桜の木の下で 2
余裕を持って、六時二〇分頃に、約束のスターバックスに着いた。北の丸スクエアのガラス張りになったスターバックスは、外からよく見渡せる。
ほとんど空になったカフェラテを置き、英語のペーパーバックを夢中で読んでいる馨がいた。
そばに俺が近寄っても気付かない。
「諏訪さん!」と呼んで初めて、びくっと飛び跳ねるように顔を向けた。
俺は、突然、呼び出したのを詫び、一緒に食事をできないかと誘った。
「家庭教師のアルバイトがない日だから、大丈夫です」と、馨は笑靨を見せて笑う。雄なら、人間でなくても、虜にされてしまうような笑顔だ。
武道館のコンサートで訪れるだけの俺には、九段下辺りの店はわからない。日が長くなった外に出て、タクシーに乗り、四ッ谷の駅のそばにあるPAULに出掛けた。雰囲気のいいカフェ・レストランだ。
馨はジーンズに、ダンガリーの長袖シャツといった軽快な服装だ。普段の地味な学生生活ぶりがわかり、俺はますます気に入った。
「こんな服装で大丈夫ですか?」と馨は車の中で、しきりに気にしたが、PAULはドレスコードなどないカジュアルな雰囲気の店だ。
スリムなジーンズが細い脚に合い、最近ちょっと短くした髪が素敵に似合っていた。
ハウスワインの赤をフルボトルで頼んだ。馨の前に置かれたワイングラスに、赤ワインを注ごうとすると、グラスを手で覆って遮った。
「アルコールは駄目なの?」
「そんなわけでは、ないんですけど」
グラスから手を離したが、なぜかワインを飲むのに抵抗があるようだ。
「飲んで話そう。それとも?」
わざと、言葉を切って、馨の様子を窺った。
「えっ?」
馨は怪訝な表情で俺を見た。
「いや、こんなところで男と二人で酒を飲んでいるのを、君のボーイフレンドが知ったら、叱られたりするのかなと気になって」
「それなら、大丈夫です。いないから。ただ、直ぐに赤くなるのが恥ずかしくって……。笑わないでくださいね」
アルコールが入っていないのに、もう頬を染めていた。見た目は、青い瞳や茶色の髪のために派手に見えるが、返ってくる言葉の一つ一つは、馨以外の女なら冴えないものばかりだ。
馨のグラスにワインを注いだ。
上智大学のそばの気取らない店を選んだつもりだが、馨は相変わらず緊張している。きっと、女子大に通っているため、男と一対一で飲んだりする機会が少ないのに違いない。
俺の手前勝手な妄想は、都合のいい方向にますます膨らむばかりだ。
「じゃあ、再会に乾杯!」
わざと軽く、明るく言って、手にしたグラスを、馨のグラスと合わせる為に前に出した。カンという音が、少し強く響いたのは、馨がぎこちなくグラスを重ね合わせたからだ。
俺には、洗練されているとはいえない馨の物腰が、逆に心地よかった。
「神山さん、今日は、オークションの出品の話ですか?」
頃合いを見て、俺から話すつもりでいたが、まだ飲み始めたばかりなのに、馨が先に尋ねてきた。
「どうして?」
先に訊かれたため、わざと惚けた。
「ファースト・オークションの鈴木さんから、カタログが出来上がったから持って行きたいと、今日、何度も留守電に入っていたから」
やはりカタログに載っていた『霧のペルシア』は、諏訪画廊の絵だった。
それにしても、一課の担当は、よりによって鈴木だ! 下手に、一課の人間に『霧のペルシア』の出品について尋ねなくって良かったが、一方で、オークションの出品のために、馨が鈴木と話している光景を想像すると、なぜか心が騒ぐ。