ほのぼのヴァンパイア
心臓に、杭を打たれる夢を見た。跳ね起きた頭が、棺桶の蓋にぶつかる。今日の目覚めは、あまり良いものではなかった。
腕を伸ばし、蓋をずらす。体内時計では、既に起きる時間だった。だが、夢見の悪かったせいか私は慎重になっていた。暗く、カーテンの閉め切られた室内が見える。どうやら、大丈夫そうだ。ごとり、と蓋を脇へ落として身を起こす。
私が太陽の光を浴びられなくなってから、どれほどの月日が経過しただろうか。もう、わからなくなって久しい。かつて私は、このバーンシュタイン領の領主であった。今は、大きな屋敷に住まう資産家、といったところだろうか。呪われた血肉と引き換えに、私は長い寿命を得たのだ。
手櫛で髪を整え、シャツを新しいものに替える。皺の無いズボンを穿き、マントを羽織る。姿見には、私は映らない。だから確かめようも無いが、今日もいつものような格好になっていることだろう。私室を出て、食堂へと向かう。
別に外出をするわけでもないのだが、それらしい恰好をしていたかった。屋敷に住まう、唯一の人間である、彼女の前では。
食堂の扉を開けると、テーブルについていた彼女が立ち上がる。
「おはようございます、バーンシュタイン様」
ぺこりと頭を下げて、彼女は言った。給仕服の襟元からのぞく白い首が、まぶしく感じられる。
「おはよう。今日の具合は、どうかな」
問いかけに、彼女は微笑を浮かべる。小さな口と寂しげな目元が、何とも儚げな風情だった。だから、毎日私は質問を繰り返す。
「はい。バーンシュタイン様のお陰で、今日も健やかに過ごせました。お食事……されますか?」
首を傾げる彼女に、私はうなずく。すっと、彼女が手をこちらへ差し出してくる。長い袖の端から伸びる、細くしなやかな指先。彼女の左薬指へ、私は口を近づけた。
「……何があった?」
鼻先に近づけた指先を見つめ、私は問う。仄かな薔薇の香りの中に、つんと鼻をつく刺激臭があった。肉体が変わってから、鼻が利くようになった。それは決して、便利なことばかりでは無い。
「シーツを、お洗濯してましたので……すみません。臭い、残ってましたか?」
すっと手を引き、彼女は指先を自分の鼻に近づける。人間の嗅覚では、わからないだろう。私は、首を横へ振る。
「シーツなど、汚れれば捨てて新しいものに替えれば良いものを」
私の言葉に、彼女は顔を曇らせ俯く。
「……ごめんなさい。私、貧乏性で」
「いや、私のほうこそ、神経質だった。済まない。もう一度、手を出してくれるか?」
おずおず、と出された左手の薬指の先端に、口を開けて牙で触れる。ぷつり、と柔らかな皮膚を破り、染み出す血をひと舐めする。甘やかな味わいの中に、苦味が違和感として残る。決して、美味しいとは言えない。ごく少量だけ飲んで、彼女の指から口を離す。
「やはり、漂白剤は控えたほうがいいな。指先が荒れている」
しゅん、となった彼女の肩を抱き寄せ、温かな体温をしばし味わう。
「……ごめんなさい」
くぐもった声が、胸元から聞こえた。薔薇の石鹸に混じった彼女の香りが、心地よく鼻孔をくすぐる。
「君が、謝ることは無い。私の、主義の問題なのだから」
優しく背を叩き、耳元へ口を寄せて囁く。しっとりとした、柔らかな首筋が目の前にある。ここへ牙を突き立てられたら、どれほど美味な血を味わえることだろうか。だが、私はそれをしない。無軌道であった若い頃ならば、欲望の赴くままに血を吸い、干からびるまで味わい尽くしていたであろう。だが、今の私にはこだわりがあった。
上質で、健康で純潔の女性の血を、薬指から味わう。余計な雑味が混じらぬよう、徹底的な管理が必要とされる。だが、味わいは格別なのだ。私は、グルメなのである。
「……やっぱり、私なんかじゃ、駄目ですよね」
「そんなことは無い。君の血は、美味しくなってきている。ここへ来た頃よりも、確実に」
腕の中で、びくりと彼女の身が震える。
「でも、私、穢されて……」
