魔王妃様の憂鬱
こちら、小林が2011年にふっと思いついて書き留めていた文章に加筆し、短編にしたものです。
作中の文章で「あっるぇーこのへん文体に違和感がー」と思われたら、恐らく2011年と2016年で微妙に変化した文体が混合しているためだと思われます。
そこは、人間と魔族が争う世界。
2つの勢力がぶつかる境界領域は、長きに渡って双方の争う戦線を維持していた。
人と魔。
高位の存在ともなれば、その姿に殆ど差異はない。
だがそれでも圧倒的な、本能に訴える大きな違い。
根本的に両者は違う存在なのだと、互いに相手を前にすれば実感せずにいられない。
身の奥底から訴えてくる、異質な存在を前にした心震える忌避や、恐れから。
恐れを感じるのは、魔力に劣る人間の側であることが常であったけれど。
身に宿す大きな魔力が、彼らの色を染めるのだと言う。
どれほどの魔力を有するかで、髪や瞳の色が定まると言う、魔族。
その日、神託により見出された勇者が人と魔の相争う戦線に出された日。
彼の勇者を前に立ち塞がったのは、漆黒の髪に紫眼の魔族。
魔族の中でも最強の魔力を有す証拠とされる、色の組み合わせを身に宿した男。
その者こそ、当代の魔王。
魔王、ユーフィリアス。
「吾が名は魔王ユーフィリアス。勇者よ、今日よりお前達をイジリ倒す者の名だ」
「イジリ倒す!? おい、何か余計な一言がついてるぞ!」
予想外の言葉に、勇者は思わず叫び返していた。
これが相争う運命にある人と魔の、最強とされる男達が交わした最初の言葉であった。
【魔王妃様の憂鬱】
私の名前はシェルフィーラ。夫は今日も人間社会を蹂躙中。
人間を構ってばかりいないで、たまには私のことも構って欲しい。
そう思いつつも、気付けば最後に夫と直に顔を合わせてから早三ヶ月。
夫は御自ら、何故か最前線の先頭に繰り出したきり。
魔力水晶を媒介に会話だけを交流とする日々……
幾ら人間で遊ぶのが好きだと言っても、限度がありましょうに。
誰も命令する者などいない至高の地位におりますのに……
自ら進んで単身赴任同然の状況にするなんて、夫として、王としてどうなのかしら。
最近勇者が現れた!とうきうき楽しそうに語るのもどうかと思う。
以前から人間との諍いに夢中になったら私の事なんて忘れるような方だった。
近頃は勇者なんて者が現れたせいで、ますます人間の相手に熱中しているとか……。
私以外を見ないでとは言わない。
けれど、時には私のことも思い出してほしい。
人間の軍勢を前にすると、大人しくはしておられない方だと解ってはいるのですけれど。
夫にとって最近一番のお気に入りの玩具(勇者)よりも、私のことを大事だと思ってくれているかしら……。
いっそのこと、私がこっそり無断で勇者のことを倒すか……
そう、浮気でもすれば私の元へ飛んできてくれるのかしら……?
――よし、勇者を倒しに行こう。
「王妃様! 大変です!」
倒しに行こうと思ったら、盛大に出鼻を挫かれた。
伝令兵と思わしき青年が、見るからに慌てて飛び込んでくる。
「何ですか、騒々しい」
「申し訳ありません、ですが、魔王様が! 魔王様が!」
「陛下が? 陛下が、どうされたというのです!?」
まさか、前線で無茶しすぎて倒れたとか……
怪我でもしたとか……もしくは人間の手でとんでもない事態に陥ったとか……!?
私の脳裏を、様々な懸念が駆け巡る。
最悪の事態をも想定し、顔が青褪めていくのが自分でもわかってしまう。
指先が急激に冷えて、カタカタと震えた。
「へ、陛下が……陛下が、魔女の呪いで、子供のお姿に!!」
「……なんですと?」
……はい? 今、なんと言いましたの?
