良い日、旅立ち
──秋。
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
自分こと伊勢静佳は、生まれて初めて親元を離れて生活することになった。
「静佳、早くしなさい。そろそろバスの時間ですよ」
十六歳になる今日この日まで、ずっと過ごしてきた自分の部屋で感慨に耽っている私の耳に、父の声が入ってくる。
「はい、父上。ただいままいります」
自家への名残惜しさや、これから始まるであろう新しい生活への不安が声に滲まぬように。声に淀みが籠もらないよう応えた後、私はこれより数年間留守にする自分の部屋にお辞儀した。
そうしてしばし頭を下げ続けて、お辞儀を解いた後。私は、カバン一つをもって父の待つ玄関に向かうべく自分の部屋を後にした。
玄関を出て、伊勢の屋敷を振り返る。
「静佳」
玄関口まで見送りにきて下さった父上が、いつものごとく静かな笑みを称えて私を呼ぶ。
「行ってまいります。父上も元気で」
今生の別れという訳でもないのに、私の声には悲壮な感情が混じってしまったかも知れない。我ながら大袈裟だと思った。
この先、伊勢の屋敷に戻ることがなくなるという訳でもあるまいに。
「風丘に行っても、伊勢の拳士の名に恥じぬよう心がけます。悟にも、壮健であるよう伝えておいてください」
十六年間、私を育ててくださった父上は、穏やかな瞳で頷く。
父上のこんな顔は、いつものことだ。娘の私が遠方にて一人で暮らし始める、そんな事柄も、父上にとっては心配することにはあたらないのだろう。
信頼されていることが嬉しい反面、娘がしばしいなくなるというのにまったく変わらない父に少しだけ寂しい気もしたが、それは拳士としてあるまじき甘えと、私は自分を心の中で叱り飛ばす。
「はじめての一人暮らしは大変でしょうが、しっかりと過ごしなさい。静佳は潔癖で融通の利かないところがありますから、常に周囲との“和”の心を忘れぬように」
「ご心配いただき、ありがとうございます。父上の教え、しっかりと胸に刻みました」
「よろしい。風丘は今、少々落ち着かない状態にあると聞き及びます。また伊勢の道場も隣町の東清川まで行かねばありません。日々自分をしっかりと保って見失わず、修練も決して怠らないように」
父上のご心配はもっともだった。
今日の夕方には、私がもうそこで住むことになっている風丘町は、来年には近隣の町村と合併して市になるという。そのために、世にヤのつく職業や不良と言われる学生たちの勢力図が混乱し、ちょっとした不法状態に陥っているという話を風の噂に聞いた。
私が風丘学園に転入しても、一切のトラブルに巻き込まれることはない、と断言はできないだろう。
しかし、未熟といえどもこの身は伊勢古武術東京奥多摩支部の師範代。内にて渦巻く若気の発散を、暴力という形でしか表現し得ない不心得者どもごときに遅れを取る訳にはいかない。
私はその意気を父上に示すべく、姿勢を正して口を開いた。
「ご心配なく、父上。私は伊勢の娘、父上の子です」
「……よろしい」
そう言った父上の言葉には、しかしわずかながら沈黙が先立った。
過剰とも思える自信のある言葉が、普段の私からぬものであったためだろう。私としても、心底から自信があっての発言ではない。
だが、こうすることで自らに言い聞かせるとでも言おうか。父上にそう告げることで、私は自分をやるしかない状況に追い込んだ。
言うなれば、背水の陣である。
「高等部を卒業したら、戻ってまいります」
「待っていますよ」
「はい、ありがとうございます」
深々と頭を下げた後、私は踵を返す。
振り返って、父の顔や屋敷を見るようなことはしなかった。不安がっていると思われたくなかったし、何より旅立ちに際して、前だけを見て歩いていきたかったから。
「それでは父上、行ってまいります」
最後に、それだけ告げて。
「ええ。一回り大きくなって帰ってきなさい」
父と、十六年間過ごした屋敷に背を向けて。
これから三年近く暮らすことになるであろう、風丘の町に向かって――、私は、足を前に進めた。
風丘にて生活するためのアパートに越した次の日、学園祭の話で持ちきりになっていた私立風丘学園に、私は転入した。
風丘が、どのような町であるか――それはまた別の機会に譲るとして。私は転入早々、トラブルに巻き込まれた。
風丘は、世に言う不良と呼ばれる種の若輩者たちが、未だにそこかしこでバイクや車での暴走、そしてケンカといった非生産的な活動に明け暮れている前時代的な場所として、一部ではかなり有名だったらしい。