彼女はずっと、それを気にしていた。だが、私にとって重要なのは肉体ではない。精神の、純潔こそが味わいを深くするのだ。滔々とそれを彼女に述べるのは、気恥ずかしい。だから代わりに、彼女の華奢な身体をぎゅっと抱きしめる。
「私が欲しいのは、健やかな君の血だ。君は、良く頑張っている。夜も、ちゃんと眠れているようだ」
飲んだ血で、彼女の状態はよく判っていた。適度な運動と、充分な食事。しっかりと睡眠を取り、太陽の下で穏やかに過ごす。それが、私にとって美味な血を作るのだ。
「ありがとう、ございます……」
涙声で、彼女は言った。胸元に、熱い滴が零れ落ちる。
「夕食はもう済ませたようだから、お茶でも淹れて飲むといい。昨夜、新しいものを買っておいたから」
そっと腕を解くと、ぬくもりがすっと離れた。俯いた前髪に隠れ、彼女の顔は見えない。
「はい。お茶を、淹れて参ります」
足早にキッチンへと向かう後ろ姿を見送り、私は息を吐く。そういえば、立ちっぱなしだった。私にとっては何でもないことだが、彼女にとってはあまり良くないことだろう。テーブルに向かい、椅子に腰を落とす。間もなく、茶器をトレイに乗せた彼女が戻って来た。
「君も、座るといい」
茶を淹れた彼女が身を引いたので、声をかけた。
「い、いえ、私は」
「美味しい血のためだ。協力してくれるだろう?」
微笑みかけると、彼女はおずおずと椅子に座る。真正面にある顔には、かすかに涙の痕が残っていた。湯気を立てるカップに、口をつける。香りはするが、味は無い。血液以外のものを、味わう事の出来ない身体だからだ。
「……どんな味が、する?」
促すと、彼女はゆっくりとカップに口を付けた。ふっくらとした頬に、温かみが広がってゆく。
「良い香りで、美味しいです……すみません、それくらいしか、言葉が出て来なくて」
にっこりと、彼女は寂しげに笑う。
「美味しいなら、それでいい。言葉を飾る必要は無い。茶は、ゆったりと自由に味わうものだ」
私の言葉に、彼女はこっくりとうなずく。一口、また一口と大切そうにカップを傾ける姿に、私は目を細める。私の捨てた、人間の表情が彼女の中にある。それはとても愛おしく、尊いもののように思えた。
「ご馳走様でした」
長い時間をかけて、茶を飲み干した彼女がカップを置いた。私のカップは、とっくに空になっていた。食器を片付け終えた彼女に、私は声をかける。
「そろそろ、眠る時間だな。何か、必要なものはあるかな。夜のうちに、手配できるものがあれば言ってくれ」
彼女は上を向いて口元へ指を当て、宙を見やる。それから私へ顔を向けて、ふるふると首を振った。
「とくに、無いと思います」
「野菜は、まだあるか?」
「はい。たくさんありますので、腐らせないように注意しなきゃいけないくらいです」
「肉や、穀物は」
「大丈夫です」
そうか、と答えて私は息を吐いた。頭を巡らせてみても、それ以上のものは思い浮かばない。何か無いものか、と考えるうちに、彼女が立ち上がる。
「それでは、今夜はこれで。おやすみなさい、バーンシュタイン様」
スカートの端を摘まみ、彼女が一礼する。あっ、と声と手を挙げかけたが、すぐに私は姿勢を正して笑みを浮かべる。
「おやすみ。良い夢を」
にこりと浮かんだ儚げな笑みが翻り、彼女は静々と食堂を出てゆく。ぬくもりが、離れてゆく。耐えがたい寂寥感に、脱力して椅子にもたれかかる。彼女のいない、夜の時間が始まる。
しばらくじっとしていたが、寂しがってばかりもいられない。彼女がより良い明日を迎えるために、しなければならないことはいくらでもあるのだから。
コウモリになって、私は夜空へ飛び上がる。中天に輝く月の光を見つめながら、冷たい夜の風に身を任せる。青白い月の表面に、彼女の横顔が浮かび上がった気がした。心の底から湧き上がってくる感情のままに、私は月に笑いかけた。
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