思いもよらぬ言葉に、私は動転するあまり気が遠くなるのを感じていた。
はっきり言って、全てが夢の出来事の様に思えてしまう。
私の勇者討伐計画が白紙に戻ったのは言うまでもない。
魔王童子化の報告が魔王城に届けられてから三日後。
実に三ヶ月ぶりに夫の帰還となった訳ではあるのだけれど。
危うげなく飛竜より飛び降りた、小柄なお姿。
城門前に敷かれたレッドカーペットを、私の前までしっかりと歩まれる。
幼くなっても凛然とした様子の夫が、目の前にいる。
丁度良いサイズの服が戦場には無かったのでしょう。
魔族は成人して身に宿る魔力の行使に耐えられるようになるまでは、防衛本能から生まれつき魔力の封印状態にある。自然、大人の守りを必要とし、子供が戦場に出ることは絶対に有得ない。
前線帰りの夫は、袖無しの短衣をチュニック代わりにしている。
ぶかぶかの服で、すぐに脱げてしまいそう……現に、頼りなげな白い肩が見えていた。
どうやらベルトで固定して急場を凌いでいる様子だが、あまり功を奏していないらしい。
あんなに身嗜みには拘っていましたのに……
ぶかぶかの服装はどうにも不格好で見ているだけで不安になる。
二人共が立っている状況で夫を見下ろすのは初めてで、違和感が大きい。
身の丈に合わない装いが、一層夫を頼りなく見せる。
それでも逸らさずに私の目を見る、凛とした姿。
姿が変わっても、変わらず気高い様子が健気で、それでも違和感は大きくて……
夫の予想以上に小さな姿に、胸の奥から激情が湧き上がってくる。
言い表しがたい衝撃が、私の胸を激しく打った。
こんな呪いになどかかる前は、見上げなければ目も合わなかったのに。
私よりもずっと、身長は高い人だったのに……。
それが今は……こんなにも小さい。
どんなに見積もっても、私の腰に届くかどうかという高さしかない身丈。
ああ、涙が出そうだ。
自分の夫と同一人物とは思えない様子に、私の感情が昂ぶる。
嵐のように激しく、大きな感情が私の全身を翻弄する。
込み上げる衝動を堪えようとしたけれど、堪えきれずに嗚咽のような声が漏れてしまう。
俯いた私の肩が、感情の波に攫われて大きく震えた。
見下ろした眼が、私を見上げる夫とぶつかり合う。
私は彼の目を見ていることも出来ず、全身から力が抜けるのに逆らうことも出来ない。
床に崩れた体を何とか支えながらも、私は喉が震えるのを必死で堪えようとしていた。
抑えきれない声が、喉を鳴らそうとする。
――ああ、駄目。声を出してはいけない。
声を出したら、夫を傷つけてしまう。
それだけは何としても避けたいと、私は両手で顔を覆い、口を抑えた。
感情の波をやり過ごそうと私が苦戦していると、私をじっと見ていた夫の声が聞こえた。
「……いつまで笑っているつもりだ?」
夫のものとは思えぬ高い声が、呆れた響きで降ってきた。
夫の、高い声……それが更に、私を追い詰める。
「そ、そんな……私は、笑って、など……」
「声の震えに笑いが混じっているし、顔は明らかに笑顔なのに?」
「ふ、ふふ……そん、な、ことは……ふふ、ふ……」
「抑えきれぬのなら、無理に我慢せずとも良いのに。吾も、鏡を最初に見た時は堪えきれず、大笑いをしたものだ」
「そう、なのですか……?」
「ああ。笑った後で虚しくなって、どうしようもなく泣けてきたが」
それもそうでしょう。
あんなに美丈夫で凛々しかった夫が、このように小さな姿になっては。
内心、きっと今も情けなさで泣きたいくらいでしょう。
妻である私に今の姿を見せることも、屈辱であるはず。
……子供となってしまったからには、戦線を引いて城に戻るより他ないのだけれど。
何しろ夫は、子供化したことで防衛本能が作用し、魔力の封印状態に陥っているのだから。
