もう一枚の絵 3
胆胆堂から、諏訪画廊に来る途中、もし、馨が真贋について尋ねてきたら、真作があるのを話そうかと考えていた。それだけに、馨の態度は意外というか、拍子抜けといったものだ。
俺が絵の前の応接セットのソファに座ると、馨は店の奥に入って行き、直ぐにグラスとポットをトレイに載せて戻ってきた。
「温かいものより、冷たいものがいいと思って。ただ、麦茶しか用意してなくって、ごめんなさい」
大学の三年生とまだ若いが、店でのこうした応対は慣れているのだ。てきぱきと無駄のない様子で、白くグラスの外を曇らせた麦茶を二つ、テーブル上に並べた。
「この絵を、神山さんの会社のオークションに出せません?」
馨は少し声を抑えて、ふっくらとした頬を引きつらせて、うかがうような目をして尋ねてきた。声は大きくないのに、少し媚びた声が、店の中に響いた気がした。
俺は、顎を出し、反射的に馨を見た。さっきまでとは違い、馨の顔に暗いベールが覆った気がする。
いったい、どういうつもりで、馨は頼んでいるのだろうか?
もし、贋作を掴まされて困り、うちのオークションで売るなら、それは無理だ。ファーストでは、真作しか出品できない。
確かに、落札予想価格を付けずに、真贋保証もなく、怪しい美術品を出すオークションハウスは存在する。しかし、そうした所で落札されるものは、額縁代にいくらか足した程度の端金にしかならない。
もし、俺が馨の頼みを聞いて『霧のペルシア』を出品しようとしても、目利き揃いのファーストの査定セクションによる入念なチェックが待っている。桐島作品だけに、帝国画廊のレゾネも必ず確認するはずだから、きっと真作でないのはわかる。
今の馨の申し出は、受けてあげたくても、受けられないし、受けたとしても意味がない。
オークションに出すのは、馨の父親は承知しているのだろうか。「他にも相談したいことがあって、今日は都合が良い」と、馨が電話をしてきたのを思い出した。
「お父さんが、オークションに出すって言ったの?」
「いいえ。父には、まだ何も話していません」
話し終えた後、俺とは目を合わせたくないのか、ばつが悪そうに、馨は下を向いた。
「なら、自分で、勝手に?」
「ええ」
なんか、これ以上あれこれ執拗に訊くのは、一方的に馨を責めているようだ。
馨は果たして、絵が真作でないのを知っているのだろうか? そうだとしてオークションへの出品を頼んでいるなら、とても健気だと思う。
とにかく、馨は、父親には内緒で、俺に相談しているのだ。電話を掛けたのも、馨は俺に『霧のペルシア』を見せて、オークションへの出品を依頼したかったからだ。きっと、父親がいない今日は、都合が良かったのだろう。
絵の所有者である、馨の父親が知らない申し出なら、何も、今この場で返事をする必要はない。つまり「この『霧のペルシア』は、贋作だから出せない」とまでストレートでなくても、それに近い形の話を、俺の口からはせずに済むなら、ちょっと肩の荷が下りた気がした。
「そういうことは、まず、お父さんと相談してからにしなければいけないよ」と、言葉を選び、優しい兄のような口調で諭した。
馨は「そうですよね」と、顔色を変えずに言葉を返してきた。頬には、むりやり作ったような、引きつった微笑みが浮かんでいる。馨や馨の父が『霧のペルシア』を手に入れて困っているのなら、どうにも方策がない。
「そうですよね」と返事した馨が、無理して平静を装っているようで、何かしてあげたかった。
だが、諏訪画廊の贋作を、うちのリビングの真作と換えられるものではない。目の前にある贋作を見ながら、馨と話すのが次第に気まずくなってきた。
そこで「また何かあったら、会社に連絡をください」と申し訳程度に挨拶をして、諏訪画廊を後にした。