牛の乳が到着しました
蘇はいいですと言ったのに、高価な蘇までついて、牛の乳はやってきた。
両方とも立派な壺に入っている。
牛の乳の方の蓋を開けさせ、鷹子が覗き込んでいると、
「これをどうするのです?」
と晴明が訊いてきた。
命婦たちも興味津々身を乗り出している。
「これを熱してですね」
と言いながら、鷹子を周囲を見回した。
春とはいえ、寒いときもあるので、まだ出してあった炭櫃を見つめる。
見つめた段階で、すでに命婦は、ビクッとしていた。
少し火の入っていたそれに直接、牛乳の入った壺を置こうとして、鷹子は、こらーっ、と子どもの頃のように叱られる。
「なにいきなり直に火に突っ込もうとしてるんですかっ。
と叫びながら、命婦は鷹子の手からそれを取り上げた。
「その壺は煮炊き用ではありませんし。
その炭櫃の美しい装飾が目に入らないのですかっ。
壺が割れて、牛の乳が飛び散ったらどうするんですかっ」
命婦が急いで牛の乳を温めてくるよう女房たちに命じる。
「女御様はあまり人に知られたくないようなので。
誰にも中身を知られないよう、そっと温めてくるのですよ」
気の利く命婦がそう付け加えると、秘密の指令に若い女房も年配の女房たちも目を輝かせた。
「はいっ。
すぐにっ」
と壺を手に走っていってしまう。
……あの装束で、あんな軽やかに。
まあ、女房たちって、楚々とした風にも見えるけど。
屋根にのぼって見張りをしたりとかいう記述も残ってるもんな……、
と鷹子は感心しながら見送った。
しばらくして、女房達が熱くなった牛の乳の入った壺を布に包み、いそいそと持ち帰ってきた。
「ほう。
牛の乳が温まりましたな。
煮詰めて蘇を作るわけではないのですよね」
と言いながら、晴明が覗き込み、命婦も覗き込む。
一度戻ったはずなのに、帝に命じられてでもいるのか。
是頼も庭に再び現れていて、こちらの様子を窺っていた。
鷹子は濃い感じのする昔の牛乳の、温かい匂いを嗅ぎながら確認し、うん、と頷く。
「これでいいと思います。
明日、完成するはずです」
「明日……、明日ですか。
陰陽寮の集まりがあったような。
いや、なんとか時間を作って参りましょう。
このくらいの時間にはできていますか」
と晴明が訊いてくる。
顔つきはクールだが、熱心だ。
なんにでも好奇心旺盛だから、博学なんだな、と鷹子は妙に納得した。
有名になりたいとか、帝の覚えをよくして、地位を向上させたい、などの理由で、知識を詰め込み、陰陽道に邁進するものもいるようだが、晴明は違うらしい。
「はい、たぶん」
こうやってできるって、中学校のとき、地理の先生が言ってたけど。
やってみたことないから、わからないんですけどね……。
そう思いながら、鷹子が答えると、晴明は、
「そうですか。
では、また明日参りましょう」
と言って去っていた。
その後ろ姿を見送りながら、女房たちはうっとりとし。
命婦は、
「なんだか帝より熱心に通ってらっしゃいますね」
と言って笑っていた。
その夜、左大臣 藤原実守は密偵に報告を受けていた。
「斎宮女御は非時香菓はもう良いとおっしゃられて。
なにやら怪しげなものを作っておられました。
誰にも知られぬように、内密に」
「なんとっ。
誰にも知られぬようにかっ」
と実守は身を乗り出す。
「はい。
女房達に命じて、ひっそり熱しておりました」
「……なにかをコトコト煮込んでいたのだろうか」
と実守は、鷹子が聞いていたら、
「じっくりコトコト……。
美味しそうですね」
と言いそうなことを呟く。
だが、すぐに、ハッとして叫んだ。
「もしや、毒かっ。
私や中宮に毒を盛ろうというのかっ。
可愛らしい顔をして、なんと恐ろしい娘よっ。
というか、我が非時香菓はもういいのかっ。
不老不死の実だぞっ。
狙わなくていいのかっ?」
それはそれで不本意なりっ、という勢いで実守は叫び、
いや、あんた、非時香菓、狙われたいんですか……という顔を密偵にされていた。