あれだけ莫大な魔力を有していようと、封印されては無力も同然。
私の目に御身を曝すことは、まさに必然と言えましょう。
私は夫の心情を思いやり、精一杯慰めて労ろうと決めていました。
実際に目にした時、あまりの衝撃に思わず笑ってしまいましたが。
だからこそ、これより以後は決して夫の情けない姿を笑いますまい。
「陛下、大変失礼致しました。もう貴方の不幸を笑いませんわ」
「だからといって、哀れみの眼で見られても困るのだが」
「哀れんでいる訳ではないのですが……何はともあれ、先ずは入浴を済ませられませ。長旅の疲れを落とし、戦場の垢を落とすことが何よりも先決ですわ。ゆっくりと湯に漬かり、心身ともに疲れをほぐして休まれることです。呪いの詳しい話などは、後で伺いますから」
「……否、先ずは着替えだ」
「着替えなど。入浴の後になさいませ。服を着て湯に浸かる訳にはゆきませんでしょう?」
どうせ入浴の際に脱ぐことになりますのに。
聡明な夫が、何故そのようなことを言うのでしょう。
余程、己の不格好な姿が腹に据えかねるのでしょうか。
確かに夫は身嗜みには神経質なまでに気を使う方ですが……
怪訝さに首を傾げていると、夫は思う以上に真剣な瞳で私を見上げてきました。
瞳の光りは鋭いのに、あまりに愛らしく見えるので、私の胸は締め付けられる。
私は抱きしめたい欲求と激しい戦いを繰り広げてしまいます。
ああ、いつか夫との間に子が出来れば……このような子なのでしょうか。
「このような姿になったこと、いつまでも隠しておけるとは思っていないが……シェラ、吾が子供の姿になったこと、ユーフィリア姫にはまだ知れていないな? 当分、姫には黙っておけ」
「陛下?」
夫は本当に、何を言うのでしょう。
ユーフィリア姫は、夫にとって唯一人の肉親。
同じ血を分けた姉姫様だというのに、度々、このように余所余所しい態度を取る。
その度に姉姫様は水くさいと言って激怒なさいますのに。
何よりユーフィリア姫は、魔王の姉にして魔族の重鎮。実績もあるお方です。
そのような方に、この魔族の一大事を黙っておける筈などありましょうか。
それに何より……既に、手遅れなのです。
「あの、陛下? そのことでしたら、既に三日前の時点で伝令が走っている筈なのですが……。私が知らせを受けた後、すぐに通達がいっているはずです」
「な、なに……っ?」
ぎくりとした様子で、夫が身を捩る。
不自然な姿勢できょろきょろと周囲を見回し、明らかな警戒姿勢。
何か、恐ろしい予感でもするのでしょうか。
不安を前面に押し出した、夫にしては珍しい形相で顔を引きつらせています。
「ほ、本当に、もう姉上は私のことを知っているのか……?」
「ええ。その筈ですし、陛下がお帰りになる日取りの確認を求める書状も来ていましたから。今日帰ってくることも既にご存知です」
「なんだと!?」
夫はそれこそ、通夜か葬式のような悲壮な顔色で。
恐る恐ると周囲の様子へ一層の警戒を強めます。
一瞬、取り乱してしまわれたかと思いましたが……
これは、もしや姉姫様を警戒しているのだと受け取っても良いのでしょうか……?
そしてその時、絶妙のタイミングで扉が蹴り破られました。
「――私のユぅーフィリアぁスっ!」
噂をすれば、影です。
姉姫様が息を弾ませ、大荷物を抱えた姿でそこに立っていました。
声にも喜色満面に、かつて見たこともない程の妖艶な笑顔で。
その姿を見た瞬間、夫の肩がびくっと跳ね上がりました。
魔王である、夫の肩が、確かに跳ね上がったのです。
次いで、今まで見たこともない程の瞬発力で飛び退り、咄嗟に私の背中に隠れられて……。
これは、やはり姉姫様に怯えているのでしょうか……。
