青い瞳の女 3
「あっ!」
何かの都合で、女がコピーを落としたようで、すっと空中を散歩すると、俺の靴の上に着地した。手を伸ばして拾い上げ、雨が浸みた靴で汚れていないか確認して渡した。
「すっ、すみませんでした。どうも、ありがとうございます」と、幼い子どもが、大きな過ちを犯したように女は頭を下げた。
「その絵は、桐島禎博ですね?」
落としたコピーは、俺の祖父である洋画家・桐島禎博の個展の図録に違いない。
「えっ! わかります」
女の手には分厚いコピーがあり、それだけで画集ができそうなほどだ。
桐島禎博は、洋画壇の第一人者だ。文化勲章受章、芸術院会員の肩書に馴染みはなくても、テレビのコーヒーのCMなどで、誰もが一度は目にしているはずだ。桐島禎博の画集なら、ちょっとした大型書店に行けば、必ず置いてある。
わざわざ国会図書館に来て、個展の図録をコピーする女は、よほどの桐島ファンなのか?
「これは、桐島禎博のペルシア・シリーズの一つですね」
落とした絵は、桐嶋禎博の名声を高めた、一連のペルシア・シリーズの作品だ。ちょうどいい切っ掛けを見つけた俺は、女との会話を途切れないように、すかさず話し掛けた。
「詳しいのですね。絵のお仕事をされているのですか?」
たった一枚の絵を当てただけで「絵の仕事を?」と決めて掛かる女が、不思議だった。よく見ると、高校生というほど幼くはないが、まだ、二十歳を越えたか、越えていないくらいにしか見えない。
「じゃあ、どんな、仕事だと?」と、女が年下なのをいいことに、どんな返答が返ってくるか楽しみにして、からかうように試してみた。
女は俺を見ると、考え込んだ表情になった。
「あのう、もしかしたら、さっき……、すれ違ったような?」
首を少し傾げ、女は軽く微笑んだ。やわらかい笑顔が魅力的で、女の回りだけ、一瞬にして他とは違う空気が漂う。
「ええ、六時少し前くらいに、勢いよく、国会図書館に向かって、走って行く人がいましたね」
「あっ、あれは、ネットで予約したコピーを取りに行く時間の締め切りを確かめていなかったから、すごく焦ってしまって」と、笑った。
伸びやかな笑顔が、俺を惹きつけた。きっと温かい家族に守られ、温室の野菜のように大事に育ったのだろう。話す度に、徐々に俺に近寄ってきて、爽やかなコロンの香がした。
「お仕事のこと、やっぱり全然わかりません」
俺がどんな仕事だと訊いたのを、まだ覚えていたようだ。俺への話し方は、生徒が教師に返事をするように、真面目な調子だった。まだ、手つかずに感じるのは、エリカとは正反対で清々しい。
「神山博延といいます」
俺は、内ポケットから名刺を出すと、ちょっと営業用のスマイルを浮かべながら、女に渡した。女は、大事そうに名刺を受け取り、しげしげと見つめた。
「ファースト・オークションって、絵のオークションをやっているところですか?」
女は、ちょっとはにかんだようにして、青い瞳を輝かせながら訊いてきた。
「絵だけではなくって、陶磁器など美術品全般を扱っているんです」
俺の答を聞いて、以前から知っているのか? 今度は、妙に納得したように頷いた。
「私は、諏訪馨といいます。白鷺女子大文学部英文専攻の三年生です。神山さんは、学芸員の資格も持っていらっしゃるのですね」
初めて会った男に、フルネームと大学の学部や専攻まで名乗る無防備さは……。この諏訪馨という女は、よほど人が好いのか、それとも世間慣れしていないのだろう。名刺に刷ってある学芸員を訊かれて、俺は、軽く頷いた。
馨は、口をクッと結び、再び微笑み返してきた。馨の笑顔が魅力的に見えるのは、頬の笑靨のせいで、俺の仕事になぜか興味を持っているようだ。