真作 2
リビングのソファに座って『霧のペルシア』を眺めた。場所はテヘラン、時間は早朝。前夜の冷え込みが厳しく、霧が深い。街中にコーランの祈りを語る調べが響く中、髭を生やした男たちが果物やスパイス、肉が並ぶ店に立つ。商品を手に取り、確かめる客や店の者が、カンバスから飛び出しそうな勢いのあるタッチと繊細な精確さで描かれている。
霧が晴れ、一条の光が差し始めた。男たちの脇を、小さな一輪車を持つ、年老いた男が歩いて行く。
男が、俺を見ている。いや、驚いたことに、見ているのは一人ではない。他の三人も俺を見ている。カンバスの霧が、深い奥行きを作り、変化を生じさせていた。俺が見る位置を変えても、男たちの目が、追い掛けてくるのだ。
以前、リビングでエリカを抱いた時に「あの人たち、エッチよ。ずっと、こっちを見ている」と目を丸くしていた。「また、おかしなことを話している」としか思っていなかったが、あの時、エリカは『霧のペルシア』の立体的な構造に気が付いたのだ。
「凄い。『霧のペルシア』は、名作、いや傑作だ!」
ピカソの『アビニョンの娘たち』や、セザンヌの『大水浴』のような評価を得ていい作品で、日本の洋画壇にとっての大傑作! きっと、この絵を美術展に出せば、祖父の評価もまた変わるはずだ。俺は興奮のあまり、気が付いたら絵の直ぐそばに立っていた。
祖父のイランへの旅に同行したのが、父の神山倖平だ。当時二十六歳、将来を嘱望された画家の一人だった。
父は、祖父が美大教授をしていた時の油彩教室の教え子で、祖父の一人娘の栞と出会い、結婚した。助手として、祖父の創作活動を影で支え、順風な人生を送っていた。
四十三歳の時に、父は祖父にむりやり個展を開かされた。初個展の評価は惨憺たるものだった。個展から二ヶ月後に「今までたくさんの絵を描いたが、もうこれ以上は描けない」と遺書を残して、投身自殺をした。母は、父の死のショックが癒えぬまま、半年あまりで、風邪をこじらせた肺炎で死んだ。
祖父には、子供は、死んだ母しかいなかった。そのため、一人息子の俺が、何も希望したわけではないが、祖父の跡継ぎだ。両親が死んだ後、大学生だった俺の住む家や生活費に、就職の世話まで祖父はしてくれ、俺は当然のごとく受け入れた。しかし、中には、俺にとって迷惑なものもあり、十日ほど前に「近くに来たら『霧のペルシア』が見たくなって寄ってしまった」と、邑澤秘書が訪れたように、いつまで経っても子供扱いで、秘書を使って俺の様子を伺わせていた。
祖父は、葉山の自宅に併設されている私設美術館を壊し、今の三倍くらいの大きさの新しい美術館を建て、その館長として、俺を迎える腹づもりでいた。
そのために、二年前、俺が大学を卒業する時には、就職先として有名美術館の学芸員の椅子を用意してくれていた。
祖父が勧めてくれた美術館は、俺のような、坊ちゃん大学をどうにか卒業した者が働けるレベルの美術館ではなかった。
たぶん、有名美術館で働かせて、俺に箔でも付けたかったのだろう。大学で学芸員の資格を取得しても、美術館や博物館で働けるものなどほんの僅かであり、こんなチャンスがあるわけないのだが、祖父の操り人形になりたくない俺は、断った。
あのとき、孫の就職のために、きっと下げたくはない頭を下げたであろう祖父は激怒したが、俺の気持を確かめた邑澤秘書が間に入り、祖父をなだめてくれた。
俺は「自分の就職先は自分で探すから、放っておいてくれ」と、祖父に見得を切った。だが、講義に出るより、六本木のクラブで遊ぶ生活を送った俺には、働く場所など、そんなに簡単には見つけられない。結局、祖父のコネで、卒業後は帝国画廊で働いた。
祖父の作品は、若い頃から、帝国画廊の個展を通じて売られた。ピカソの作品をカーンワイラー商会が扱ったように、帝国画廊は、祖父の絵をレゾネを作って管理している。
新入社員として働き始めた俺まで、帝国画廊では、祖父の作品と同じように、美術品扱いだ。とても一生ずっと働く場所とは思えなかった。
三ヶ月足らず帝国画廊を辞め、自分が見つけてきたファースト・オークションで働くと言い出した。俺の二度目の就職騒動も、祖父の面子をつぶすのに十分だったが、この時も邑澤秘書は、怒れる祖父を、またどうにかうまく収めてくれた。