姉姫様は弟の態度も慣れた様子で、物凄く楽しそうに躙り寄ってきます。
私も少し恐くなってきましたが、姉姫様は気にしません。
本当に、物凄く、嬉しそうで楽しそうです……。
「隠れていたって解るのよ、ユーフィリアス! さあ、大人しくお姉様の手に身を委ね、観念して遊ばれなさい!」
「出たな、来たな……! く、来るな! この着せ道楽!」
「着せ道楽……?」
はて、着道楽と言う言葉ならば聞いたことがあるのですが……
夫の口から、何だか新しい言葉が飛び出しました。
ですが、どうやらその一言が現状の全てを説明する言葉だったようです。
「ちゃぁんと貴方の側仕えの1人に身丈を確認して、その背丈の頃に着用していた衣装を用意してきたのよ! 用意と物持ちの良いお姉様に感謝なさい! ああ、年齢別に衣装を保存しておいて良かったわぁ♪」
「くっ側仕えの1人だと!? 誰が裏切った……!!」
「あらぁー忠臣をそんな風に言うものではなくてよ」
「それは吾ではなく、姉上への忠誠であろう!」
「ふふふふふ……」
「よ、寄って来るなぁー!」
肉食獣の笑みで近寄る姉姫様。
その手には、丁度夫の身丈に合うサイズの子供服が握られています。
デザインも、仕立ての良さも夫が普段身につけているものとあまり変わりません。
明らかに子供対応であるサイズを除けば。
姉姫様は、もしやわざわざ夫の服を持ってきてくれたのでしょうか。
子供の居ない魔王城では子供服は無いだろうと、気を回してくれたのかも知れません。
ですが姉姫様の顔を見ると、困っている弟を助けようという感情は一切見えません。
……これは明らかに、自分が楽しむ為だけの用意のようです。
「うふふふふふっ まさかまた、ユーフィリアスで着せ替え遊びが出来る日が来るなんて♪ あら、子供の頃と違って、今は髪が随分長いのね。大人の姿に合わせてあるのかしら。でも肌はすべすべ。髪は艶々。なんて衣装の着せ甲斐がありそうなの!」
「お義姉様……また、とはもしや、以前にも陛下で着せ替えを?」
「ええ、楽しかったわ……! あれは一生の思い出ね! 甥や姪が生まれたら遊ぼうと思って、ユーフィリアスや私の服を取っておいたのは正解だったわ! 手直しするのに時間がかかったけれど、納得出来る出来映えだし、思いっきり可愛くしてあげる……!」
夫が怯えて、私の背中に縋り付いてきます。
こんな子鹿のように怯えた夫は初めて見ます。
この姉姫様の状態が余程恐いのでしょう。私も恐いです。
だって、眼が。
眼が、笑っている奧で炎を燃やしています。
爛々としたマッドな輝きで、私の目も逸らさざるを得ません。
夫は魔族で最強とされる、黒髪紫眼の至高の王。
私は夫に並ぶ魔力を持つ、黒髪紫眼の魔王の妃ですのに。
……ですのに、この恐ろしさは何なのでしょう。
姉姫様の異様な眼力が、私と夫の震えを増進させるようです。
幼少期、夫も恐い思いをしたのでしょう。
トラウマでもあるのか……譫言の様に「許して、許して」と呟いている。
確かに、これは怯えもするでしょうね……。
後で知ったことなのですが……
普段の夫が身なりを完璧に整えているのは、趣味やこだわりによるものではないとのこと。
実は姉姫様の介入する余地を無くす為だったようです。
姉姫様の美意識を少しでも損ねる身なりで居れば、子供の頃からすかさず指導と称して着せ替え人形にされていたそうですから。
夫の身嗜みが完璧なのは、一種の自衛手段だったのですね。
そうとは知らず、私はただ単に、夫はお洒落さんなのだと思っていました。
夫は私の無理解を許してくれるでしょうか……。
「以前から、ユーフィリアスとシェルフィーラにお揃いの格好をさせてみたいと思っていたのよね……。素敵な対なんだもの♪」
ああ……姉姫様が私も標的に……!
