もう一枚の絵 2
胆胆堂から、諏訪画廊に来る途中、もし、馨が真贋について尋ねてきたら、真作があるのを話そうかと考えていた。それだけに、馨の態度は意外というか、拍子抜けといったものだ。
俺が絵の前の応接セットのソファに座ると、馨は店の奥に入って行き、直ぐにグラスとポットをトレイに載せて戻ってきた。
「温かいものより、冷たいものがいいと思って。ただ、麦茶しか用意してなくって、ごめんなさい」
大学の三年生とまだ若いが、店でのこうした応対は慣れているのだ。てきぱきと無駄のない様子で、白くグラスの外を曇らせた麦茶を二つ、テーブル上に並べた。
馨からの電話を受けて、早稲田から真っ直ぐ電車を乗り継ぎやってきたため、俺は喉が渇いていた。
「良かった。実は出先から急いできたので、喉がからからになっていて、何か飲み物ありませんかと、図々しくもお願いしたいくらいだった」
水に飢えた砂漠の民が、オアシスの井戸の水を飲むように、勢いよくグラスの麦茶を空けた。
「麦茶一杯で、そんなに喜んでもらえるなんて、神山さん、たくさん飲んで帰ってください」
馨は、屈託なく笑って空になったグラスに、最初と同じ量だけ、ポットから冷たい麦茶を淹れた。
昨日はあれほど不安そうだったのに、今日は落ち着いた応対をしている。細やかな心遣いがわかり、そばにいるだけで、とても心地よかった。
「昨日から黙っていたけど、一度、この店に来たことがあるんだ」
「それは、いつですか?」
「三年、いや、四年前かな。あの時も、そこに貼ってあるのと同じような、東京美大の学生の展示会のポスターがあったよ」
俺は、八月に諏訪画廊で開かれる『東京美大 七人の侍展』のポスターを指した。
「ここで画廊を始めた頃から、毎年、美大生に場所を貸しているんです。父が、若い美大生に、絵を発表する機会を与えてあげたいと言って……。今年の方たちは、七人展ではつまらないから、《七人の侍》にしたそうです。面白いでしょう」
馨は晴れやかな顔をしている。ポスターは、写楽のようなタッチで、刀を差した七人の侍を描いたものだ。
「ああ、あのお父さんね。あのときも、いろいろお話を伺ったよ」
馨は父親を思い出したのか、クックと抑え気味に笑った。
「きっと、父の話は、長かったでしょう? 迷惑じゃなかったですか?」
「画廊のオーナーさんというより、コレクターが夢中で絵の話をする感じかな。飾ってあるだけで、売り物じゃない絵があったのを覚えている」
「父は、本当に絵が好きな人なんです。特に、洋画が。この画廊は、祖父の頃からやっていて、元は、祖父の父親が集めた絵を、売り始めたんです。戦前は京橋に店を構えていて、その後こっちに来たんです。昔は随分いいものがあったのだけど、わけあって売り、あのときに我慢していれば、うちは億万長者だとか、あの絵があったらと、祖父が生きていた頃に、よく聞かされました」
六本木通りを高樹町の交差点から抜け、青山通りまでを通称骨董通りと呼ぶ。戦災にあった京橋界隈の道具屋・骨董屋が戦後この界隈で店を始めたから付いた名だ。きっと、諏訪画廊もその口なのだろう。
他の人なら自慢話にも聞こえる話を、馨は普通に話せる女だ。画廊主の娘として、家族に十分な愛情を受けながら育ったのだろう。俺の心は、来た時以上に、馨のほうへ振り向き始めていた。
「俺が訪れた頃も、お店の手伝いをしていたの?」
「いいえ、高校生だったから。私は、店を手伝いたかったけど、父が『高校生には……』とか言って、店に出るのはいい顔をしなかったのです。でも、大学に入ってからは、外でアルバイトをするより、ここにいるほうがいいみたいで」
きっと、娘が可愛くて、外には出したくないのだろう。普段の仲のいい父娘が容易に想像できる。馨の歳には、両親が死んでいた俺には、羨ましかった。
馨は、ほんの少し顔を傾けながら、両親を思いだしていた俺を見た。頬には、あの笑靨が浮かび、茶色い髪に、形のいいアーモンド型の目の中心には、エメラルドのような青い瞳が輝いていた。
「若い画家の絵が、以前よりも増えたのかな」
現代画家の作品は、あまり売れない。そのため、画廊は場所だけとるため、どこも置きたがらない。諏訪画廊が積極的に扱っているのに感心した。
「最近、作品を入れ替えたから」
話し終えた後に、馨が顔を曇らせたのは、どうも俺が思ったのとは違い、他に理由があるようだ。以前は売り物ではないといった油彩や、中堅画家の作品が見当たらないのが気になった。
「神山さん、オークションに出すと、絵は安くなるんですよね」
「そんなことを尋ねられると困ってしまうな。ものによって、なんて答えているんだ。ただ、君が画廊さんの娘だから話すけど、実際は画廊が売る価格と比較すると、安くなることが多いね。オークションでは、最初に値をつけるのが画廊の人で、その後個人の収集家が残る。普段の画廊の買値と、売値との間に、オークションの落札価格――つまり、売買価格があるようなものさ。ただ、百億円もするゴッホの作品なら、オークションも画廊も変わらないけど」
「百億円ですか?」
驚いた様子で俺を見た。
「百億円なんて、海外のクリスティーズやサザビーズの話で、日本のオークションハウスでは、そんな作品を扱った所はない。バブルの頃は知らないけど、最近では去年(平成十九年)の五月にピカソの『旗を持つ男』が、確か四億二千万円で落札されたのが、国内オークション・レコードだから」
『旗を持つ男』を扱ったのは、ファーストではなかった。普段、この話をする時には、他のオークションハウスで落札されたと詳しく話していたのに、馨の前では自分の会社ではないと話すのを、躊躇してしまう。