私も転入早々、そうした手合いと思しき女生徒たち数人に校舎裏へ呼び出しを受けたのである。
「転入生さん、悪いんだけどねぇ。これから平和な学園生活を送りたきゃあ、ちょいと払ってもらわにゃならんものがあるのよ」
サングラスに風邪用のマスクを付けたロングスカートの女生徒たちの一人が、声を凄ませて私に顔を近づけてきた。いやもう、本当に絶滅種ものの時代錯誤な女生徒たちであった。
「お前もさぁ? イヤだろ、学校生活が辛いもんになるのはよぉ」
「それは、無論」
「無論、だってよ!」
「時代がかった喋り方すんねぇ?」
「カッコ良いじゃん!」
そんな時代錯誤な女生徒たちから、“時代がかった”などと、実に知能指数の程度が知れる笑い方で私を嘲笑われた。
「話が早くて助かるわ」
先ほどの、サングラスマスクの女性が一頻り笑った後に私の前へ手のひらを差し出し、眼前でヒラヒラと上下させた。
「今回は初めてだから、三万でまけてやる。出しな」
「ご冗談を」
私も笑った。
友人や家族に向ける、親愛の証となるものとは違う笑いを。
「多数を持って一を囲み、金銭を巻き上げようなどという輩に、掛ける情けの必要性は感じません。──ご覚悟を」
そのセリフと共に、私は掌でサングラスマスクの顎を打ち上げた。
顎を打ち、脳を揺らして気絶させる技である。不意をついたこともあり、これに耐えられる筈はなかった。
「てっ!?」
「てめえ!」
いきなり私が闘争を始めるとは思ってなかったのだろう。女生徒たちはサングラスマスクが気絶させられたことに浮き足立った。
「遅い」
一番近くにいた女生徒に駆け寄って鳩尾に拳を叩き込み、身体を反転させてその場からさらに近い別の女生徒の顔に踵を見舞う。一瞬にして三人。
私に挑むには修練が足りなさ過ぎる。さすがに少し辟易した。
「……呆れましたね」
私はそんな気持ちを微塵も隠すことなく呟き、残った四人ほどをそれぞれ睨み付ける。
「この程度の実力で、私をどうにかしようと……?」
侮られたものだ、と私は思った。
気配によって、実力というものはある程度伝わるものであるという。
それが事実ならば、私は未だにこの程度の輩に侮られる程度の気配しか纏えていない、ということだろう。そのため私は、自らの実力が未だ低いと言われたようで頭に血が上ってしまった。
後になって考えれば、それもまた未熟の証。早く立派な武人になろうという焦り、初めて訪れた町での新生活。それらが私を常ならぬ心理状態に追いやっていたのだ。
しかしこの時には、その怒りを彼女たちへの暴力として振るった。早い話がストレスのはけ口、ふがいない自分への憤りに対する八つ当たりを、正当な怒りだと都合よく信じたのである。
「お灸が必要ですね」
腹部に左拳の一撃。その衝撃で前かがみとなった後に右手刀による後頭部へ一撃。勢いついて前のめりに地面に倒れこもうとするその横顔に蹴りの一撃。
私が狙い定めた一人は、もんどりうって校舎の壁に激突。急所は外し、壁にぶつかる角度も考慮にいれたから、死ぬようなことはない。せいぜい二・三ヶ月、病院の手を煩わせるくらいだ。
一瞬のうちに、問答無用で叩きのめされた自分たちの仲間の姿に、残った三人はようやく自分たちがどういった人間に挑んだのか、分かり始めたようだった。
だが、それを手遅れという。
逃げ腰になり、踵を返そうとしている三人のうち一人に素早く駆け寄って足払い。私に向けて仰向けに倒れてくる相手の背中、心臓の裏側になる位置に拳を打ち上げるように叩き込み、呼吸を一瞬止めさせる。
そのままエビゾリとなった相手の顎を開いた手で掴み、身体を捻ると振りぬくように相手を投げ飛ばす。これで、病院行きが二人。
だが、まだだった。
こんなものでは生ぬるい。自分は将来、弟に代わって伊勢古武術奥多摩支部を任される身。情けは無用。自分にも、他者にも。
そんな精神状態になっていた私だ。未熟者の烙印に相応しい愚かしさであった。
逃走を始めた残り二人も、病院送りにすべく私は駆け出した。
私の反撃など想像すらしていなかったのだろう、足をもつれさせたこともあったのろう。容易に追いついた私は、うちの一人を倒すべく首筋を目掛けて手刀を放つ。
私の手刀は相手の首筋を打ち据え、前のめりに倒す──筈だった。
「はい、そこまで」
とぼけた口調でそう告げつついきなり現れた(ように感じられた)第三者の手に、絡めとられるように私の手刀は止められていた。
「何事もやり過ぎはよくないぜ、転入生?」
私の手刀を難なく受け止めた人間。
それが、彼女──久遠沙織との、初めての出会いだった。