この日、夫が入浴を済ませた後。
私と夫は丸一日、姉姫様の着せ替え遊びに付き合わされました。
以前から用意されていたとしか思えないのですが……
何故、私の衣装まであるのでしょうか。
改めて身なりを整えた夫と息を吐く事が出来たのは、夜も更けた頃合のこと。
子供の体で夜更かしは禁物だと思い至った姉姫様に、ようやっと解放されました。
安心と疲労感から、夫婦揃って深く寝室のカウチに並んで身を沈める。
隣合う夫の、低い目線。
隣を見ても目線が合わないのは常ですが、逆転した位置関係に不思議な心地がします。
笑わないと、もう誓いましたのに。
短い丈のズボン裾から覗く白い膝小僧が、無性に微笑ましく思えました。
私の口元が緩んだのを、見て取ったのでしょう。
憮然としながらも、どことなく咎めるような視線で夫が私を見上げてきます。
「……いつまで笑っているつもりだ?」
「あら、陛下は私の笑顔がお好きなのでしょう? 確か、結婚前にそう仰いましたわよね? 私の笑顔が一番好きだから、ずっと笑っているようにと……」
「おっ お前はなんでそういう、つまらないことをいつまでも……!」
「つまらなくなんてありませんわ。貴方の好みのことですもの」
「お、お前はっ!」
「なんでしょう?」
「……もう良い。妻に頭が上がらぬはどこの家庭も一緒だ。それが吾にも適用されただけのこと。衝撃を受けるようなことでもない」
溜息を、わざとらしく零しながら。
私の肩に身を寄せてくる夫の重みが、とても軽くて。
募る違和感は、確かにある。
確かに、あるのだけれど……
それよりも夫が隣にいること。
その温かな体温に、違和感よりも大きな充足感が胸に満ちる。
隣に居るのは、幼い姿だろうと確かに夫だと理解しているからこそ。
私は馴染んだ体温をもっと深く感じようと、夫の伸ばしてきた手を握り返す。
「陛下、私……考えたのですけれど」
「ん、なんだ……?」
「陛下は子供化したことで、明らかに弱体化されています」
「……確かに、単独で戦域に出ることは不可能だろう。だが統治能力に不足はない」
「ええ、そうですわね。ですが私は思うのです。
不測の事態が起きた今、御身の代わりを務めることこそ妃たる私の役目だろう……と」
「はっ!? おい、何を言う?」
「陛下が前線に立たれたのは、魔族を鼓舞する意味もありましょう」
「確かに……だが、待て。シェラ、冷静に考え直せ。そなたは今、明らかに動転している」
「御自ら、先陣を切って勇者と相対されていたのも……魔王である陛下が勇者を抑えねばならぬと。そう思われてのことでしょう。私は陛下の妻ですもの、わかっております」
「シェラ、吾が妃よ。そなたの理解と献身に日々支えられ、魔王の位にも重圧を感じることなく今日まで十全に責務を果たすことが出来ていたとも。だが、待て。理解と献身も時には休暇を必要としていると思うのだが」
「陛下、私……貴方がお力を発揮できぬ時は、私が貴方の不足を補わねばならないと思うのです。ですから……陛下が今日までお勤めになられてきた責務の中で、果たせぬものがあるのでしたら私が代替を果たします」
「シェラ……考え直せ。今すぐに」
「ふふ……以前はあんなに力強く私を抱きしめて下さいましたのに。今ではほら、こんなにお力も弱くなってしまわれて……子供の力で掴まれても、簡単に解けますわね。私が逆に抱きしめて差し上げます」
「く……魔力が封印されていると、こんなにも力が出ないとは」
「今の陛下では、戦線で魔族を率いるのは不可能。勇者の相手など以ての外です。ですから……
…………ですから、私が陛下の代わりに勇者の道を阻んでみせましょう 」
「危険だシェラ! 絶対にそれだけは許せん! 何より、勇者は吾の玩具だぞ、取り上げると言うのか」
「いいえ、そんな……取り上げるだなどと。陛下の身代わりを務めるだけですわ。ええ、これも魔王の妃の責務ですもの。全力で、私が、陛下が復活されるよりも先に……勇者を倒します」
「シェラ、顔が笑っているぞ」
「まあ、夫を前に微笑み以外のどんな顔を浮かべると言うのです?」
「そなた……あれか、三ヶ月放置したことか。ずっと放っていたことを怒っているのか」
