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霧のペルシア  作者: ウニコ
20/31

桜の木の下で 5

「オーバカナルでは、真作か、随分と気にしていたよね?」

 俺は、今までより一歩踏み込んだ形で馨に訊くことにし、始めた馨とあったときのことを尋ねた。

 やはり、馨は察しがよいのか、俺が何を知りたいのか、瞬時にわかった様子だ。俺の不安を打ち消すように、絵を手に入れた経緯を話し始めた。

「四月の初めに、段ボールに入った『霧のペルシア』を持って、店に人が来たんです。ちょうど、父がタバコを買いに出掛けていた時でした」

 馨は、ちょっと早口になって、話し続けた。

「じゃあ、飛び込みの客だったの?」

「いいえ、私は、初めて会った人だけど、父の以前からの知り合いの方でした。後から訊いたら、昨年の末まで、上毛美術館のキュレーターをしていて、最近、新しく画廊を始めた人でした」

 美術館のキュレーターを辞め、画廊を始める人がいるのだ? 俺は、あまり聞いた覚えがないような気がする。

 それに、今まで働いていた美術館が、上毛美術館と、何かと噂があるところだ。

「よりによって、上毛美術館か!」

 少し大きな声になってしまった。

 上毛美術館は、公立の美術館だ。二年前に、職員が収蔵品を持ち出して美術市場で売り、新聞沙汰になった。他にも、あまり芳しくない噂が多々あり、桐島作品も数点持っていたのが気になる。

「どうかしたんですか?」

 馨は、何か思い当たるふしがあるのか。不安そうに訊いてきた。

「いや、確か桐島作品を持っていた美術館だな、と思ったんだ」

 馨を無闇に心配させても意味がないので、上毛美術館が桐島作品を持っているのを思い出したと取り繕った。

「『父は直ぐに帰ってきます』って伝えたら、通りに車を駐車したままだからと、絵の入った段ボールを店の入口に置いて、出て行ったんです。父から、お客さんが絵を持ってきた時は、扱いには十分気を付けるようにと教えられていたので、私は凄く心配だった」

「最低落札予想価格が一億五千万円の絵を、置きっ放しか!」

 確かに、元キュレーターは、太っ腹といえばその通りだ。しかし、俺が客の絵を預かったのなら、五万円の絵でも、絶対に手元から放さないだろう。

「そのときは、私はどれほどの価値がある絵なのかは知らなかったから、ただ大丈夫かな、と思うだけでした。でも、億もする絵だったのだから、と考えたら不用心過ぎると思いますよね。その人が戻ってきて、直ぐに父も帰ってきました。それで、あの絵を見せられたんです」

「絵については、なんて説明したのかな? その元キュレーターは」

「確か、段ボールから出す前に『何も訊かずに、これから出す絵を見て、まず判断してくれ』って言われたんです。私も、父と一緒にいたから、その場で聞いていました」

 馨は、何か思い出したのか、一瞬顔色が変わった。

「どうかした?」

「いえ、何も説明なく、ただ『判断してくれ』って突き放すように預けられたので、見る側も身構えてしまったのか、って。どんな絵が出てくるのかなかな? っと思ったら『霧のペルシア』が出てきたんです」

 突然、桐島禎博の傑作と瓜二つの作品が出てくれば、絵を見る力を持つ者なら、きっと驚くだろう。

「お父さんは、それを見て?」

「父は、最初は戸惑った顔をしました。後で訊いたら『桐島禎博のペルシア・シリーズは、なかなか出るものではないから、驚いた』そうです。でも直ぐに、父が凄く絵を気に入ったのがわかりました。その人は『どう思う?』って、自信を持った様子で、父に訊いてきました」

 絵画の取引については、俺はよく知るわけではないが、骨董は美術年鑑のようなものはないだけに、気に入っても顔色を変えたりはしない。胆胆堂の林ののっぺり顔は、少し不気味すぎるが、ちょっとでも手の内を見せると、直ぐに値段がはね上がってしまうのだ。

「それで?」

「『すばらしい!』って父は叫びました。父は画廊を経営しているけど、ポーカーフェースでいられる人ではないんです。『うちのお客さんの中にも、桐島作品を欲しい人はたくさんいるが、ペルシア・シリーズを買うような人は思い浮かばない。いったい、どれくらいで?』と、最後はまるで客のように訊いたんです」

