桜の木の下で 3
俺は、目の前にあるグラスを空けるように、馨に勧めた。
「そのことは、後で話そう。今日は、まず……」
俺たちの間には、共通の話題は絵しかないが、馨は普段の学生生活や、入っている英会話サークルの話をしてくれた。
「さっき、スタバで英語の原書を夢中で読んでいたでしょう?」
「北の丸スクエアのスタバは、時間つぶしによく利用するんです。私、英語の世界に入ると、直ぐに周りが目に入らなくなってしまって、駄目なんです」
目の前の馨は、きらきらと目を輝かせている。
「いつも、原書で読んでいるの?」
「英文学を勉強しているからだけど、本当は海外の推理小説が好きなんです。ペーパーバックなら、たくさん出ているし、二日もあれば、一冊は読めるから」
「じゃあ、ペラペラなんだ?」
「うーん、どうかな。留学していた人と比べると、ヒアリングとかは、やっぱり駄目かな。友達は、英語バカの世間知らずっていうけど」
馨は、何か思い出したように笑った。
諏訪画廊に行った時の、しっかりした馨を知っている俺には、世間知らずと友人に揶揄されるのが不思議だった。
「どうして、世間知らずなんて言われるの?」
俺の知らない馨を知るようで、つい興味を持ってしまう。
「私、大学に入るまで《伝家の宝刀》を、《天下の宝刀》だと思っていたんです。他にも、月極駐車場を、月極さんという人のチェーン店だと思っていて、母の実家の山形に帰省した時に、月極駐車場があるのを見つけて『月極さんのチェーンが、うちの田舎にもできていた』って友だちの前でして、笑われたり」
どれもよく聞く話ばかりだが、俺も馨に合わせて笑った。
「俺は《箱根の山は天下の嶮》を、ずっと《天下の剣》だと思っていた」と白状した。
「ずいぶん尖った大きな刀なんですね。神山さんは、私より凄いかも」
アルコールが入ったからか、馨は大きな声で笑った。
俺は、馨の父親には、以前に会っていたから知っている。母親の実家は山形のようだが、外国人の血が混じっているのかと思い、
「英語が得意なのは、ハーフか? クオーターだからなの?」と、愚にもつかぬ問いをした。
一瞬、俺を見て黙った時は、調子に乗って言い過ぎたと不安になった。
「子供の時から、よく言われるんです」
ちょっと困った表情をした後、さっきまでと同じ馨に戻って、無邪気に笑ってくれたので、安心した。
「さっき話したように、母が山形出身で、母の兄弟も同じような目なんですよ。母方の従兄弟には黒い瞳もいるけど、半分くらいは私と同じかな。髪の毛まで茶色いのは、私と母だけだけど」
きっと、色素が薄いのだろう。鼻筋が通り、健康的なバラ色の肌をしているので、ハーフのように見えてしまうのだ。
「一応、生粋の日本人です!」とカラカラと笑った。
俺たちは、お互いに印象派の絵が好きだった。
「今度、一緒に観に行かない?」と駄目元で誘ってみたら、意外にもOKの返事が返ってきた。
馨が微笑む度にできる笑靨が、俺を優しく包んでくれる。俺は、この後、オークションの話をするのが、気が進まなく、鞄に入れてきたカタログが重く感じた。