「怒るだなんて、恨むだなんて……誤解ですわ。陛下、私は陛下を一途にお慕い申し上げているだけ。陛下だけを愛しております」
「く……っ不覚にもときめいた!!」
「陛下、待っていて。私とて黒髪紫眼を持つ者……実力に不足はないと証明してみせます」
「戦闘経験皆無のそなたを1人で戦線に出せる訳がなかろう。戦域にはこの吾に呪いをかけるなどという非常識な魔女まで出没するのだぞ。……あの魔女め。あやつさえ現れなんだら」
「……そういえば姉姫様がお出でになられてすっかり聞きそびれていました。魔族でも最強であらせられる陛下が何故、斯様な災禍に見舞われたのです」
「知らぬ。考えたくもない」
「知らぬ、ということは……」
「……戦場にいきなり、魔女が現れたのだ。頭がおかしいとしか思えぬが、出会い頭に婚姻を結べと迫ってきた」
「え?」
「言葉を重ねれば重ねただけ鬱陶しい手合いの気配がしたので「断る」と一言告げて振り払った。そうしたら何やら得体の知れぬ液体をぶっ掛けられた。濡れた、と思って気付けばこの有様だ」
「陛下、ではそのお姿は魔女の薬によるものだと……?」
「魔力を感じたので、何らかの呪法が込められていたのだろう。魔女めは己との婚姻を受け入れぬ限り永遠にその姿だと叫んで消えおった。現場近くにいては、いつ何時更なる被害を及ぼされるかわかったものではない、というのも城に退避してきた理由だ。まんまと呪いにかけられ、子供の姿になったなど前線の指揮にも関わるからな。今は現場周辺を中心に直属の部下達が魔女の捜索に当たっている」
早く捕獲して呪法の解析を進めねば、元の姿に戻る算段も立て難い故な……と。
陛下のお言葉は、この時には既に私の耳を素通りする状態になっていた。
陛下に結婚を迫った?
断られて、脅迫も同然に呪った……?
詳しく話を聞く程に、私の胸を焼く業火。
これは紛れも無く怒りでありましょう。
戦場を知らない人間には、魔族を醜悪な姿の化け物だと思っている者も多いと聞きます。
実際に戦場帰りの人間は、故国で魔族の姿を化け物のようだと語る場合があるとも。
ですが前者と後者では、『化け物』の意味合いが大きく異なります。
魔族の容姿は、人間の目から見てとても麗しい。
それこそ、『魔』と呼ばれるほどに浮世離れして。
姿かたちは魔力の高い者ほど麗しさを増し、魔王ともなれば言うまでもなく。
魔族の目から見ても、陛下以上に美しい殿方は存在しないと断言できる。
そんな陛下に一目惚れする者はいて当然のこと。
見蕩れない女がどこにいましょう。
陛下を前に婚姻を夢見る女は掃いて捨てるほど、山を成します。
相手が分別もつかない幼き童女というのであれば、まだしも。
『魔女』というイキモノは『場』を満たす思念から生じた魂が長き時を経て変じたモノ。
魔力を溜め込み、肉体を得て、思念の元となった生物の姿を模したモノ。
多くが『感情』という強い思念を持つ、人間や魔族の怨念から生じた精神生命体。
つまりは人間や魔族に準じた思考能力と感情、人格を有する正真正銘の化け物。
怨念に満たされた土地を浄化する作用の一端として生じるそうですが……
そこは重要ではありません。
重要なのは、『彼女』達が私達に近い感覚を持っているはずだ、ということ。
ソレが恐れ多くも、出会い頭に魔王陛下に求婚とは。
あまつ、断られたからと呪って脅すとは。
「………………陛下」
「シェラ……? どうした、震えているのか……………………良い笑顔だな」
「私、やはり戦場へ参ります。陛下の代わりに」
「……よくよく考えて、出した結論がそれか」
「ええ、いくら考えようとも、私が戦場へ赴く以外の選択をすることはありません」
「力強く断言するな。先程よりも声が固いが……」
「そして魔女を、私が倒します」
「は!?」
「これは……そう、きっと私への試練。陛下への愛を試す、女の試練なのです」
「何を言い出すのだ、シェラ。吾に呪いをかけた魔女だぞ? 危険すぎる」
「身の程を知らぬ思い上がりを潰すのです。そのためには、私自らが赴かねばなりません」
「潰す!? シェラ、そなたとは思えぬ乱暴な物言い、どうしたというのだ」
「思い知らせて差し上げるのです。陛下には、私という妻が既にあるのだと」
