古本屋“紅葉堂”
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
私は古本を購入されたお客様に頭を下げて、退店される後ろ姿を見送る。店の扱うものが古本で、店先もショッピングモールからわずかではあるが離れていることもあり、客数はどんな時間帯もそう多くはない。
しかしそれは逆に、余裕があるぶん忙しさは言い訳に使えない理屈で、私は接客態度の丁寧さにはいつも万全を心がけるようにしている。スーパーやデパートのレジで例えれば、お客様が少量の商品しか購入なさらない時は自発的にビニール袋においれすることを、常に行うとかそんな感じだろうか。
風丘市は風丘駅前ショッピングモールからやや離れた、古本屋“紅葉堂”。そこが私の、バイト先である。
私が親元から離れることにした理由は、まずもって炊事洗濯といった家事を家政婦さんに頼らないこと。日々の生活費を自分で稼いでみることを知ると目標を立てたからである。
つまりここ風丘市にやってきたのは自立精神を養うための決断だったのだが、それは想像以上に大変だった。
生家から出て、未だ一月足らず。生活費を賄ってくれる父様や、家事を行ってくれる家政婦さんがいる実家暮らしというものがいかにありがたいものだったのか、すでに現段階で骨身に染みている。
実家にいた時は本の一冊も読むゆとりがあった日々も、今は学業に武芸の稽古、バイトに家事、それだけで手一杯である。しばらくは一日過ごすだけでヘトヘトになって、夜になると気絶するように眠る日々が続いたものだった。
ここ最近で、ようやく休日に周辺の店の開拓ができるようになってきたところである。それ以前は、学校以外には食材を購入するスーパーと生活用品の緊急補充用にコンビニくらいしか部屋と往来していない。なんとも潤いのない生活だったと言える。
バイト先は、往来の内には数えられないだろう。私はここ風丘市に一人暮らしをすると決めた際、下見の時に住居と共にバイト先も予め決めておいたのだが、バイト先と私の住居は、“目と鼻の先”という言葉を使うことすら憚られる近距離にある。
バイト先は一階。住居は同じ建物の二階。アパートのオーナーと古本屋の店主が同一人物で、バイトを決めるために紅葉堂の主である本多店長と面接している際、住居の話が出た時にまだ決まっていないことを告げると、ちょうど空きがあるということで二階のアパートを進めてもらったのである。断る理由もなかったので、私はすぐに不動産を通してスムーズにそこを住居として決定した。
今働いているこの古本屋の二階、そこに借りた私の部屋の間取りは1R。玄関と三畳部屋、台所とトイレはついているが、お風呂はないので銭湯を使っている。今日日、ユニットバスくらいついていてもらいたい気もしたが、店長兼大家さんの好意と築五十年前後の物件であることを併せて、家賃が三万未満で押さえられるのだからまあ仕方ないだろう。
――話題休閑。
珍しく、お客様が立て続けにおいでになった。私は、私生活の回想から古本屋の店員へと意識を切り替えた。
――高温風呂で熱した体を、冷水で一気に冷やす。高熱と低温で、肉体を鍛える一環である。
仕事を終え、隣町の伊勢古武術道場で汗を流させてもらってから一旦自室に戻った後。紅葉堂とは別方向にある、ショッピングモールから少し離れた裏路地。銭湯・竹の湯に、私は来ていた。
湯船は熱めと普通、そして水槽の三種類。入り口から向かって真正面の壁には竹林が描かれ、給水場の列は六列。広さは大体、入り口から湯船を縦として横は約十五、縦十メートルといったところだろうか。
このご時世、家にバスルームがないなんてことはあまりないだろう、だからそんなにお客もいない筈――という私の考えは、否定された。結構な数の女性客が、銭湯を利用されていたのだ。
そこに同年代の女性がいればまだ良かったのだろうが、周囲はみんなご年輩の方々。正直、少し居心地が悪かった。
さらに言えば、家風呂しか使ったことのなかった私には、この銭湯という裸の公共空間に少し戸惑ったことを告白しておく。
告白といえば。部屋に戻った時点でヘトヘトで、お風呂を誤魔化してそのまま布団を引いて寝てしまいたい誘惑に駆られたこともなっていない。
しかしその誘惑に駆られる訳にはいかなかった。これでも私は、花の十六歳。汗にまみれた体のまま、次の日登校するなどという無精は行えない。断じて。
それで明日、学友から“伊勢さん、汗臭い”などと笑われでもしたら、恥ずかしくて生きてなどいられない。この首かっ切って果てるより他ないだろう。一人暮らしで花の乙女を押し通すのは、なかなかに大変だ。
ともあれ、湯と水で埃は落とした。後は石鹸で本格的に垢を落とさないと。
タオルを泡立たせると、それで体をこすり始める。そうした単純作業を行っている内に、私はいつしか先日の乱闘の事件に思いを馳せていた――
私は転入早々、暴行事件を起こした。本来なら実家に連絡されていただろうし、自宅謹慎の処置もあり得たろう。
しかし私が叩きのめした不良たちは、風丘市の中でも相当に手が付けられない部類の女生徒たちであったという。そのことと、唯一の目撃者が沈黙していたことで、私の暴力沙汰は不問となった。
それを聞いた当初は“当然”くらいの気持ちでいた。我ながら精神修行がなっていないとは思うが、しかし後で冷静になった私は、学校に自白しようと考えた。
いかような理由があろうとも、罪は罪だ。確かに絡まれたのは私の方だし、相手に非が無かったと言うつもりもない。
