小さな絵 1
梅雨の真っ盛りの六月十七日(火)、美術第一課の絵画オークションは福岡で下見会が始まった。
ファースト・オークションでは、絵画の場合は、まず福岡で一日、大阪の営業所で二日間、主要作品の展示を行う。翌週の水曜日からオークション当日の土曜日の午後一時まで、銀座六丁目にある本社ミュージアムで、全ての作品を展示する。
下見会の最終日である土曜日は、夕方から都内のホテルのバンケット・ルームを借りてオークションを行う。
今回のオークションは、いつになく注目が集まっていた。
最大の目玉品は、最低落札予想価格が三億円のピカソの『マタドール』のはずだ。だが、福岡や、大阪でも、ピカソではなく『霧のペルシア』に注目が集まった。
福岡の下見会に訪れた全国紙の九州支局の記者が「幻の名画発見!」と、三段見出しの記事を朝刊に書いたのが始まりだ。
大阪での下見会が始まると、下見会の模様と「桐島画伯のペルシア・シリーズの最高傑作! 重要文化財級の作品」との著名な美術評論家のコメントが夕方のテレビで流れた。当の桐島は、ベトナム・タイへの取材旅行中で、ベトナムについては、テレビ局が『巨匠の旅』として特番放映が決まっていて、今回の出品が最高の前宣伝になった。
帝国画廊が確認したように、祖父は現在はプライベートでタイのリゾート地にいるようだ。美人秘書と出掛けてコメントが取れないのが、口さがない人の間で話題を生んだ。
で、西日本での下見会が終わった翌日の土曜日の午後、俺と馨は喫茶店《Cat's》でコーヒーを飲んでいた。馨とは、モディリアーニ展を一緒に観に行って以来よく会っていた。会う場所は、決まって《Cat's》だ。
最初に会ったのは、仕事が終わった後に俺が《Cat's》に行った時で、モディリアーニ展に行った翌週の火曜日だった。
聞き覚えのある声がすると思ったら、馨が大学の友人と一緒に来ていた。
「猫好きの友人に《Cat's》の話をしたら『ぜひ行きたい』って煩いから、連れて来た」と悪戯っぽく笑う。
「なんて馨は言っているけど、本当は『馨が着いてきて!』と頼んだからですよ」と友人が白状した。
「内緒にしてくれる約束だったじゃん」とすかさず馨は真衣に軽く叩く。
どうやら、実際は馨が俺に会いたくって、《Cat's》に友人を誘ったようだ。
一緒に来ていた馨の友人は、《今井真衣》といい「上から読んでも、下から読んでも、《いまいまい》なの」と馨は笑った。女の世界の関係はどんなものか知らないが、真衣は、どちらかというと馨の《舎弟》、いや《子分》といった感じだった。
二度目は、その翌日で、「今日はCat'sに来ないのですか?」と家に帰ったばかりの俺の所に、馨からメールが来たから出掛けたのだった。
馨が《Cat's》に来ている時に、たまたま俺が残業で行けないと「これからCat'sを出ます。今日は、ヒロが来ないので残念でした。 グスッ!」とメールを送って来た。
どうやら馨は《Cat's》が気に入ったようで、何度か来ると、直ぐに常連のように扱われた。可愛い女には目のないマスターは、馨が来ると上機嫌で「いまどき、美人であんな純情な娘はいない。大事にするんだぞ!」と俺を励ましてくれた。
もちろんマスターは、馨の干支をしっかり訊いていた。俺が行くと「今日はまだ、うさぎちゃんは来ていないよ」と冷やかした時は、うさぎちゃんが馨だと気付くのに、数秒かかった。
今では、俺も馨の家庭教師のバイトが月曜日と木曜日であるのを覚えた。自分の残業はなるべく馨のバイトの日である月木に済ませて、他の日は早く会社を出るようにした。もちろん馨に会いたいからで、仕事を早く終えると《Cat's》に顔を出し、馨が画廊に出る土曜日の午後も《Cat's》に出掛けるようにしていた。




