟をすすりながら、涙声で説明するアレテー。
「そうだ。『蜘蛛の垂れ糸』も『黒い丸穴』も、変化の度に位置が変わる。だが安定空間にあるものだけは、ずっとそこにあるわけだ。自力で戻るにしろ助けを待つにしろ、そこを目指す」
「せ、先生も所長も、かつて通っていて馴染みのあるルートだから、でしょうか……」
「そうだ、頭が回ってきたみたいだな。一旦既知のルートに入れば、あとは俺の能力と経験でなんとか戻れる……可能性がある」
「かのうせい……」
「絶対死ぬって状況よかマシだろ。リギルのやつらも救出部隊を出す筈だしな」
「は、はいっ。そうではなくて、その……わたしを助けようとしなければ、先生は無事に戻れたのに、と……」
彼女の顔が罪悪感に歪む。
「それはお前が考えることじゃない」
「そんなっ。だって、落ちたのはわたしで……」
「見捨てりゃいいのに、追ったのは俺だ。お前が責任を感じることじゃない。というか、鬱陶しい」
「うぅ……」
ディルは彼女の白い頬を両手で挟んだ。
「むぎゅっ」
彼女を正面から見据える。
「よく聞け、アレテー。二人で生還するには、まともな状態のお前が必要なんだよ。俺を助けるつもりがあるなら、うじうじしないで泣きやめ。水分の無駄だ」
「…………」
「出来るか?」
「……ます」
「あ?」
「で、出来ます! わたし、頑張ります!」
「それでいい」
ディルは、ニッと笑った。
それから、彼女を睨む。
「あと、うるせぇ」
「はっ、すみませんっ」
慌てて口許を押さえるアレテー。
「じゃあ説明するぞ、よく聞け」
生きて帰るべく、ディルは口を開く。




