帝のご寵愛深き斎宮女御様
うっ、左大臣っ、何故此処にっ。
日々、着色料について考えて過ごしていた鷹子だったが。
帝の夜のお召しで清涼殿に向かっているとき、左大臣、実守とバッタリ出会ってしまった。
ま、何故ってこともないかな、と鷹子は思う。
そこは実守の娘である中宮寿子の部屋の近くだったからだ。
鷹子たち一団が避けようとすると、実守は、
「どうぞ。
帝のご寵愛深き斎宮女御様」
と嫌味をぶちかまし、みなに道を開けるように言った。
……いやいや。
今、ちっ、て舌打ちが聞こえましたよ。
「どうぞ、左大臣様」
「いやいや、女御様、どうぞどうぞ」
「いやいやいや、どうぞどうぞどうぞ」
と二人は意地になって道を譲り合う。
双方が連れている者たちは、いや、どっちでもいいから、さっさと進め、という顔をしていた。
だがそのとき、左大臣側の一番後ろにいた若い男が、ひいいいいっと悲鳴を上げた。
なにごとっ、とみなが見ると、
「外にっ。
外に顔のない男がっ」
とその男が闇を見つめて騒ぎ出す。
みな、清涼殿付近にあやかしが出るという噂を聞いていたらしく、怯えながらも鷹子や実守を守ろうと、さっと前に出た。
そして、実守は、さっと鷹子の陰に隠れた。
……待て。
「お待ちください、左大臣様」
この手にあるのが扇でなく、ハリセンだったら、はたいているところだ、と思いながら、鷹子は扇の陰から後ろの実守を窺いつつ言う。
「何故、私の後ろに隠れるのですか」
「女御様は元斎王様でいらっしゃるのでしょう?
あんなものは簡単にやっつけられるのではないですか?」
「いきなりやっつけろとか言われても。
あやかしにはあやかしの、出る事情というものもございましょう」
「……なんなのですか、あやかしの事情とは」
どんな事情だ、という顔で左大臣が言ったとき、鷹子の頭の上に神様が現れた。
「鷹子よっ。
あれは怨霊ぞっ」
「えっ? そうなんですかっ?」
鷹子が上を見上げて言ったとき、実守が、ぎょっとしたように叫んだ。
「なんじゃ、その小さいのはっ。
あやかしかっ」
「あれっ? 左大臣様、神様が見えるのですか?」
この神様、見えるものと見えないものがいるようなのだが……。
「この男、実は心が清らかなのではないか?」
と神様が言う。
そうなんですかね~?
敵対してる私の後ろに、恥ずかしげもなく、さっと隠れるような人ですよ?
と鷹子が思ったとき、神様が呟いた。
「それかこの男、すでに向こうの世界に寄ってるのやもしれぬ」
鷹子が実守を窺い、黙ったとき、
「消えましたわ、女御様っ」
と言う命婦の声がした。
怖がりなのに、一番前に出て、あやかしに睨みをきかせてくれていたようだ。
風が強く吹き、釣り灯籠が一斉に揺れる。
闇の向こうにはもう、あやかしも人影もない。
「やれやれ。
世話になりましたな、おかしなあやかしをつけてらっしゃる女御様」
そう言い、実守は、さっと鷹子から離れた。
世話になったというわりには、余計な一言を……。
「左大臣様、これはあやかしではなく、神様ですっ」
「……女御様、『これ』はどうかと」
と命婦が側から注意してきたとき、左大臣一行はすでに中宮の部屋の前に行っていた。
さっき同じような強い風が吹き、御簾が舞い上がる。
その瞬間、鷹子は見た。
いつもは灯りも窺えぬ御簾の向こうから、ぶあっと華やかな香の香りがし、明るい部屋の中に色とりどりの衣を着た女房たちが控えているのを。
奥に几帳が見える。
あの几帳の奥に……。
だが、鷹子がそこを見る前に、笑顔の実守は中に入っていき、御簾は下りた。
実守についてきた者たちはみな、外で控えているが、今、御簾から灯りももれていないことに触れるものはない。
鷹子たちもその話題は口にせず、
……あ、では、という感じに、彼らと頭を下げ合い、その場を去った。
そのまま清涼殿へと向かう。
釣り灯籠が結界のように屋内と闇に染まる屋外を分けているように見える。
だが、どちらが怖いのだろうと鷹子は思っていた。
この結界の内なのか、外なのか。
いや、違うか。
この結界の外なのか。
それとも、あの御簾の内なのか……。