「そうしたら、いくらって?」

「いえ、それが、いくらかはっきり言わないで、こんな風に、したんです」

 馨はテーブルの上に細く綺麗な両手を出した。右手で作った指を左手で最初は隠し、ちらっと見せた。指は二本だ。

「私、二本なので、二百万円かなと思った。そしたら、父が『二億か。一億なら、直ぐには無理だけど、うちでも出せないわけではない』って」

「二〇号のペルシア・シリーズなら、二千万円でもとてもじゃないが、手に入らないよ。売値は二億か。いくらで、その元キュレーターは手に入れたのかな?」

「手に入れた値段って、話したりはしないんですよね?」

 確かに、馨の言う通りだ。古美術もそうだが、画廊間の取引でも、きっと軽々しくは喋ったりはしないのだろう。

「そしたら『二億で売りたいけど、もちろん、ある程度は交渉には応じる。ただ、委託ではなく、無理して買い取ったもので、商売を始めたばかりのため、利子が嵩んで困っている。もし、今直ぐに引き取ってくれるなら、諏訪さんにはいろいろと世話になっているから、言い値の一億で譲る。一億なら、買手はいっぱいいるはずだから』って」

 二億が、一億にと言うのか? 骨董の世界なら、客に売る値段と業者間で開く《市》の値段とは、かなり差がある。画廊間の取引でも、きっと同じようなものなのだろう。しかし、画廊を開いたばかりの元上毛美術館のキュレーターが、20号の桐島作品を買い取ることなど出来るとは思えない。

「それで、売買が成立したわけ?」

「ええ。もちろん、父はカンバスを外して、全てをしっかり確認した上で、ですよ!」

 どうしてなのか、このときだけは、さっきまでとは違う強い口調になった。

「父がその人に『まさか、危ない筋じゃないよな?』って、心配して訊いたんです。そしたら『売主に頼まれていて、絶対に口外しない約束になっている』って」

「絶対に口外しない、か」

 話ができすぎていて、元キュレーターが仕組んだ詐欺のような気がしないわけでもない。

 だが、古美術の世界でも、売主から口止めされる事例は、よくある。それだから、骨董屋は、“ある筋”や“しかるべき”と言葉を濁したりするのだが。

「ええ、でも一言『どこかの企業の重役と懇意にしている女性とでも思ってくれ』って、変な笑いを見せたんです」

「重役と懇意にしている女性って、愛人?」

「父も、同じように言いました。『お妾さんかな?』って」

 男はみんな同じ発想をするのかと、馨に指摘されたようで、穴があったら入りたい気分だ。

「そしたら『諏訪さんだから話すけど、若い女性だ。でも、これ以上は口止めされているから、何も話せない』って」

 馨は、俺の気持など関係なく、同じ調子で話す。一睨みされたら、きっと小さくなってしまっただろう。

「それで、お父さんは買ったんだ。画家の年鑑ものは、どこまで信頼を置いて良いのかは、詳しくないんだけど、桐島禎博は、今は一号千五百万円前後のはずだから、二〇号のペルシア・シリーズが一億なら、きっといい買い物なんだろうな。うちの会社のエスティメイトも、最低価格が一億五千万円だったんだから」

「そう、思います?」

 語尾が少し上がっている。一億五千万円を信頼しても良いのかと、俺に確かめているのだろうか。馨の言葉のどこかに、不安が入り交じっていると感じるのは、俺が真作の存在を知っているだけなのか。

 一億で、父親が買った絵を心配し、真剣に話す馨と言葉を交わすのが、次第に申し訳なくなってきた。

「まあ、誰の目にも二〇号の桐島作品ならそう思うんじゃないか、という印象で話しているんだけどね」

 馨だけではなく、自分にまで言い訳をした。

「私も『一億なら』って父が話した時は冗談だと思い、まさか、本当にお金を工面して買うとは思わなかった」

 一億円で買った絵を、まだ二ヶ月も経っていないのに売るのだから、言葉には出せない思いがあるのだろう。

 こんな経緯があったのか。ただ、今、馨から聞いた話では、国会図書館の帰りのオーバカナルで、真作かあれほど気にしていた理由は、まだ霧の中に隠れてしまっている。

「もう一度、訊くけど、どうして真作なのか、あんなに気にしていたの?」

 何度も同じ問いを繰り返したくはないが、仕方なく、再び訊いてみた。

「絵を売った人が『重役と懇意にしている女性とでも思ってくれ』って変に笑ったのと、二億で売る予定だった絵を店の入口に置いたまま、車を移動しに行ったから」

「そう、本当に?」

 今の馨の言葉だけでは、完全に同意はできなかった。思わず『本当に?』と確かめていた。

「ええ!」

 馨は、諏訪画廊で俺にオークションの話をした時のように、ちょっと固くなって答えた。

 確かに、馨の心配がわからないわけではない。だが、絵を置いたままだったのは、単なる不注意かも知れない。変に笑ったのも、絵を売りに来た若い愛人を想像したら、男ならついやるだろう。