「しぇ、シェラ? 言い分はわかったが……そなた、我を忘れてないか」
私の気を引こうとしてか、夫が私の肩を揺すります。
心配げに見上げてくる目には、困惑。
私自身も困惑しているのだから、夫が困惑するのも無理はありません。
今まで夫に守られ、安全な城に囲われ、平穏を甘受してきた私です。
こんな激情が……怒りに駆られる強い気持ちがあるとは、知らなかった。
けれど他ならぬ夫に関すること。
これだけは譲れないのです。
そう、夫を自分勝手に害するモノを排するは、私の役目。
この役目だけは、誰にも譲らない。
「陛下、待っていて下さいませ。必ず……私が、魔女を捕まえます」
「シェラ……」
相手は正真正銘の化け物で、神出鬼没。
ですがやりようは幾らでもありましょう。
私は固い決意の元、姉姫様に協力を仰いで戦場へ赴く準備を整えました。
戦場の指揮自体は実績のある姉姫様が引き受けて下さったので、私がやることは勇者の足止めと夫に災禍を見舞った魔女の捕獲作業。つまりは戦域での自由行動となります。
合間に魔族の戦陣を訪い、慰問や鼓舞といった精神的支援も同時に行いますが。
普段は城より出ることのない私です。
魔王の妃である私が足を運び、言葉をかけるだけで士気への影響は大きいと姉姫様は力強く保証して下さいました。
夫は何度も、何度も何度も説得してきましたが、こればかりは聞けません。
決意が変わらぬとみるや、譲歩にも条件があると約束を求めてきました。
私の身の安全を第一と、条件は幾つか提示されたのですが。
その1つは、戦場を良く知る夫の同行を必須とする、というもの。
それでは夫が戦線を離れた意味を無くします。
何より、今の夫は子供の身。
魔力の使えない、力なき身。
それこそ本末転倒と、夫婦の話合いは長く続きましたが……
その日、神託により見出された勇者が精神的不調による胃痛から回復して退院した日。
彼の勇者を前に立ち塞がったのは、漆黒の髪に紫眼の魔族。
魔族の中でも最強の魔力を有す証拠とされる、色の組み合わせを身に宿す者。
小柄な体に纏うのは、白いシャツと幾つかの装飾品以外が全て黒い服装。
胸元には深緋の、ベルベットのリボン。
長い黒髪の頭に、黒レースと細い金リボンで装飾の施された帽子。
半ズボンから覗く白い膝小僧を惜しげもなく曝し、少年は宣言した。
「吾が名は魔王ユーフィリアス! 勇者よ、そなたを今日より再びイジリ倒す者だ!」
「なにこのデジャヴ!? すっげぇ縮んでるけど、どうした魔王!?」
「私の……妾の名は魔王妃シェルフィーラ。今日より夫たる魔王に代わり、貴方達の行く手を阻む者です」
「しかももう1人、だと……!? え、なにこの美人。魔王の嫁!? 爆発しろ魔王!!」
少年の帽子と同じモチーフの、黒レースの日傘。
白い詰襟のシャツに、黒いドレス。そして胸元に深緋のリボン。
私は戦場の礼儀を知らない。
代わりに出会い頭の礼儀として殊更優雅にお辞儀を送る。
陛下の精神攻撃により入院していたという勇者は、呆けた顔。
恐らく場違いだと思っているのでしょう。構いません。
私は微笑を浮かべ、戦闘能力を失した夫に寄り添う。
「……シェラ、吾以外の男に微笑みかけるな」
「まあ、ふふふ……勇者に微笑んだ訳ではありません」
「では、何故笑う」
「決まっているではないですか」
「ほう? 何が決まっていると」
「貴方と隣り合って寄り添っていられる幸せに、ですよ」
その瞬間の、私の笑みは。
鏡を見ずとも、飛び切り極上で会心の笑みだったと断言できる。
言葉を失った、勇者。
言葉を失った、夫。
全く違う立場のはずの、2人の殿方。
けれど今は、何だか揃って同じ表情をしているように見える。
茫然自失、勇者と夫の様子を示すに、その言葉がよく似合います。
初の戦闘をしなければ、と意気込んでいたのだけれど……
私以外の誰も動かない場合は、どうすれば良いのかしら?
小首を傾げた私の頭に、姉姫様のお言葉がふっと思い出されました。
あら?
もしやこれは……私の『1人勝ち』というものなのかしら?
最後まで読んでくださり、有難うございます!
活動報告の方にこの短編の設定メモを乗っけるので、興味のある方はご覧ください。