黒猫の飼い主
風とともに吹き付けてきたこの世のものとも思えぬ良い香りとともに、品の良い襲の衣を羽織った女が几帳の前に立っていた。
白くのっぺりとした顔だが、目鼻の配置が異様に整っていて、不思議な美しさだ。
平安美人と言った感じだな、と思いながら鷹子が眺めていると、彼女は鷹子を上から下まで見、
「ふん。
美しいの」
と言った。
「斎宮女御よ。
妾になにか用か」
今日は女房たちはひとりも居ないらしい。
ただ黒猫だけが中宮寿子の許にゆったりとした足取りで歩いていった。
寿子は足許に来たその猫を抱き上げる。
「帝が謎の高熱で苦しんでおられます。
中宮様、なにかお心当たりはございませんか?」
「……妾が帝に、なにかしておると?」
半眼の目で寿子が見て訊いてくる。
「いいえ。
中宮様が帝になにかなさることはないと思います。
帝が居なくなれば、中宮様は中宮ではなくなる。
そんな左大臣様が悲しがるようなことはなさらないと思います」
「まあ、確かに。
私が吉房に積極的になにかすることはないな」
その口調に、そういえば、幼なじみと聞いたな、この二人、と鷹子は思い出す。
「……だが、すべてを終わらせたいと思うときもあるのよ」
そう寿子が呟いたとき、じっとしているのに飽きたのか、むずがる猫が寿子の腕から飛び降りた。
猫は鷹子の手にある鞠を狙って何度も飛びつこうとする。
「こらっ。
それは冷たいスイーツが入っておるのだぞっ」
まだ自分は食べていない神様がお怒りだ。
神様は、しっしと猫を追い払おうとするが、鷹子の頭の上から降りはしない。
猫が怖いのだろうかな……と思ったとき、寿子が言った。
「東宮様の霊が帝から離れたせいで、他の呪いが活気づいておる」
やはり、そうですか、と思い、寿子を見つめると、
「その呪いは無意識のうちに帝に向けられた呪い。
呪いをかけた本人も気づいてはおらぬ。
……女の念は思いもかけず、強くなることがある。
本人の制御も効かぬままに」
晴明が言ってたことと同じだ、と鷹子は思った。
「その者は東宮様には遠慮があったので、今まで強くは出られなかったのだ。
東宮様が呪いの最前列が退かれたので、その者の呪いが強く出てきたのだ。
その者が狙っておるのは、帝よりもお前だったのだが。
お前の守りは厚いからな。
それで帝にすべての怨念が行ったのだ」
寿子は閉じた扇で鷹子の頭の上の神様を指した。
「そ、それでは帝のあの状態は私のせいでもありますね。
やはり、なんとかせねば……」
「まあ、せいぜい頑張るが良い」
寿子はさっさと几帳の向こうに戻ろうとする。
「お待ちください。
もうちょっと詳しいお話をっ」
だが、寿子は少しだけ振り返り言う。
「私は吉房を呪っておるものに同情しておる。
なんとなく気持ちがわかるからだ。
まあ、あれに吉房を殺すほどの力はないしな」
夫婦としては上手くいってはいないようだが。
幼なじみとしての情は少し覗かせながら寿子は言う。
「あの、良い菓子をお持ち致しました。
これで、もう少しお話をお聞かせ願えませんか?」
寿子は振り返り、またあの冷ややかな目で見て言う。
「毒か」
「いや、何故ですか」
あなた、私が置いた飴、食べましたよね?
それに、あなたに毒とか効くんですか? と明らかにまともではない中宮を見ながら鷹子は思っていた。
「毒など私が持ってくるはずもありません。
私には中宮様を狙う理由がございませんので。
何故なら、中宮様がいらしてくださった方が好き勝手ができるからです」
「……はっきり言う娘だの」
この菓子と引き換えに、私と帝を狙うモノの名前を、と鷹子は、ずい、と鞠を突き出した。
「中宮様がおそらく今まで召し上がられたことのない、冷たく甘い食べ物です」
ほう、と寿子はこちらに向き直り笑う。
「この私を菓子ごときで屈服できるとでも?」
「……そうですか。
じゃあ、またなにか考えてきます」
そう言って、鷹子はアイスの入った鞠を手にさっさと出ていこうとした。
「待ちやっ。
もっと粘らぬかっ」
と寿子に怒られた。