 しかし、馨の話の通りなら、馨の父は絵の価値を認め、手元に置きたくて手に入れたのだ。買ったばかりの絵を、今回のオークションに出す必要はないはずだ。

 諏訪画廊に、何か売らざるを得ない特別の事情が生じたのだ。それがいったい何かだ。

 四月に諏訪画廊を訪れた時に、学生時代とは、絵が随分変わっていた。馨は絵を入れ替えたと説明したが、あれは一億円を捻出するために、手持ちの絵を処分したのだろう。

 オークションに出すのは、画廊の運転資金に不足でも生じたのが、原因なのか? それとも、何か他に事情があるのか。

(どうして君のお父さんは、気に入って買った絵を、直ぐにオークションに出品するの?)

 舌の先まで出かかった言葉を、呑み込んだ。馨の家の台所事情にまで踏み込むような気がしたのと、俺自身が、真作が存在するのを黙っている後ろめたさもあってだ。

 もしかしたら、馨の父は、あの絵が贋作だなんて、少しも思ってはいないのではないか。店に飾らなかった理由だって、逆にあまりにも高価な絵だから、心配して置かないのかもしれない。

 ファーストの査定セクションが、真作だと認めた作品だ。帝国画廊のレゾネには掲載がなかったが、それも問題があるわけではないという。真作がリビングにない、他のペルシア・シリーズの作品だったら、俺だって、タッチの微妙な差に気づかず、疑いは持たなかっただろう。

 ただ、どうしてこれだけの経緯で、市販されている画集を全て調べたりし、わざわざ国会図書館まで通って、馨はコピーを撮り、図録を探したのだろう?

 まさか、真作ではない秘密を、何かしっかり握っているわけではないだろうし……。

「オークションには、真作しか出せない規則があるのは、知っている?」

「担当の鈴木さんに伺いました。でも、心配は要らないって」

 無邪気に微笑んだ。それが癖なのか、いつも話した後に馨は微笑む。

 今までは、そんな馨の笑顔が気に入っていた。だが、馨の口から鈴木の名前が出るだけでいい気がしないのに、その上に微笑まれると、余計に気分が悪くなる。

 しかし、あの絵を、誰もが真作だと考えている。馨の父に、ファーストの査定セクション、鈴木は別にして、絵を売った元キュレーターも含めれば、三人以上のプロが真作だと信じているのだ。

 だが、あれは贋作なのは、明らかだ。

 このまま隠し通すのではなく、今ここで馨に、真作が別にあり、諏訪画廊の『霧のペルシア』は贋作だと話すべきではないか。

 出品は中止になるが、第一課の担当は、いつも嫌みな鈴木だ。元はといえば、鈴木が俺に馨からの電話があったのを話さないで、オークションの出品を勧めたから、起こったのだ。

 俺が頼まれたのなら、絶対に出品はさせなかったはずだ。絵が売れるのかと期待した馨や馨の父には、ぬか喜びをさせて申し訳ないが、それも鈴木の責任だ。俺の鈴木に対する表しようのない怒りは、沸点に達してきた。

 しかし、このまま俺が何も言わずに黙っていて、逆にオークションで諏訪画廊の絵が落札されたら、どういう展開になるだろう?

 後で贋作だとわかったら、担当の鈴木はいま中止するよりも、もっと困るはずだ。何が起こったとしても、目の前の馨は、鈴木に勧められて出品した被害者に過ぎない。

 馨は、俺に相談して出品したわけでもないのだから、俺に責任があるわけではない。責任は鈴木にあり、困るのも鈴木なのだ。会うたびに、「よっ、学芸員!」と馬鹿の一つ覚えのような嫌味を繰り返してくる鈴木が、このまま放って置くことによって、後で苦しむのを想像すると痛快だ。

 真作があるのは黙っておき、もうオークションの絵については、何も触れないでおこうと俺は決めた。

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