戸惑い 1
PAULの夜、上智大学の前の土手で、手を伸ばしたら、馨は俺の手を握り返してきた。鈴木からの携帯が俺に弾みをつけ、思わず馨を抱きしめた。
キスまでは許さなかったが、馨は、俺の抱擁を受け入れた。出会ってまだ間もない俺たちだが、あの夜は、なぜか馨が俺を拒むとは思えかった。
馨は、綺麗な女性が多い表参道の街を歩いても、目を惹く。女ばかりの附属の小学校から、そのまま女子大に入ったのだから、男と接する機会が少なかったのだろう。いまどき、こんな女がいるかと思うほど、うぶな女だ。だが、摺れていない分だけ、どこか隙があるような気がする。
四ッ谷駅に戻り馨と別れた後は、複雑な気分だった。馨を抱きしめた達成感と、強引過ぎたために、馨に嫌われたのではないかという不安だ。ただし、俺の心配が、杞憂であるのは、直ぐにわかった。
翌日の朝、赤いハートマークはなかったが、「昨晩は、ごちそうさまでした」と、馨から礼のメールが来ていた。だが、俺からは、折り返して馨に電話やメールは送らなかった。
俺が馨に連絡をしなかった理由は、どうしても『霧のペルシア』が気になって、だ。いったん、絵の真贋については、黙っておくと決めたが、絵が贋作であるのを知っている後ろめたさを感じ、馨に接触するのを遠ざけた。
今回の美術第一課の絵画オークションでの『霧のペルシア』の出品は、やはり人目を惹いたようだ。
オークション・カタログは有料で、画廊を中心に年間購読されている。宅配便でカタログが届きはじめると、電話が入ってくるのは普段と変わらないが、今回は特に『霧のペルシア』の問い合わせが多いようだ。金を持て余し、いつも積極的に参加するある企業の個人オーナーは「今度の桐島の絵は、必ず競り落とす」と宣言したと聞く。
先日も一課の社員が手一杯で、代わりに俺が電話を受けた。その時は、地方の公立美術館の学芸員からだった。『霧のペルシア』の出品を知り、オークションに参加したいとの問い合わせだ。
バブル崩壊後、公立美術館や博物館における購入予算はかなり削られた、と聞かされていた。後々問題になる恐れがある作品に公立美術館が興味を持っていると聞くと、複雑な気分になった。
普段、日本の画家の良作を見ると、個人コレクターに渡るよりも、是非、公立美術館で所有してもらいたいと考えていた。だが、オークションに出た『霧のペルシア』だけは、個人のコレクターの手に渡って、できれば銀行の貸金庫の中で、しばらくは眠ってもらいたかった。
困った鈴木の姿を思い浮かべて、贋作であるのを馨に告げるのを黙ったのに、今は正反対の心配をしていた。