プロローグ
「掃除なんか、もういいよ、早く行きな。引っ越し屋さんが、下で待っているんだから」
「ええ、でもー」
最後に部屋を乾拭きして、掃除機を掛けてから出ると言い張って、エリカは聞かない。こんな時に、律儀というか、なんというか、エリカがエリカたる所以だろう。
「ヒロ、一年間、お世話になりました!」
百七〇センチはある大柄なエリカが、あらたまってペコンと頭を下げるのを見ると、俺は嫁に出すエリカの父親にでもなった気分だ。一緒に暮らしていたエリカは、いつも輝くほど明るく元気で、同時に、ちょっと変だった。
俺とエリカが知り合ったのは、ちょうど一年前の今ごろだ。六本木で開いた、合コンで俺たちの変な関係が始まった。
この時一緒だった俺の友人たちは、学生時代によくクラブで遊んだ仲間で、みんな今はそれなりに社会人をしていた。もちろん俺も、銀座にある《ファースト・オークション》というジャスダック上場のオークション会社でバリバリ働いている。
合コン相手が、モデルと聞き、みんないつもは見せないほど力を入れていた。いずれも粒ぞろいの女の中に、ぽつんと浮いているわけではなく、ちょっと他とは反応が違う面白い女がいて、それがエリカだった。
「部屋が狭くなっちゃってね。服が置けなくって、住むところに困ってるー!」
まるで大きな部屋が、勝手に小さくなったように、エリカは叫んでいた。エリカの隣に座り、話を聞いていた奴が、
「この博延は西麻布で一人暮らしをしている。でっけいマンションに住んでいるから、ルームシェアすればいいじゃん」とふざけて話した。
「なっ、博延、いいよな?」と声を掛けられた俺は、前後の脈略もわからぬまま「いつでもいいよん!」とOKサインを出した。
驚いたのは、翌日エリカから早くも、本気メールが来たからだ。もちろん、メールの内容は、引っ越しの話だった。
《今度の土曜日か日曜日に、お部屋を見たい!》と送られて来た文字を見た時は、きっと俺は、ポカンと口を開けて、間抜けな顔をしていただろう。
「こいつ、マジかよ!」と叫んで、数秒後には、水着モデルと暮らすのも悪くないと、良からぬ思いが沸いてきた。
部屋を見に来た次の週には引っ越しを済ませ、僅か二週間で、合コンからのルームシェアによる同棲と、本来あるべき出来事がないまま、俺たちの関係は一気に進んだ。だが、俺とエリカの心の中は、合コンの前と変わらず、愛や恋には、縁遠いものだった。
心の中が離れていても、俺たちは、一つ屋根の下で暮らす、プラトニックな修行僧や尼ではない。そこは、一緒に暮らしている若い男女だけあって、人並みかそれ以上にHをして、見た目は、街で見かけるラブラブなカップルと同じだ。
もちろん、そこそこ売れているモデルのエリカだけに、外を歩けば直ぐに男が寄ってくる。それなのに「私は複数の人とは、できないの……」とやけにその辺は堅い。
エリカが俺のマンションに来て、半年が過ぎた頃「好きな人ができたの!」と、急に体一つで出て行った。その時は、一週間で帰って来たのだが、短い破局を予期するかのように、荷物は一週間後に取りに来ると約束していた。
帰って来た時には、「やっぱりここがいい」と玄関で俺を見て泣き出した。およそエリカとは似つかわしくない、乙女のような清らかさを感じた。
《綺麗な花は、散ってみなければ、その価値はわからない!》
エリカがいなくなって、俺がしみじみと感じた言葉だ。
「この一週間、一人で暮らしてみて、この台詞を何度も口ずさんだ」と話したら、
「そうでしょう、そうでしょう」と餌を前にしたラブラドール犬が、ご機嫌で尻尾を振るように、ピチピチギャルのエリカは喜んだ。
元に戻った俺たちの関係は、それから半年程また続き、これからも変わらず続くものだと思っていた。
だが、今度は本当にいい男ができたのだろう。
二週間前に突然「ヒロとは、もう一緒に暮らせないー」と荷物を整え始め、エリカはヤドカリのような気楽さで、今日さっさと越して行く。
朝一番の引越便を頼んで荷物を運び出し、今は、自分の部屋の最後の後片付けをしていた。
「また、泣いて帰ってくるんじゃないよ?」
からかう姿とは裏腹に、帰って来るのを密かに期待しているなんて、エリカは露程も知らないはずだ。俺の言葉を聞いて、べそを掻いた顔をされると、出て行かれるこっちが切なくなる。
掃除機を片付けたエリカを見ながら、何も、餞別を用意していないのに気付いた俺は、何か身の回りにあるもので、渡せるものはないかと考えた。
「どうしよう。俺、何か記念に餞別を用意すれば良かったのだけど、気が利かなかった」
俺は、心から何か記念の品を、エリカには渡したい。
「そしたらー、えーと、一年間ここでヒロと一緒に暮らした想い出に、クローゼットの絵を貰っていい?」と尋ねてきた。ちょっと憂いを含んだ表情は、昨日まで見た覚えのないものだ。
クローゼットの絵とは、俺が学生時代に描いた趣味の絵だ。文学部で西洋美術史を学んだ俺は、ときどき絵を描いていた。
「素人に毛が生えた」とよく聞くが、睫毛一本分くらいの毛しか生えていない、まさしく素人絵であり、とうてい人に上げて飾れるような、立派なものではない。
下手な絵でも「想い出に!」と頼まれると、嬉しくなり断れないのが素人画家だ。
いい気になってクローゼットに入ると、絵が入った段ボール箱が綺麗に並んでいる。どれも中にはそれほど変わらない、静物画が入っているはずだ。選ぶ俺にとっては素晴らしい世紀の傑作の数々であっても、人の目には酷評されるような絵だけに、一番奥にある段ボール箱の一つを手に取り、気恥ずかしさもあって、中を確かめずに渡した。
エリカは、大きな段ボール箱を手にすると「これ、ヒロだと思って、ずーっと大切にするから」と普段のエリカには似合わぬ神妙な言葉を残して去って行った。
綺麗に掃除機が掛けられたエリカの部屋からは、マンションの脇の大きな桜の木が見える。昨日は、今にも花を咲かせそうな蕾だったのが、今朝は温かいためか、二つほど開いているのが見えた。
エリカが引っ越したのは、三月二十二日(土)。東京地方にソメイヨシノの開花が宣言された日だった。