桜の木の下で 6
俺たちは、PAULを出た。「酔いを醒まさない?」と誘うと、馨は従いてきた。
上智大学の前の土手に上がり、木のベンチに並んで腰掛ける。桜の葉が、五月の風に音を立てていた。
時折、電車の音が響くが、人通りはわずかだ。
馨の携帯が鳴った。馨は手に取り、相手を確かめると、直ぐに目を逸らした。ディスプレイに浮かぶ「ファースト・鈴木」の文字が、俺からも見える。
携帯が留守電に替わり、しばらくすると切れた。時間は、二一時三五分だ。こんな時間に電話をするなんて、仕事熱心を通り越している。
「よく掛かってくるの?」
「最初の頃は、特に……。最近は、以前よりは少なくなったけど」
どうやら馨は、鈴木からの電話を歓迎していないようだ。
「オークションの出品で?」
「ええ、オークションのお話で電話が来るんだけど、他にもいろいろ話されて、いつまで経っても、なかなか電話を切ってくれないんです。私も、自分からは電話が切り辛くって」
きっと鈴木は、馨の気持を知らないで、ぺちゃくちゃと話しているんだろう。俺は、鈴木と電話で話している馨を想像し、なぜか隣にいる馨が汚らしく思え不機嫌になった。
だが、やはり鈴木が気になり、二人がどんな話をするのか、つい訊いてしまう。
「私が映画をよく観に行くと話してからは、何度か誘われているんです。ずっと断っているけど、私は言ったつもりはないのに、オークションで絵が売れたら、一緒に映画を観に行くって約束したと誤解しているみたいで、最近は『何を観に行く?』って、電話が来るたびに訊いてくるんです」
いかにも困っているように馨は話す。
本当に馨は鈴木からの誘いが嫌なら、嫌だとはっきり示せばいい。中途半端だから、鈴木のような人間は誤解するのだと、俺のイライラは募るばかりだ。
そもそも、馨と出会ったのは俺が先だった。馨がファーストに電話をしたのも、俺がいたからだ。それなのに、馨から出品の申し出があったのを俺には隠して、一方で仕事にかこつけて映画に誘ったりしているとは。
俺は、目の前の馨を鈴木には絶対に渡したくなく、自分のものにしたくなった。
馨を誘い、ニューオータニのほうに向けて歩く。薄明かりの中、手をすっと伸ばしたら、握ってくれた。そっと見ると、微笑んでいるのがわかる。
鈴木にも、俺と同じ笑顔を振りまいているのか? 馨の手に初めて触れたのよりも、鬱陶しい鈴木の存在を考えてしまう。
二人は、どこまでの仲か? 俺は、これで三回ようやく会っただけだ。鈴木はオークションの出品もあって、何度も会っているのだろう。こんな時間でも電話を掛けてくる鈴木を、きっと男性とのつき合いが少ない馨は断れないのだ。
今のうちに鈴木より、一歩でもリードしたかった。
握っていた馨の手をぐっと引いた。バランスを崩した馨の体を強く引き寄せ、唇を奪おうとした。
ところが、馨は許さない。唇は諦め、馨の体を抱きしめると、馨は離れようとするわけではなく、それどころか、軽く俺の背中に手を回してきた。俺たちは、そのまま、しばらくじっと抱き合った。
薫風が、五月の夜空に舞う。ちょっと世間知らずな馨を、俺は愛し始めていた。