真作 1
西麻布のマンションは、広さ一五〇平米、3LDKと一人で住むにはだだっ広い。
三〇畳近いリビングは南に面し、昼間は太陽の光が燦々と入る。祖父がアトリエとして使うために購入したのだが、一度もここでは絵を描いてはいない。同じように洋画家だった父が使い、両親の死後、俺は成城の家から越して来て住んでいた。
リビングには一枚だけ、絵が飾られている。それが『霧のペルシア』で、描いたのは俺の母の父である桐島禎博だ。『霧のペルシア』は、馨の携帯に写っていたものではなく、リビングの絵が真作だ。
祖父は四十六歳の時に、急性骨髄性白血病で妻に先立たれた。妻が急死した翌年の一九八六年に東京美大の教授を辞め、四月からイラクと交戦中のイランへ半年間の旅に出た。のちに《大回天の旅》ともいわれる旅の成果は大きく、多くのデッサンを描き帰ってきた。
イランへの旅以降は、祖父の絵は、タッチを含めて別人のように変わり、それまで以上に評価されている。この一連のイランをモティーフにした絵は、ペルシア・シリーズと呼ばれた。
銀座の帝国画廊で開かれたペルシア・シリーズの個展は、多くの人が詰めかけ、並木通りから中央通りまで客が列をなしたという伝説を作ったほどだ。
四年前に祖父の秘書である邑澤翔子が、『霧のペルシア』をこのマンションに持って来た。
「桐島先生のお孫さんの博延さんよね。今度、先生の秘書になった邑澤です、よろしく。電話で話したように、桐島先生が、こちらに置くようにって……」
髪を後ろにまとめて、ハリウッド映画に出てきそうな、ワーキング・ウーマンの装いで、ジーンズと青いコットンシャツ、アースカラーのセーターを首に巻いた女性がやってきた。対象を全てオブジェ(芸術品)に変えてしまうのか、大きな段ボールを持つ邑澤秘書の姿は、まるでヴィーナスが壺を持つように似合った。
あらかじめ邑澤秘書がやって来るのは連絡がありわかっていたが、初めて会ったこの時は、俺は色眼鏡で見ていた。
邑澤秘書が、うちのマンションに来る二ヶ月ほど前に、祖父は週刊誌に『桐島法皇物語』を書かれた。
気にくわない画家や才能のある画家を画壇から追い出したり、芸術院会員から四年と異例の早さで文化功労者になった祖父の政治力や画壇での隠然たる力、三十以上も歳の差がある美人秘書の存在に、俺の父の死まで触れたゴシップ記事だ。
当時二十歳の俺は、週刊誌で祖父の醜聞を読み、絵を持って来た邑澤秘書を「金目当てに、色仕掛けで祖父を惑わす悪女」にしか考えていなかった。
「何も、ここじゃなくってもいいのに」
懸命に言った嫌みも、生意気な小僧が吠えている程度にしか、邑澤秘書には映らなかっただろう。
「あなたもそう思う。先生は、葉山の自宅に併設してある美術館が手狭だから、ここに置くって……。それなら、セキュリティも考えて、どこかしかるべき美術館にでも貸与すればどうですかと話したのよ」
祖父がここに置くように指示したのが、秘書は気に入らないようだ。
「この絵は、ずっとコレクターが持っていたの。それを最近先生が帝展に出した代表作の一つと他にも二つ加えてやっと交換したのよ」
頼みもしないのに、勝手に、絵の由来を話してきた。
イランへの旅から帰国後、最初に描いた作品が『霧のペルシア』で、旅を実現してくれた祖父の後援者でもあるコレクターに、旅の礼として贈った。ずっとこのコレクターの手元に置かれ、美術館に展示されたこともなく、どの画集にも載っていない絵だという。
「博延さんは大学で絵を勉強しているのよね。きっと先生は、本物の絵を、孫のそばに置いてあげたいと思ったんだわ。この絵が毎日観られるなんて凄く贅沢よ。先生の最高傑作だから、これを見て、しっかり頑張って勉強してね」
この時は、俺の姉にでもなったように振る舞い、大学での勉強や、食事の心配などを一通りして、帰って行った。