しかしケンカは両成敗であり、実際に四人、入院させる程の怪我を負わせたのであるから、まったくのお咎めなしというのはおかしいと思ったからだ。決定が不問であったからと、罰から逃げるような女にはなりたくない。
それなのに先生方は、
「しかし久遠が、そんなところは見てないっていうんだよ。あいつら札付きのワルだし、目を付けられていた他校の生徒との抗争で怪我したんだって」
といって、取り合ってくださらなかった。
なにより、私が一人で彼女たちを怪我させたという点が信じられない、ということだったようだ。
本当のところ、私としてはそのことが何より悔しい。
それは、私が強く見えないということ。引いては、伊勢古武術の使い手として相応しからぬということだ。
先の暴行事件も、私が最初から強く見えれば、わざわざ彼女たちが私から金銭を巻き上げようなどとは思わなかった筈だ。
私は事件のあった日から数日間、胸にわだかまりを抱いて過ごしていた。
「よっ、転入生。元気にしてっか?」
そんなとある日、わだかまりを胸にして学校の廊下を歩いていた私に、話しかけてきた生徒がいる。
陽光を滑らかに照り返す、水気を十分に帯びた艶やかな黒髪が、腰の辺りまで豊かに伸びている。女性にしては高い背丈、整った顔や手の甲などが血色の良さで健康的な肌色をしており、胸の膨らみや腰のくびれ方といった女性的体線が肉感的な、とても印象的な美人。
不良女生徒たちとの立ち回りの時、私の渾身の手刀をこともなげに受け止めた女――久遠沙織。
つまり、私にわだかまりを抱かせている張本人だった。
「……お陰をもちまして」
私はわずかな沈黙の後、返事をした。
彼女に対しては、様々な感情が心の中を渦巻いていた。だから一瞬、返事が遅れてしまったのだ。
私の暴走を止めてくれた、感謝の念。
私の行いを邪魔したわだかまり。
そしてなにより──
「久遠さん。ひとつ、お聞きしたいことがあります」
「ん? なに」
「貴女は……何か、武芸を?」
「ああ、合気道をちょっとな」
久遠さんは、頬を掻きながらそう告げた。
「なんという流派の合気道ですか?」
「は? 何……て、普通だよ。普通の合気道」
「嘘ですね」
私は、空とぼける久遠沙織をにらみ付ける。
「私の拳は、『普通の』合気道でさばける類の技ではありません。あなたは」
「なあ、伊勢よ」
私が喋っている言葉に被せるように、久遠沙織は告げた。
「お前さ。そんな気持ちで拳を振るってて楽しいか?」
瞬間。私は二の句が告げなかった。
「楽しい?」
「ああ。身体を動かしてたって、そんなんじゃ気持ちよくなれねーんじゃね?」
しばしの沈黙の後、私はようやく言い返す。
「……戯れを」
何故、言葉を詰まらせてしまったのか、それは自分でもよく分らないけど。
私は確信を持って告げる。
「武術とは、孤独な登山のようなもの。楽しいも楽しくないもありません。道続くまで登る、ただそれあるのみ」
「いや、別にいいけどさ」
私のその言葉を聞くと、久遠沙織はこともなげに告げた。
「そんな張り詰めた拳、自分も他人も不幸にするだけだと思うぜ。……これは親父の受け売りだけど」
今度こそ、私は完全に絶句してしまった。
自分も、他人も不幸にする拳──
「……大きなお世話です」
告げるその私の声は、きっと掠れていたのではないだろうか。心が乱れ、そんなことすら自分ではもう判別できなかったけれど。
「今回のことは感謝します。ですが、自分のために他者の手を煩わせるのは本意ではありません。今後は捨て置いてもらって結構ですので。では」
それだけ告げると、私はその場を早足で立ち去り、自分の教室、1-Cへと向かった。
まるで、彼女から逃げるようにして。
久遠沙織。
彼女の存在が、この町に馴染むということよりなお、私の心を掴んで離さない。
彼女の、私の手刀をさばいた身のこなし。彼女を越えずして、私は伊勢の拳士を名乗れない。
私の心は、その思いでいっぱいになっていた。
伊勢流古武術の使い手が、一般に流布が許されている武術に敗北することは許されない。
何故なら、伊勢流古武術は誰も彼もが習えるというような、普通の武芸ではないからだ。
古には、時の権力者の側に侍りその警護に使われた技術。一子相伝とまでは言わないが、暗殺者を始めとした様々な危険から警護対象を確実に守り通した、秘伝の武技である。
私は父からそう教わってきたし、そんな武技を習えることを誇りとしてきた。事実、町でわずかな月謝により習えるようなスポーツライクの武芸では、未熟な私はともかく、父・志郎の足下にも及ぶまい。
それを、こともなげに止めて見せた女。そして、言われた言葉。
“そんな張り詰めた拳、自分も他人も不幸にするだけだと思うぜ”
――思い出すだけで腹正しかった。
一人で暮らすのはこれが初めてだから、きっと気持ちが高ぶって、普段は受け流せる言葉も流せずにいるんだろうと最初は思い込もうとしていた。
しかしそれは違っていた。
ここに来て、風丘学園高等部に転入してから今日この日まで。景色に、町に、学校に馴染もうとするよりなお、私の心を掴んで放さない。
久遠沙織。
彼女の存在が、この町に馴染むということよりなお、私の心を掴んで離さない。
――胸の膨らみや腰のくびれ方といった女性的体線が肉感的な、とても印象的な美人――
「………………」
石鹸で洗い終わった我が身を鑑みて。他の女性客の視線がないことを確認した上で、自分の胸部を両手で触れてみる。
「……まだ、成長期ですから」
風呂上がり、私は牛乳を飲もうと心に決めた。