真作 5
胆胆堂の前まで行き、俺は驚いた。貸店舗募集と紙が貼ってあった店の半分が改装され、ルイ・イカールのエッチングが飾られている。俺は、ここ半年ばかり胆胆堂を訪ねていなかったのに気が付いた。
「驚きました? 神山さん」と、店に入ると、開口一番、林が話し掛けてきた。
のっぺりした顔は変わらないが、いつもは白い顔が、この日は赤かった。
「隣は、別ですよね?」
「いえ、うちです」
「林さんは、絵の目利きができたの?」
「神山さん、冗談は、私の場合は顔だけです」
そんな剽軽な話をしても、林は自分から笑うわけではない。画廊は、オーナーの鴨志田が思いつき、三ヶ月前に改装して、人を雇い絵画を扱うようになったという。
「絵は、キューレーターさんが見るから、こっちは変わりません。あっちは、随分景気がいいようで。ところで、神山さん。キューレーターって、何ですか? 絵を描いたりする人ですか?」
いつもの調子で、林は淡々と話す。胆胆堂は、林の生まれる前からある店だが、林の態度から生まれたのかと思うような店名だ。
俺は“林淡々堂”に「キューレーターではなく、キュレーターと言って、ちょっと前までは学芸員を指したけど、最近は博物館や美術館で働く専門の研究職を呼ぶ」と説明した。
「じゃあ、キュレーターは、こちょこちょと絵を直したりする人ではないんですね」と、なぜか俺を見ないで林は咎めるように叫んだ。美術品の修復もすると説明しようとしたが、林は俺に観てもらいたいと言った、例の古瀬戸の瓶子を取り出し「これが電話でお話しした……」と説明を始めたので、やめた。
俺は、二日間も国会図書館に通って調べたため、林の持つ瓶子を見た途端に、思わず笑ってしまった。永仁の壺事件の後、いくつか真似て制作された古瀬戸の写しに違いないのだ。
「どうです。いけませんか?」
「林さんは、どう思うの?」と、以前から尋ねたかったのを初めてやってみた。
「これは、いけません。この近くに住む骨董好きが、骨董市で、『造った時代さえはっきりすれば、重要文化財になってもおかしくない』とうまく口車に乗せられて買ったんです。三十万円だと、得意そうにして見せに来たんですよ」
そんな話は、美術品を扱う中ではごろごろしていた。それが当たり前だと慣れた今は何とも思わないが、狐と狸が化かしあっているようで、最初は不思議でならなかった。
「この世界は、値段があってないようなものです。だから、壱万円の皿でも、相手が五百万円でどうかと値踏みすれば、せいぜい勉強したように装い、買主の言い値の五百万円やそれ以上で売る悪い輩もいます」
値段があってないのは、俺の働くオークションも同じだ。バブルの時のオークション会場には、最前列にノンバンクの人間が並んだ。彼らは、ずっと札を上げ放しで、落札予想最高価格の三倍四倍で落ちるのもざらであったという。
重要文化財級の瓶子を手に入れたと勇んで持ってきた骨董好きが、「どれくらいか?」としつこく林に訊いたそうだ。
林は「三千円なら買い取ってもいい」と値を付けたら、怒って帰った。どうやら他の骨董屋では、もっと安く見立てられたようで、一週間ほどして「毎日ずっと見ていると、頭に来るから」と、三千円を受け取り置いて帰ったという。
「うちも商売だから、適当、いや適切な値段を付けて売ります。けど骨董屋は、許可を受けて人を騙すわけではないから、古瀬戸の写しとして売り出します。最初から贋作とわかっているものを、本物のふりをして売れば、客は二度とこの胆胆堂の敷居を跨がなくなるから」
さっきと同じように、俺を見るわけではなく、それでいて、いつになく熱っぽい、強い口調だ。
京橋や日本橋の骨董屋は別にして、胆胆堂のような街の骨董屋に対して、俺は穿った見方をしていた。何よりも、林については、初めて胆胆堂を訪れた時の黒楽茶碗のイメージがあっただけに、骨董屋の商売について、こんな自負があるのに驚いた。
しかし、今日の林の呼び出しは、何が目的だったのだろう。俺が知らないと思って、贋作間違いなしの瓶子を見せるためだったのか、それとも胆胆堂の心構えを、わざわざオークション会社で働く俺に示すためだったのか。
いずれにしろ、俺にとっては腑に落ちないものだった。俺は、せっかく来たのだから、隣の画廊に顔を出し、挨拶をして帰ろうとした。
そのとき、俺の携帯が鳴った。見慣れない番号だが、携帯の番号を名刺に刷っているため、珍しくはない。
「はい、神山です」
俺は、林の店の中なので、受話器を口で押さえて話した。
「神山さんですか。昨日お会いした、諏訪です。今、お話をしても、大丈夫でしょうか?」
電話の相手は馨だ。俺は、ちょっと浮き浮きしてしまう。
「ええ、大丈夫です」
「すいません、突然電話をして……。実は、お時間が取れる時に、是非、会っていただけませんか?」
《是非、会っていただけませんか?》の言葉に、そばに林がいるのに「やった!」とガッツポーズをするところだ。
「いいですよ」
林がいなければ、「いいですよ」ではなく「喜んで!」と安いチェーン店の居酒屋のように、応えていただろう。
だが、この後の展開は俺が望んだものではなかった。
「昨日話していた絵を、見て貰いたいんです」
馨は、遠慮がちに頼んできた。
「今、表参道の駅の近くから電話をしています。これから、骨董通りのうちの店に行くんですが、他にも神山さんに相談したいことがあって、実は、今日ならとても都合が良いんです」
「わかりました。今、出先で、ちょっとしたら、出られると思います。お店の場所は、わかっているので、午前中には必ず伺います」
馨の店の『霧のペルシア』を見たい気がしないわけではない。だが、それ以上に「他にも相談したいこと」につられて、林の隣の画廊に顔を出すのをすっかり忘れ、胆胆堂を出た。
音楽に関わる話しを書いています。是非読んでください。
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