それは蘇ではありません
「何処かにパンを発酵させて焼いてくれるあやかしはいませんかね」
「なんなのだ、お前は……」
何故、妾にあやかしについて訊く、と手土産を持ち、訪ねた鷹子に、中宮 寿子は言った。
「妾にパンを焼けと言うのか」
と言う寿子に、
「いや、中宮様は、あやかしではないではないですか」
そう鷹子は笑ったが、寿子はそっぽを向き、ふん、と言う。
「わからぬわ、妾にも、もう。
自分が生きておるのか、死んでおるのか。
……って、聞いておるのかっ」
深刻な話をしているのに、落ち着きなく騒いでいる鷹子を寿子は叱る。
「す、すみません。
うちの神様が中宮様の猫ちゃんに……」
神様が、あの黒猫の上に馬のように跨ろうとして、シャーッと言われていたので、双方をなだめていたのだ。
猫の霊にも、シャーッと言われるとか。
神様の権威は何処に……。
苦笑いする鷹子の前で、寿子が神様に向かい、呼びかけた。
「神様とやら
伊勢に帰らなくて良いのか」
「良い。
あそこは守りの厚い土地。
少々、私が不在にしても関係ない。
それに私は神ぞ。
此処におっても、向こうの様子くらいわかるわ」
のう、鷹子っ、と言いながら、膝に乗ってくる神様を、鷹子はつい、猫のように撫でていた。
神様は気持ちよさそうにしておられる。
そんな神様を冷ややかに見ながら、寿子が、ぼそりと言った。
「……まあ、今の斎王は幼女だからの。
ある程度大きくなったら、この神様、向こうに戻るやもしれぬぞ」
「なにを言うっ。
私は鷹子だから良いのだっ。
ちょうどよい年頃だから、ベタベタしているわけではないっ」
ちょうどよい年頃ってなんだ。
っていうか、この状態の神様とちょうどよいのは幼女では……?
ほほほほほほ、と笑った寿子だったが、うん? という顔をし、御簾の方を見る。
さすがUFOから地球を見る女、命婦は、もう此処の狸の女房と打ち解け、話していたが。
寿子のその仕草に気づいて立ち上がると、御簾の方に行った。
寿子が目を閉じる。
その瞬間、強い香の香りとともに部屋の中が明るくなり、今まで居なかった若い女房たちが幻のように現れ、さざめきはじめる。
「左大臣様です」
命婦の後を追うように行った狸女房が寿子に告げた。
狸女房たちに先導され、中に入ってきた実朝は鷹子を見て驚く。
「いらっしゃったのですか、斎宮女御様」
「はい。
中宮様とちょっとお話を。
これをお持ちしまして」
キャラメルです、と鷹子は鬚籠の中の美しい透けた和紙に包んだそれを見せる。
飴のときのように、パステルカラーでキャンディ型の包みがたくさん鬚籠の中に入っていた。
「このところ雨続きなので。
気分転換に牛乳を煮詰めて作ってみました」
庭に雨がしとしと降る様子も情緒があっていいのだが。
日差しが降りそそがないと、やはり気が滅入る。
この時代の牛乳は加工が加えられていないノンホモ牛乳なので、容器に入れ、振り続けたらバターができる。
それで、バター、砂糖、牛乳を入れて煮詰め、晴明のところのあやかしに冷やしてもらったのだ。
もう、あやかし様の力を借りるのに慣れすぎたな。
ヤバイ。
下手したら、冷蔵庫より便利だもんな、と思いながら、
「左大臣様もおひとつ」
とキャラメルを勧めてみる。
「噛まずに舐めてお召し上がりください」
「大丈夫か?
毒ではないのか?」
と言いながら、実朝は萌葱色のキャンディ型の包みをひとつとる。
鷹子は、ははは、と笑い、
「今回は毒水すら入ってませんよ」
と言った。
実朝はキャラメルを口に入れ、
「ほう。
これは……
蘇か?
ずいぶんと味が濃いが」
と呟く。
「さと……」
ヤバイ。
砂糖を大量に使ったとか言ったら、成敗されるかもしれん、と思った鷹子は微笑んで誤魔化した。
だが、甘いので気づかれていたかもしれない。
「女御は不思議なものばかり作るのう」
と言う寿子に、
「そうだ。
新しく作ってみようと思っているものがあるのですよ。
新しく汲んだイキのいい毒水があったら、すぐに作れるのですが……」
「……それは私に持ってこいと言っておるのか」
左大臣が鷹子を睨むと、ほほほほほ、と楽しげに寿子が笑う。
だが、それを見た左大臣はちょっぴり嬉しそうな、それでいて、悲しそうな微妙な表情をしていた。
「……左大臣様は、身内には愛情深き方ですね」
私は身内でないので、ひどい目にあいそうですが、と夜のお召しで天皇、吉房の許を訪ねた鷹子は言う。
「お前はあれから、中宮によく会っておるのか」
「よくと言うほどではないですが。
帝は会っていらっしゃらないのですか?」
吉房はまだ雨の降っている夜の庭を見ながら言う。
「婚礼の夜ですら、会うてはおらぬわ」
吹き込む雨に少し濡れた釣り灯籠を見ていた吉房は目を閉じ、言った。
「……あれとの婚姻話が進んだとき驚いた。
とうに」
言いかけ、吉房はやめるかと思ったが今日はその先の言葉口にした。
「とうにこの世のものではないと思っておったからな」
今日話した感じでは、寿子自身も自分でわかってはいないようだった。
今の自分が生きているのか、死んでいるのか。
元より病弱に苦しんでいたという寿子には、その境目がわからないのかもしれない。
ただ、今の寿子は元気そうだ。
そして、寿子は、それを理由に自分はもうあやかしに近いものに違いないと思っている節がある。
「中宮様が帝にお会いしないのは、恥じらいではないですか?」
この世ならぬものになってしまった己れの身を嘆き、見せたくなくて、と鷹子は思っていたが、吉房はあっさり、
「いや、あれはそんな殊勝な女ではない。
私と会わないのは、単に私に興味がないからだ」
と言った。
「お前とスイーツとやらにはあるようだがな」
と眉をひそめて言われ、鷹子は少し笑った。
雨の庭には東宮が立ち、こちらを見ている。
霊なので濡れても関係ないのだが、なんだか申し訳なくなる。
東宮の居る方角を向いて、紅い塗りの皿にキャラメルを置き、手を合わせた。
早く決着をつけて差し上げねばな。
だが、そのことにより、生きた人間が窮地に立たされてしまうことになるかもしれないが……。